兵舎の廊下を歩きながら、掌にある二本の鍵をnameは見つめた。 一つはスペアキー。 もう一つはいつの間にか戻ってきた常用の鍵だ。
今日のリヴァイはいつもと違った。 朝の遅刻を咎めることなく、寝惚けまなこでいた会議中も一度も注意を受けなかった。 何より、殆ど目を合わせてもらえなかった。
(昨日のことがあったせい、よね)
まるで一晩の過ちでも犯してしまったかのようだ。 だがそれ以上の心苦しさを、彼は感じているのかもしれない。
04 物語
ハンジは珈琲を啜りながら、曇った眼鏡の向こうの彼女を静かに見つめていた。 古い民話を真剣に読み耽るnameの横顔を。
───昔、ある村に旅人が訪れた。 村には美しい娘がおり、娘は旅人に恋をした。 その頃から村人が何者かに襲われ始めた。 夜が明けると、女は血の気を失った青白い顔で見つかり、男は行方がわからない。 一人また一人と人間がいなくなる。 心配になった娘は旅人の元を訪れた。 旅人は口のまわりを赤く染めていた。 旅人は吸血鬼だったのだ。
娘は死を悟った。 吸血鬼は真の姿見られると、見た者の血を吸わずにはいられないのだ。 そうしなければ飢えて死ぬ。
しかし、旅人は娘を襲わなかった。 否、娘の血を吸うことはできなかったのだ。 愛する人の血を吸えば肉体と精神が変質してしまうという、吸血鬼の呪いのせいで。
そう。 旅人は娘に恋をしていた。
nameはペラリと次のページを捲った。 もう話の続きは書かれていなかった。 どうやらこれで終わりらしい。 最後のページには吸血鬼と思われる旅人の挿絵が描かれていた。 全身黒の装い。 口からは牙が二本突き出ている。 恐ろしい様相だが、瞳は悲しげに見えた。
「続きはないんですか?」 「ないよ。民話だからね、一話完結さ」
本を綴じた彼女の元にハンジは珈琲を置く。 nameは礼を言うと、苦手なブラックに口付けた。
読後の感想としては妙な納得感というところか。 挿絵の男と昨晩のリヴァイはまるで鏡写しをしたように似ていた。 理性を欠いた言動にも説明がついた。
nameは苦味に眉を寄せながら溜息をついた。 こんな夢物語のようなことが現実に、しかも自分の身の回りに起きるだなんて。 どうして突然、こんな。
「…………」
nameはカップを置いた。 再び本を開いて目を通し始める。 その様子にハンジは目を丸くした。
「随分気に入ったんだね」 「…ハンジさん、この旅人はどうして吸血鬼だったのでしょう」 「え?どういう意味だい?」 「生まれつき?それとも何かのきっかけで吸血鬼になったのでしょうか?」
当然だが、リヴァイは普通の人間だった。 人類最強と呼ばれる強さはあるが、それはきっと吸血鬼化とは関係ないだろう。 この数日で、何かきっかけがあったに違いない。 何か、何かきっかけが───。
nameは見張り番をした夜のことを思い出した。 リヴァイに襲いかかった鋭利な犬歯が脳裏に浮かんだ。
「犬…?」
一点を見つめてnameは呟いた。 あの狂暴犬は明らかに異常だった。 空腹を満たすためだけに牙を向けた姿は、血に飢えた吸血鬼に似ている気がした。 もし、あれが原因なら。 "噛まれた"ことが原因ならば。
「…!」
nameは咄嗟に首の傷に触れた。 彼女の様子を黙って見ていたハンジは、本のページを捲りながら話し始めた。
「吸血鬼に噛まれた人間は吸血鬼になる。その考察には私"も"賛成だ。けど、相手が異性なら?」 「え…?」
書面の一節をハンジは指差した。
「ここ。"女は血の気を失った青白い顔で見つかり、男は行方がわからない"ってあるだろう?血を吸い尽くされた女は遺体で見つかってるのに男はそうじゃない。この男達はどこへ行ったのか?」 「それは…どこかに隠したとか」 「遺体を見つけられたくないなら女だけそのままにしてるのは変だよ。私が思うにね…恐らく男達は吸血鬼になったんじゃないかと思うんだ」 「!」
吸血鬼に噛まれた男は吸血鬼化した。 そして彼らもまた、血を求めて彷徨い始める。 ハンジの考察にnameは静かに頷いた。
「だとしたら、娘が無事だったのは奇跡ですね」 「…………」 「毎夜、吸血鬼が増える中で襲われなかったんですから」 「…いや、そこがこの話の深いところだよ」 「え?」
珈琲をつぎ足すハンジの眼鏡が白く曇った。 淹れたての芳しい香りが鼻腔を擽った。
「行方不明になった男達には娘と喋った描写がある。女達はそんなことないのに」
nameは台詞の箇所に目を通しながら確認した。 確かに、ハンジの言う通りだ。
「もし、男達が娘に好意を寄せていたとしたらどうだろう?旅人の吸血鬼が彼らに噛みつく理由は充分じゃないかな」
そこまで言われてnameははっとした。 顔を上げた彼女にハンジは頷いた。
「吸血鬼は愛する人の血を吸えない。だから真の姿を見られるわけにもいかない……吸血鬼化した男達が娘に恋をしていたのだとしたら、リスクが高すぎてもう彼女に近づくことはできなかっただろうね」 「旅人は娘をとられたくなくて…それで」 「自分と同じ運命を背負わせることで、娘を独占しようとしてた……っていうところまで考えるとこの話はもっと面白いと思わないかい?」
ハンジはウインクしてみせた。 しかしnameは眉を下げた。
「そうまでしてしまうほど愛していたのに、結ばれない運命なのは悲しいですね」
普通の人間であれば愛し合えた相手なのに。 悲劇の中心となってしまった二人は、その後どんな結末を迎えたのだろう。 挿絵の旅人はやはり悲しい目をしている。
「まあ、そんなわけだからさ!あくまで私の考察の範囲に過ぎないけど、噛んできた相手が男ならnameは吸血鬼にはならないんじゃない?」 「そうですね。それは一つ安心できま……」
思わずハンジに同意したnameは表情を固めた。 目の前にいる彼女は好奇心に染まった瞳を輝かせ、前屈みになっていた。
「それで?吸血鬼にはどこで出会ったの?」 「い…いやいやいや!何言ってるんですかハンジさん!これは物語ですよ!?」 「ええ?だって首に噛み痕があるじゃないか」 「これは!む、虫ですよ!」 「ふーん?そうは見えないけどなあ」
まあそういうことにしてあげるよと、ハンジは楽しそうに笑った。 彼女は予感に胸を躍らせた。 nameの首の傷や吸血鬼に対して勉強熱心な様子は、面白そうな匂いがするのだ。 自分の見えないところでファンタジーが始まっているような、そんなワクワク感でいっぱいになった。
「あの、この本をお借りできますか?」 「うーん、禁書だから本当は持って行ってほしくないけど。兵舎の外に出さないと約束してくれるならいいよ」
nameはお礼を言って頭を下げた。 そして、本を大事そうに抱えて足早に部屋を出ていった。 走り去る彼女の背中を見送る。 そこでハンジはふと気がづいた。 この先にあるのは空き部屋と、リヴァイの部屋だけだ。
(……まさかね?)
リヴァイが吸血鬼になった姿を想像してみる。 意外と似合っていて思わず笑いそうになった。 nameの足音が遠ざかったのを確認したハンジは笑いを堪えながら自室へと戻った。
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