バレンタインデー
「鈴木主任。あの、チョコなんですけど。よかったら食べて下さい!」
「ありがとう。お返ししたいから、名刺も貰える?」
年に一度やってくる面倒な日。ちょっと他の部に行く間にも手渡されるし、デスクへ戻る度に増えている包み。電話番号やアドレスの書かれた名刺やメッセージカード付きのそれが山になっていくのを見て、憂鬱な気分になる。
営業先の人なら喜べるんだけどな。また話すきっかけ作りにもなるし。でも同じ会社の人間なんて、メリットがない。むしろ面倒だ。
それに……島崎のデスクにも、小さい山が形成されていくのが目に入って腹立たしい気持ちになる。これはもしかしなくても、嫉妬だ。
もう30手前になるっつーのに、義理で渡されるバレンタインチョコに嫉妬かよ。自分が情けない。……まあ、中には本命ももちろんあるんだろうが。そう思ったら、眉間に皺が寄っていることに気が付いた。営業はまず顔。表情だ。眉間の皺なんかが定着しないように、撫でるように伸ばした。
「……ハァ」
溜め息。ツキが逃げるぜ。これ以上社内にいても、モヤモヤが募るだけだ。得意先を回って、ご機嫌取りでもしてこよう。
会社のエントランスから出て、駅の方へ身体を向けた時だった。
「主任っ、今から外回りですか?」
「あ、おう」
「どちらに行かれるんですか? もしお邪魔でなければご一緒させていただけませんか?」
犬が飼い主に散歩に連れて行けと言うように瞳をキラキラさせている。そんな楽しいものじゃない。商談をするつもりもないから大して勉強になるようなことでもない。
「ちょっと得意先に顔でも出してみようかと思っただけだ。ついて来ても、あまり意味ねえぞ」
「いいんです。ただ、主任と一緒にいたいだけって言ったら、怒ります?」
就業時間に下らないことを言うな。上司の俺が言うべきことはそれなんだろう。だけど、バレンタインなんていうイベントのせいでささくれ立っていた俺には、シュン、と罰の悪そうな顔をしている島崎が可愛く見えてしまった。
「その代わり、今月もきっちり契約取って来いよ」
「了解です! 今行って来た岩田物産、もう一押しだと思うんですよ!」
「おー、期待してるぞ」
頭を撫でてやりたい。そんな風に思うほど島崎の顔は笑顔いっぱいで、可愛い。本当にでっかい犬みたいだ。
得意先に顔を出して、軽く島崎を紹介した。少し仲良くなった女性社員の方からバレンタインのチョコを頂いて、島崎が喜んでいた。こういう反応をされれば、あげた方も嬉しいだろうと思うくらい大袈裟に。やっぱり島崎は営業向きだよな、と再認識した。
「メシ食ってから戻るか。何食いたい?」
「そうですねー。座って落ち着いて食えるとこなら何でもいいです」
「なんだそれ? 珍しいな。お前そういうことあんまり言わねえのに」
島崎は仕事をしていない時間というのをあまり好ましく思っていないようだった。内勤と違って、俺らは営業なんだから、外で何してたって分からない。それに、営業は人に会ってなんぼだから、社内にいると逆に仕事をしていないように思われてしまう。何となくデスクに居づらい雰囲気があるせいで、用が無くても外で時間を潰す奴なんていくらでもいる。
そういうことを自分に許さない真面目さが、こいつのいい所だと俺は評価していた。
「主任にちょっと、話があって」
「話?」
「まあ、食後に話します。時間、大丈夫ですか?」
「俺は、別に」
何か悪い話でもされるのだろうか、一瞬そんな後向きなことを考えたが、島崎にそんな様子はない。とりあえず適当なファミレスに入って、昼食を済ませた。
「で? 話って?」
「あの……ですね」
ゴソゴソと営業鞄を探る島崎。仕事の話か? 何か会社で話しにくいことでもあるのか?
「これ、なんですけど」
島崎が取り出したのは、どう見てもプレゼントらしき包みだった。今日がバレンタインデーだということを考えると、チョコレートでも入っているのだろうか。
「それがどうした?」
「今日、バレンタインじゃないですか。だから、主任に渡したくて」
「は? 俺に?」
「やっぱ男が男にっておかしいですよね。でも俺の好きな人は主任だし、だから、その……受け取って下さい」
島崎から俺に。その発想はなかった。だからもちろん俺からなんて用意していない。まずかったかな。仮にも付き合ってんのに。
「悪い。俺は用意してないわ」
「え! そんな、いいんです! 俺が勝手に渡したいって思っただけですから」
「……じゃあ、有難く貰っとく。サンキュな」
俺が笑ってそう言うと、島崎がその何倍も笑顔になった。今日初めて、受け取ったその包みを喜ばしく思った。ひどい男。
来月はちゃんと用意しておくから、またその笑顔を見せてくれ。さあ何をプレゼントしてやろう。
ホワイトデーを待ち遠しく思うのも、初めてだ。
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