26-1
9月も終わり、10月になった。竹下さんに避けられるようになってから、まだ二週間も経たない。それなのに俺はどうしてしまったのか。以前のような猛烈な辛さやどうしようもない悲しさは、もう無い。心は妙に凪いでいた。
会いたくて、声が聞きたくて、笑った顔が見たくて、触れたくて、触れて欲しくて……制御不能な欲が膨らんで、膨らみ過ぎて、いつしか見失っていた。竹下さんの隣は、俺のものにはならないってこと。どんなに望んでも、そこに立つのは女性だ。竹下さんに相応しい綺麗で優しい女性。男の俺が望んでいい場所じゃない。
これでよかったんだ。気付けてよかった。竹下さんの前でこれ以上の無様な姿を晒す前に、離れることができてよかった。強がりじゃなく、そう思える。
同じ学科の奴らに飲みに行こうと誘われて、首を縦に振った。そんな気分じゃないと思うほど億劫でもないし、ヤケになって飲みたいと思うほど落ち込んでもいない。
待ち合わせまでの空いた時間は、サークルの部室に行けば誰かがいるから退屈しないだろうと、スナック菓子を手に向かった。そこに竹下さんがいるかもしれないという淡い期待はしていない。でも、スナック菓子は竹下さんの好きなもの。無意識的に手に取ってしまう自分に呆れる。
部室のドアを開けると、金木犀の甘い香りがした。室内には本を読んでいる三木さん。そして、紅茶の紙パックに活けられた金木犀があった。
「それ、どうしたんすか?」
「それ? これか?」
三木さんが金木犀を指差した。俺は黙って頷く。靴を脱いで、こたつテーブルを挟んだ三木さんの向かいに腰を下ろした。
「小野さんが持って来たんだろ」
「なんでわざわざ?」
「……俺の、好きな花だから、だろ……」
わざと顰めっ面を作って、そう言う三木さん。嬉しいってことが隠せていない。小野さんは、三木さんのこういうところが好きなんだろうな。と、そんなことを思った。
「金木犀の花言葉って知ってるか?」
「え、知らないっす。っていうか、花言葉なんか一個も知らないっす」
「まあ、俺も他は知らねえけど。前に小野さんが言ってたんだ」
「はい」
「金木犀の花言葉は、謙虚、気高い人、初恋……なんだとさ。金木犀は花が咲く期間はすごく短い。それなのに印象の強い香りがいつまでも記憶に残る。そういうところから来てんだって、言ってた」
普段の小野さんからは程遠いイメージの知識と発言だな、とか失礼なことを考えた。でも、その話をする三木さんは幸せそうで……三木さんは小野さんの色んな顔を知っていて、小野さんを邪険に扱っているようでも、いつだってその中には尊敬や好意が確かにある。
小野さんにしか見せない三木さんの一面、三木さんにしか見せない小野さんの一面。お互いにしか伝わらない本心や、妥協、甘え、信頼。そういうものが、竹下さんと俺の間にも築けていたなら、こんなにもあっさりと竹下さんにとっての不要な存在に振り分けられることはなかっただろう。
「ユキ、元気なくね?」
「そんなことないっすよ」
「竹下になんかされた?」
「何でそこで竹下さんが出てくるんすか」
「最近一緒にいるとこ見ねぇしさ、竹下もピリピリしてるから。なんかあった?」
相談したいとか、そんな気にすらならない。霧島さんの前で泣いてしまった時のような激情が、今の俺の中には少しもなかった。
「何でもないっすよ。気にしないで下さい」
三木さんはそれ以上は何も聞いてこなかった。納得したのか、気を利かせてくれたのか……まあ、後者だろうけど。
俺も漫画を鞄から出して、読み始めた。霧島さんがごり押してくる漫画だ。続きが回ってきたってことは、竹下さんが読み終わったのかな。
スン、と鼻を鳴らして漫画の匂いを嗅いだ。俺の鼻が感じたのは、竹下さんの香水じゃなくて、金木犀の甘い甘い香りだけだった。
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