切れかけの蛍光灯がちかちかしている。 いくらのぼりなれたと言っても、この急な階段はいつまでたっても好きにはなれなかった。 心臓はずっとどくんどくん、うるさいくらいで、連日一桁台の寒さがしみて目は潤むし、のどはからっからだしもう散々だ。 深夜三時、街はすっかり夢のなか。 ただひとり場違いな俺はどたばた言わせながら階段をのぼりきって、四階、二つめのドア。ノブをひっぱったらがっちゃん、鍵が思いきり反発する音がした。 ……そりゃあそうだ、こんな時間なんだから。 「きりのせんぱい!」 ドンドン、ドンドン、夜中だとか近所迷惑だとかそんなことはもう考えられなくて、うすい壁を力いっぱい叩いた。 しばらくして飛び出してきた先輩は髪もぼさぼさ、ねまき代わりのジャージはヒモがゆるんでだるだる、おせじにもかっこいいとは言いがたいすがただったけど。 「おま、なに――っうわ!」 寝起きで高めの体温はあまりにも心地よくて、思わずぽろり、涙がでてしまった。 せんぱい。 情けなくふるえた呼び声をきいた大きな手のひらが、まるでこどもをあやすみたいに俺のうしろあたまを撫でる。 「……だいじょうぶだぞ、狩屋、だいじょうぶだから」 落ち着いたやさしいことば。 心配なんかさせたくないのに、だいじょうぶだって答えたいのに、涙はあとからあとからあふれてとまらない。背中に腕をまわしてぎゅうぎゅう抱きつくと、おなじようにつよく抱きしめかえしてくれた。 けっして俺を見放さないあたたかさ。依存してしまったらそこから動けないとわかっていたけれど、そんなのもうずっと前から手遅れだ。 「せ、っんぱい、おれ、おれね、」 「うん」 「い、いえで、してきちゃった……」 そう言ってからまたわんわん泣き出す俺を先輩はどう思っただろう? 抱きしめる力がもっとつよくなって、くるしいくらいだった。 「だいじょうぶ」 って不確かなことば、なのに先輩が言ったら、ほんとになんでもだいじょうぶな気がして安心しちゃうからよくない。ちっともだいじょうぶなんかじゃないのに、でも先輩を信じていないとおかしくなってしまいそう。 「せんぱい、」 「……狩屋」 呼んだら呼び返してくれる、それだけでどれだけすくわれることか。 うながされて深呼吸をして、だいすきな先輩のにおいを胸いっぱいに吸い込んだら、すこしだけ心が楽になった。細長い、でも骨ばった男のひとっぽい指が目尻をそっと拭う。 なぐさめるようなキスをひとつもらったら、魔法にでもかかったみたいに涙はとまってしまった。 「……だいじょうぶだよ」 もう一度、言われてこくんとうなずいた。 だいじょうぶ。そうだ、だいじょうぶだ。ほかのなにをなくしたって、俺には霧野先輩がいるんだから。 大学生になって一人暮らしをはじめた先輩は、以前よりぐっと大人びて見える。年の差は中学のころからかわらないはずなのに、見た目というか雰囲気というか、高校生と大学生ではこんなにちがうものだろうか。 いつか俺を置いてひとりで遠くへ行ってしまいそうだと、どうしても不安になる。 本人に伝えるとわらいながらそんなことあるわけないだろと返されるけれど、実際家の距離ははなれてしまって、会いたくて仕方なくて自転車を走らせる三十分、胸のうちはいつだってざわめいていた。 402号室、ドアを開けるとあふれだす、先輩が使ってる柔軟剤のにおい。あったかくてやさしい、先輩にぴったりのかおり。 これいいですねって言ったら、おまえがすきそうだなって思ったから買った、なーんて。あいされてるなあと感じる瞬間を、たくさん、たくさん与えてくれる。 「落ち着いた?」 先輩がいれてくれたホットココアをすすりながら、こっくりうなずいた。こんな時間に押しかけたのに、先輩は文句ひとつ言わないで、ほんとうによくできたひとだと思う。 「ほら、これ着てな」 ふんわり、肩にかけられたちいさめの毛布からは、やっぱりあの柔軟剤のにおい。とてもとても安心する。ふたり掛けのソファ、俺のとなりに先輩は腰をおろして、自分のぶんのコーヒーに口をつけた。 「……ヒロトさんとけんかでもしたのか?」 へんに気を使わないこの人の聞き方がすきだ。 いつだって真っ正面からぶつかってきてくれるから、裏表のないやさしさはじんわりこころに染みる。 もう一口、ココアをのどに流して、それからマグカップをテーブルに置いた。 カーテンの向こうはまだ暗い。 「……進路のことで、少し。俺は一人暮らしがしたいって言ったんですけど、第一志望の大学がそう遠いほうでもないから、家から通いなさいって」 「どこ志望だったっけ」 「A大です」 「あー……たしかに、おまえんちから通えなくもない距離かもな」 受験自体はまだ済んでいないけど、学力的にはそう焦るほどでもない。 あたまのカタい担任にも、体調さえ崩さなければいけるんじゃないかと言ってもらえたし、ずっと勉強をみてくれたヒロトさんだって、当日まで気は抜かないようにって言って、きっと誰より応援してくれていたのに。 今になって反対されるなんて思ってもみなくて、それがなんだかすごくショックで、口論がヒートアップした勢いで家出までしてしまった。 「狩屋はなんで一人暮らししたいの?」 「……いろいろありますけど、大学生にもなって園のお世話になるのはちょっとな、って思ったのがいちばんの理由ですかね」 「それは言った?」 「言いましたよ。そしたらそんなこと気にしなくていいってつっぱねられました。ヒロトさん、お金ならいくらでも持ってるからって」 きっと、俺の思っていることの半分も理解しちゃくれなかった。 だだをこねてるわけでも、遊びたいわけでもない。 十一のころから迷惑をかけてきたし、俺だけ雷門に通わせてもらったり、高校だっていいところに行かせてくれて。 感謝は抱えきれないほどしてる。でもだからこそ、もうそろそろ自立したいと思ったのに。 「親御さんってそんなものだって。やっぱり子どもには目の届くところにいてほしいんだろ」 「先輩は一人暮らししてるじゃないですか」 「俺の大学、実家からじゃ遠いからなぁ。これでも説得するのに結構時間かかったんだぞ」 「そうなんですか?」 「ああ。父さんは自活のたいへんさを知れって言って送り出してくれたけど、母さんがだめでさ。最終的には父さんがなんとかなだめてくれて、無事に一人暮らしさせてもらってる」 「ふーん……」 来てもいいよ、と言われたから、暇さえあれば会いに来ていた。 先輩の部屋は散らかっているでもなく、かといってあんまりきっちり片付いてるわけでもなく。妙に居心地がいいというか、落ち着くというか、まあそこに先輩がいたらたとえどんなとこでもおんなじように思うのかもしれないけど。 「それで、どうすんの? 制服や教科書は持ってきたみたいだし、ここにいる気なんだろ?」 「……いい、んですか?」 「こんな時間に飛び込んできて今さらなにを言うか」 「だ、だって!」 「まあ、いてくれるぶんにはかまわないから。なんなら生活費半分払う?」 「そ、そりゃあもちろん出しますよ」 「えっ、まじで? 冗談のつもりだったんだけど」 わざとらしくびっくりしたようなふりをして、先輩がけたけたわらう。 泊まったことなら何度かあった。連泊も数回。でもこんな、期限のはっきりしないのははじめてだ。 家出だなんてちょっといけない理由にしろ、先輩とおなじ部屋で暮らせると考えると否応なしにわくわくしてしまうわけで。 「えっと、それじゃあ、お世話になります」 「はいよ。お世話させていただきます」 にかっと明るくわらった先輩がぽんぽんあたまを撫でる。 402号室、先輩の部屋。 今日これからしばらくは、先輩と俺の部屋。 |