笑っているくせにどこか寂しそうに潤むあの目が強く記憶に残っている。すがりかたを知らない手のひらはいつだって勝手にあきらめて離れていった。俺がそれに気づいて手を伸ばしたときにはもう、いくら頑張っても届かないほど遠く、とおく。


 狩屋のくるくる変わる表情が好きだった。むすっとしてみたり、出会ったころのような悪役顔をしてみたり、はたまた猫をかぶったり、おどかされてびびったり、わかりやすくすねてみたり。なかでも一番好きだったのが、霧野先輩、って俺を呼ぶときの、はにかんだようなあの笑顔。生意気な狩屋がたまに見せる無邪気なそれがかわいくてかわいくて、振り返るときにやけそうになるのを必死になってこらえてた。

 十九歳の俺のとなりに、狩屋はいない。今となってはもう懐かしい話だ。俺が中学二年、狩屋が一年。噛み合わなくていがみ合って、何度だってぶつかってけんかした。でも同じ数だけ仲直りもしたし、おわびの気持ちに半分こしたチューチューアイスの数は部内一。たぶん今も、後輩たちにその記録を塗り替えられちゃいないと思う。

 嘘と虚勢だけ妙に歯切れがよくて、それ以外はてんでダメなやつだった。かたくなな心をふやかして、やっと本音を引っ張り出したそのとき、ああ、どうしようもなくいとおしい、と。真っ赤な耳があんまりかわいかったから抱きしめて俺のものにした。狩屋は泣きながら笑ってて、俺はなにがなんでもこいつをしあわせにしよう、そう思った。


*



 それはあいつが高校に無事入学した春のこと。たとえ今までより会う回数が減ったって絶対に好きなままでいる、と誓いあってまだ間もないころ、"両親が迎えに来た"という一文の、質素なメールが俺の携帯電話に届いた。

 ある冬の静かな帰り道、狩屋がゆっくりゆっくりきかせてくれた話。住んでいる場所のこと。自分を置いていった両親のこと。かなしくてさびしくてたまらなかったこと。そのうちに段々、諦めるのを覚えたこと。俺の手を握るちいさな手がいつもよりぎゅっとちからをこめてきて、何があっても俺はこの手を離してはいけないような気がして。サッカーのこと、それを通じて知ったこと、俺と出会ったこと、いつしか俺を好きになったこと。狩屋の頭を撫でたら泣かせてしまって、先輩がいてくれてよかったってことばで俺も泣いて。親がいなくてももう寂しくないよ、先輩が埋めてくれるから痛くないよ、狩屋が笑って、俺はまたすこし、泣いた。

 狩屋はそのメールのあと、ぱったりと連絡をよこさなくなった。離れても変わらない関係を築いていくつもりだったあの当時、それがあまりに耐えがたくて、不安でたまらなくて、学校どころか家でも荒れてばかりいた。今思えば狩屋も親と色々あって連絡どころじゃなかったんだろう。
 やっと落ち着いたのか、会いたいと電話がかかってきたとき、すでに俺はふっきれてしまっていた。待ち合わせに彼女を連れていったあの日、狩屋は、まるで出会ったころのような作った笑顔を浮かべていて。

「霧野先輩、俺ね、引越しするんです」

 切り取って貼り付けた笑みはひどく機械的だった。状況を理解していない俺の彼女だけが能天気にこの子が蘭丸の後輩? かわいいねーなんて言ってて、ひとりだけ場違いなくらいしあわせそうに見えた。狩屋はもう、俺に笑わない。

「やっと生活が安定したらしくて、俺がまだ親といたいと思ってくれているなら、一緒に暮らさないかって言われて」

 にこにこ、にこにこ話し続ける狩屋がすこし怖かった。お互いに変わってしまったことを今更気付く。戻れないことを悔やんだってどうにもならなかった。つらいことから逃げたくてそっちの道を選んだのは、紛れもない俺自身だ。

「それで、稲妻町から出てくことにしたんです。先輩には色々お世話になったし、言っとかなきゃって思ったので……」

 自分がそのあと何を喋ったのか、あんまりよく覚えていない。途中で彼女が心配そうに蘭丸? って俺の名前を呼んで、あれ、そう言えば狩屋は霧野先輩って呼び方に戻したんだなあ、と。俺もマサキなんて馴れ馴れしく呼べやしない。

「先輩、ねえ先輩」

 別れ際に手招きされて耳を近づけると、狩屋がささやくように言った。「あの人、かわいいね。先輩とお似合いだと思います」 そうして、最後のさいごだけ、ついさっきまで薄れて忘れかけていたあの笑顔で、泣くみたいに笑う。

「しあわせに、してあげてくださいね」

 はにかむようなその顔が両のまぶたを焼いた。痛くて、痛くてたまらなくて、改札口で手を振って駅のなかに消えていった狩屋の後ろ姿を見ることさえもできずに。泣き出した俺の背中をおろおろしながら撫でてくれた彼女はほんとうにかわいくて、やさしいいい子で、俺はこんないい子をしあわせにしてやれないことをまた、ひたすらに後悔するほかなかった。


*



 ワンルーム賃貸でも、たいした家具も服も持たない貧乏大学生ひとりには広すぎるくらいだ。休日の昼前、外は快晴、窓からは和やかな空気がふわりと吹き込んでくる。俺はと言えば、パソコンもテレビもつけないままベッドにねっころがって、真っ白い天井をただ眺めていた。

 あれから何度目かの冬を終えて、今年もまた春が来た。滞る人間関係なんてつゆしらず、時間だけは何にも左右されないで淀みなく過ぎていく。学校もない、バイトもない、平和で自由な今日も、一秒いちびょう終わりへと向かってる。規則正しい生活をしていたら、あまり寝ていなくても七時には目が覚めるようになってしまって、たっぷり寝ていたい派にはいい迷惑だ。なんとなく腹がすいたような気がしなくもないけれど、午後の予定を考えたら昼飯はまだ、いらない。

 鳴らない携帯電話をつまみ上げてしばらく弄んで、パタリと自分のそばに落とした。なかなか眠れなかったおかげで散々心の準備はしたつもりだったのに、いざ今日になるとどうにも落ち着かない。ベッドのそばのガラス製の天板の丸いテーブルには昨日買った雑誌が無造作に広げられていて、夜つけたばかりの赤い丸が誇らしげな顔して目立っていた。

 二年目に突入した俺の大学生活は順調すぎるほど順調だった。変わったやつもいるけれど、学科内の人数が少ないから男女問わず仲がいい。成績も悪くないし、新しく出来た友達もみんな面白いやつばかりだし、充実してるなーって思う。サークルは、迷ったけれど結局何にも入らなかった。バイトを優先したかったし、うちの大学のサッカーサークルはあんまりいい雰囲気じゃなくて、でもサッカーはしていたいから適当に人を集めて同好会として週二でわいわい自由に活動してる。

 ごろんと身体の向きを変えたら、棚に取り付けたフックからぶら下がった、網入りのサッカーボールが目にとまった。小学生のころからずっと蹴り続けてきたボールだから、もうずいぶんと煤けてボロボロになっている。はじめたばかりのころは毎日夢中になってあれを追っかけてた。気がつくと、同じようにサッカーが好きな友達ができていて、そのなかで一番仲良くなったのが神童だった。最初はふたりとも下手くそで、ずっこけたり膝をすりむいたり、ピアノを習っていた神童は指に怪我をして一時期サッカーするのを禁止されたりなんかして。

 楽しかったなあ。
 練習をすればするほどうまくなっていくのがわかる。どんどんできることが増える。活躍すればチームの勝ちにつながる。目標なんて決まってやしなかったけれど、あのころはただひたすらにボールを蹴ってるだけでしあわせだった。

 雷門中の生徒だった三年間は忘れられない。ほんとに色んなことがあった。はじめて知る管理サッカー、自由のないフィールド、日に日に抗う気持ちをなくしていくチームメイト。これでいいなんて思っちゃいなかったけど、でもどうすることもできないまんま従うだけ。そんなとき、天馬が入学してきて、円堂監督があらわれて。フィフスセクターからサッカーを取り戻す、って意気込んだ、ちょうどそれくらいの時期だった。狩屋マサキに、出会った。

 ぜんぜんいい出会い方じゃなかったよなあ、今思い出しても笑えるほど。まさかあいつと付き合うことになるなんて想像もできなかった。

 ぽかぽかあったかくて、ごろごろしていたらまた眠たくなってきた。ちらっと時計を見ても、さっきとたいして変わってない。あーねむい、ちょっとくらい寝ても問題ないしいいかな、ねむい、もうなんにもわかんねー、あー。枕と顔がべったりくっついたとき、ぴんぽーん、間の抜けたような音がワンルームにこだまする。……なんだっけ、宅配とか予定あったっけ。それともなんかの集金? なんにせよねむくて、居留守つかってもいいかなーなんて思う頭にもう一度、ぴんぽーん。三秒悩んで顔を上げて、ずりさがっていたジャージを適当にひっぱりあげてヒモを結んで、ぼさぼさの髪をてぐしで雑把にとかしながら、玄関とも呼べないただの靴置き場みたいなせっまい入り口のドアの鍵をひねった。

「はーい、霧野で――」

 立て付けの悪い金属のドアがギィと音をたてる。もっさりした学生ニートみたいな俺を見て、狩屋は、いや、マサキはびっくりしたように目をまるくして、それからとびっきりの笑顔で笑って。

「せんぱい!」

 腕のなかに飛び込んできた体温はあの日からちっとも変わってなくて、なつかしさを確かめるようにつよくつよく抱き締めた。「マサキ、……マサキ」久しぶりに口にした名前。いとしくていとしくてたまらない、俺のいちばん大切なもの。「ね、びっくりした?」いたずらっ子の笑い方で狩屋がたずねて、俺も笑う。

「うん、びっくりした。昼すぎって言ってたのに」
「待ちきれなくて予定より早く起きちゃったんで。……先輩髪の毛ぼさぼさだね?」
「早く来るのがわかってたらかっこよくしてたぞ」
「今のままでもじゅうぶんかっこいいよ」

 ぎゅっと抱きついてくるマサキを撫でて、部屋のなかに促してからドアの鍵をしめる。昨日までは、俺の部屋。今日からは、俺とマサキの部屋。うわー意外ときたない! せまい! なんて言ってるちっこいのをさっさとソファに座らせて、冷蔵庫を開けてカルピスの原液ボトルとミネラルウォーターを取り出す。グラスのなかで渦巻いて混ざる様子を真剣に見つめるその姿が可愛くて、久しぶりすぎて、見えないようにこっそり笑った。

「はい」

 手渡したグラスに口をつけかけたくせに、でも飲む前にちらちら見上げてくるので何だと思えば、どうやら立ってないで隣に座れということらしい。ほほう、にやにやしながら勢いよく横にダイブしてやったら、ぎゃあこぼれるでしょ先輩のばか! と叫ばれて、ああ、可愛くておかしくなりそうだ。

「おいしい?」

 きけば、こくんと頷く。こいつの好きな割合をまだ覚えてる。ちっちゃな口がこくこく言いながらカルピスを飲んでいくのを眺めているうちに、だんだんたまらなくなってしまって、グラスをそっと奪いとった。肩に手を回したら、顔が近くて、あんまり久々なもんだからドキドキしてしまう。俺の緊張なんてお見通しなのか、マサキはちょっとだけ笑って、それから目を閉じる。
 唇を重ねたらやっぱりカルピスの味がした。こつんと額をあわせて、視線を絡めて、二回目のキスをして。先輩もしかしてへたになった? って、へらず口は相変わらず。

「今日からまたいっしょだな」
「うん」
「マサキが大学生かー」
「何ですか」
「何でもないよ」
「先輩」
「うん?」
「好き」

 残りのカルピスを飲み干して、グラスをテーブルに置いて、マサキが笑う。

「先輩、大好き!」

 はにかむようなこの笑顔を、今度は絶対なくしてやるもんかと。誓うように、祈るように、君を必ずしあわせにすると決めた。




20120920 miyaco
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