その夜だけは二人で過ごしたい、と春奈が言うので、ホテルの部屋を取った。自分の結婚式の前日にそんなことを言い出す、それがこの世に二人きりの兄妹だからという理由を超えているものだというのは、誰に言われずとも理解ができていた。食事と少し上等のワインを嗜み部屋に入って告げられた言葉は予想通り、一度でいいから抱いてほしい、だった。すう、と頬に流れた一筋の涙を何も言わず親指で拭った。


ざあざあ、と布団の中で聞く雨のような鈍った水の音が止みしばらくすると、バスローブではなくバスタオルを体に巻きつけただけの春奈が出てきた。入れ違いにバスルームに向かう。柔らかい石鹸の香りが、蒸気の中に立ち込める四角い空間。少し温めのシャワーで体を濡らす。喉の奥に、ワインの苦味がまだ残っていた。

サッカーとも、鬼道有人とも関わりがない人間と付き合い、恋愛をし、結婚することを選んだ春奈は賢い。人の良さそうな義理の弟になるその男の笑顔を思い出す。きっと、ああいう人間は妹を幸せにしてくれる。
それでも、世間的にはあってはならないことを言い出した気持ちも理解できた。
人間の涙の流し方には色々な種類がある。感情をダイレクトに連動するもの、一滴、一滴とコップの中に水を溜めるように、ある瞬間に溢れるもの。さっきの春奈の涙はおそらく後者だ。
自惚れかもしれないが、ずっと想われていたことは知っていた。だから自分とは全く違う男を選んだとも思っていた。つまりは、この行為はけじめのようなものなのだろう。自分の気持ちに折り合いを付けて嫁ぐための。
それを受け入れるのが、正しくないことは知っている。けれど、どこかでそれを望んでいた自分もいた。涙を流さずに泣ける人間だっているのだ。最初で最後のこの一度で、自身の長い間の想いにも諦めを付けよう。そして、明日は兄として妹の門出を祝おう、と決心した。

頭から被ったシャワーが全身を余すことなく濡らす。その中で息を吸い、一度止めた。何度口をゆすいでもワインのほろ苦さが消えない。喉の奥に何かが引っ掛かっている。……罪悪感。背徳感。いや、違う。
コップに溜まった水を空にしても、水滴自体を止めなければまた溜まる。そのとき、春奈はどうするのだろう。きっと今よりずっと苦しむ。けれど、俺たち兄妹は水滴の止め方を知らない。もし、それを知っていればこんな想いを抱えることはなかった。


シャワーを止め、体を拭いて、もう一度スーツを着た。そのまま部屋に戻ると、ベッドの上でただ壁を見つめ体育座りをしていた春奈の顔が歪んだ。……どうして?一度でいいの。兄さん、お兄ちゃん、お願い。ジャケットの袖に縋り付いた青い髪を撫で、服を着るように諭した。いや。わたし、こんな気持ちでお嫁になんて行けない。涙声でしゃくり上げる体を、そっと抱き寄せた。柔らかくて華奢なその女は、石鹸の香りがした。

「行かなくてもいい。だから服を着ろ」
「……それってどういう、」
「結婚から、全てから逃げよう、と言っている」

口を開けている春奈に、お前の兄さんはお前が思っているよりずっとどうしようもない人間で、おまけにひどく欲深くて、一度じゃとても足りないそうだ、と言ってやると、兄さんのばか、と胸元を何度も叩かれた。少し置いて、どうしようもない兄さんだからわたしがずっとそばにいてあげるわ、とこの日初めて春奈は笑った。

日が変わる前のホテルを、腕を絡めてチェックアウトした。行き先はまだ決めていないが、春奈がこうして隣で笑ってくれる場所ならどこでもいい。




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