恋をするまで二千年 02


 食堂から出ても、愛らしい師匠様はわたしを追いかけなかった。
 フィガロとの殺し合いで、わたしは何度か半殺しにされた。心が凍って、石になる寸前だったこともまあそれなりに。けれども彼を憎いと思えないのは、わたしが馬鹿で愚かだからだ。
 ただ、今でも不思議に思うことがひとつある。彼はわたしを容易く殺せる力があったにも関わらず、肝心なところでいつも殺そうとはしなかった。わたしの首に手をかけ、ほんの少しでも力を入れれば殺せる、そんな時にでさえ、突然興味を失ったかのように彼は身を引いていたのだ。ごめん、と言ってどこかへ消えていく背中を何度も見送った。だからこそわたしは、憎いと思えなかったのかもしれない。フィガロの諦観に一欠片だけ混じる、寂しさに気づいていたから。
 彼をこんなにも思い出してしまうのは、わたしたちと縁のあるスノウ様たちにお会いしたからだろう。そうでなければ、今頃は北の国の家に戻ってフィガロのことなんて考えもせずに薬を調合していた。彼との思い出を回顧して気分が悪くなるわけではないけれど、楽しい思い出というわけでもない。嫌われているという純然たる事実があるだけだ。その事実に振り回されて憤ったり、悲しんだり、そんな感情を抱えていた時期はとうの昔に過ぎ去っている。わたしを殺そうとする理由も逆に殺せない理由も知らないし、彼が大人しく教えてくれるとも思えない。温厚で善良な医者を演じているらしい彼が、わたしの前でも化けの皮を被ってくれているならば会話する余裕はあるかもしれないが、どうせはぐらかされて終わるだけだろう。
 建物から出て箒を出すと、〈大いなる厄災〉が昼間よりも禍々しい姿を見せていた。明るすぎる月光は、星の輝きを霞ませる。ここからだと家に帰るまで時間がかかりすぎるから、宿に泊まったほうがいいだろう。帰れないことはないけれど、今日はもう休みたい。

「フィガロ先生! 待ってください!」

 いきなりどうしたんですか! と怒るような高い声が上空から聞こえてきた。まだ変声期を迎えていなさそうな、子どもらしい声だ。さっさと飛び立ってしまえばいいのに、フィガロ、という名前に反応して硬直した身体は地面に縫いついたままで、わたしの目は空を見上げていた。

「……フィガロ」

 この距離ではわたしの声が聞こえるはずもない。けれど彼の瞳は、わたしを見ていた。魔法使いが4人と、眼鏡をかけた魔法使い――多分、彼はレノックスだ――のうしろに乗っている人間が一人、箒で飛んでいる。先頭のフィガロは猛スピードで地面に向かって飛んでいた。若い魔法使いたちの前で殺し合いにはならないと思うが、彼との会話の仕方なんて忘れている。再会の挨拶をしなくたって、わたしを嫌っている彼は気にしないだろう。早く立ち去って――

「《ポッシデオ》」

 耳元で呪文が聞こえ、跨ったはずの箒はどこかに消えた。彼は、わたしが飛び立とうとしていると気づいて目の前に現れたに違いなかった。目を向けると、少しも変わっていない彼が親しげに、気の置けない友人に見せるような穏やかさを湛えて笑った。

「久しぶり、ナナ」
「……」
「あれ、無視? ひどいな」

 ちっともひどいと思っていなさそうな苦笑いが視界に入り、衝撃で言葉に詰まった。頭が「なぜ」で埋め尽くされ、返事もできないまま立ち尽くす。人のいい医者のふりをするにしても、わざわざわたしに話しかける必要はなかったはずだ。彼に続いて地面に降り立った魔法使いも、人間も、わたしたちが知り合いだとは知らない。だったらなおさら、他人のふりをしてすれ違えばいいだけの話だった。街を行き交う人々のように、見向きもせずに立ち去ればいいだけの話だった。なのにそれをしなかったのは、何かを企んでいるからか。

「フィガロ先生、お知り合いの方ですか?」
「まあ、そうだね。先生のお友達。北の魔女のナナだ」

 フィガロに続いて着地した金髪の青年と、茶髪の子どもは誰かに似ている気がした。友達だなんてどの口が言うのかと呆れそうになったが、フィガロにわたしのことを尋ねた金髪の彼は「そうなんですね!」と明るく笑っている。訂正するのも面倒だ。笑ったその顔はやはり誰かに似ていて、長く生きすぎたせいでちぐはぐになった記憶を手繰り寄せそうになる。

「北の魔女……」
「こらミチル。そんな顔しないで」

 表情を曇らせた茶髪の子どもの髪を、フィガロがかき混ぜた。ほとんど予想できていたことだが、彼は“先生”らしく振る舞う気なのだろう。

「フィガロ先生のお友達ということは、私の母のこともご存知かもしれませんね。南の魔法使い、ルチルです。ほら、ミチルもご挨拶して」
「……ミチルです」

 誰だっけな。彼らは誰かに似ている。でも思い出せない。彼らの母親がフィガロと知り合いならば、わたしが思い出せないその人は魔女なのかもしれない。けれども、それはどうでもいいことだ。わたしはさっさと立ち去りたいし、フィガロとの会話なんて気まずいだけだ。レノックスと人間はわたしの顔をまじまじと見つめているが、部外者であるわたしがそれに応えてやる義理はないはずだ。

「どこ行くの?」
「……」
「俺に会いに来てくれたんじゃなかった?」

 スノウ様とホワイト様に連れられてここに来たとわかっているだろうに、フィガロはわかっていないふりをする。彼はいつもそうだ。その頭のよさで、人も魔法使いも思いのままに操って物事を計画通りに進めようとする。男も女も、老人も子どもも、手のひらの上。

「なら、食事でもどうですか? ネロ……料理上手な魔法使いがいるんです」
「それはいいね、賢者様。名案だ」

 こうなることも織込み済みで、賢者だという人間の前でわざとわたしを引き留めたのだろう。さもわかっていないように振る舞っておきながら、本当はすべてわかっていて、利用できるものは利用する。人のいい賢者も、フィガロに利用されているとも気づかないままに善意を見せている。

「いい。帰る」
「どうやって?」

 きみの箒は俺が持ってるけど。そう言いたげな顔で、フィガロはわたしを見下ろした。彼はわたしが移動魔法を不得手としていることも知っている。だから真っ先に、箒を奪ったのかもしれない。わたしを嫌うあまり、殺せない代わりに困らせようとしているのだろうか。

「さあ行こうか、ナナ」

 彼はいつも。
 いつも、わたしを殺そうとする時に、よくわからない表情を見せる。恍惚としたような、歓びに浸っているような、そんな表情を。その内側に何を秘めていて、隠しているのかもわからない子どもは、わたしの腕を掴んで魔法舎の扉を開いた。


***


「ナナは変わらないね。昔から甘いお酒を飲まなくて」
「……」
「本当、野良猫みたいに気を許さないね」

〈大いなる厄災〉が爛々と輝き、青白い光が降り注ぐ中庭で、フィガロは肩を竦めて溜息をついた。溜息をつきたいのは、わたしのほうだ。
 結局、食堂に連れ戻されたわたしはネロという魔法使いが作った料理を味わい、ルチルやミチルたちと少しだけ話した。どうやら、彼らはチレッタの息子たちらしかった。素直で愛らしいところがそっくりだ。彼ら以外の賢者の魔法使いの中にはそれなりに知り合いもいたが、ファウストは彼自身の過去を知っているわたしとは話したがらないし、ムルとシャイロックは気まぐれにわたしに話しかけて、気まぐれにいなくなった。相変わらず猫みたいだ。フィガロと親しいという設定になってしまったわたしに興味を示した賢者は昔の彼の話を聞きたがったけれど、殺し合いしかしていなかったから彼のことなんてわかるはずもない。わかるのは、知っているのは、わたしを嫌っているということだけだ。
 夜風が吹き付け、前髪がさらわれる。冷たい空気に混じってフィガロの匂いがした。薬草や香水の匂いではなく、消毒液のような香りに混じって甘い匂いがする。彼自身ではなく、白衣に染み付いたものだろう。わたしと殺しあっていた頃――南の国で落ち着くまでは時おり血の匂いがしていたのに、今は善意に満ちた医者みたいな匂いをさせている。

「俺を許せない?」
「わからない」

 質問に対して答えたわけではなかった。
 わたしにはフィガロがわからないのだ。そもそもわかろうと努力する意味すらなかった。わたしたちが重ねてきたのは会話ではなく、お互いを死に追いやるための呪いだけだから。彼が単純だったことなんて、ただの一度もない。難解で、複雑で、いい加減なようで繊細で。
〈大いなる厄災〉が雲に隠れ、わたしの隣に立っている彼の顔に影がさす。なぜだかそれが不安になって、数歩離れると小さな笑い声が聞こえてきた。

「ナナは北の魔女にしては弱くて、穏やかすぎたから」

 しばらく沈黙が広がったあと、彼は目を伏せ、記憶を辿るように呟いた。わたしを馬鹿にしているのではなく、淡々と言葉を紡いでいる。その言葉がどこに繋がるのかわからなくて彼を見つめると、伏せられていた両目がわたしを捉えた。

「覚えてる? きみが双子先生に弟子入りした理由」

 思いの外、優しい光を灯していた双眸は静かで、波のない湖面を思わせる。彼は、わたしたちが殺し合いを始めるきっかけになった質問のことを聞いているのだとすぐにわかった。けれど残念ながら、わたしは彼になんと答えたのか覚えていない。それを彼も察したのか、見た目だけは優しげな顔立ちに笑みが浮かぶ。わたしはいつも、彼の顔に浮かぶ作られた笑顔を、貼り付けられたお面のようだと思っていた。

「『他の国の魔法使いに殺されかけた時に助けてもらったから』」

 彼は言ったきり、黙った。
 わたしたちのあいだをすり抜けた風は冷たく、けれど彼の声まではかき消さなかった。そういえば、そう答えた気もする。二千年以上前の問答なのでちゃんと覚えていないけれど、幼いわたしが他国の魔法使いに殺されかけてスノウ様とホワイト様に助けていただいたことは事実だ。フィガロが覚えているとは思っていなかったものの、わたしの取るに足らない答えが直接的な殺人衝動に繋がるとは考えにくい。北生まれのくせに弱いわたしが、気に食わなかったのだろうか。

「不安だったんだよ。俺が知らないあいだに殺されて、食われそうで。だったらもう、俺が殺して俺が食ってやろうって思ってさ」

 殺されそうだから殺す、なんて意味がわからない。放っておくという選択もあっただろうに。

「わたしが誰に殺されても、あなたには関係ない」
「その通りだ。でも俺は、嫌だった」

 雲の切れ間から再び顔を出した月が、フィガロを儚く照らす。今にも消えそうだった。眩い光の中にとけて、消えてしまいそうだった。

「俺はそろそろ死ぬよ。察してるだろうけど」
「そう」
「はは、冷たいな」

 空を見上げたフィガロの横顔は、遠い昔に置き去りにされた子どものようだった。彼は空の高さをよく知る渡り鳥のように、孤独をも知りすぎている。

「絆されてくれてもいいんじゃない?」
「わたしを半殺しにした男に?」
「危ない男は好みじゃない? 残念だな」
「今のあなたはだらしなくて女好きな、南の魔法使いでしょう」
「温厚で善良、も付け加えといて」

「ねえ、ナナ」一人で楽しそうに笑っていた彼が至って自然に呼ぶものだから顔を上げると、右目の瞼にやわらかいものが触れた。夜風に冷やされた皮膚は、体温が低い彼の唇の温もりさえ生々しく感じ取っている。ついに殺されるのかと思ったけれど、彼はわたしの瞼に唇を触れさせただけで、すぐに離れた。人間が愛情と友好を示すためになすこの行為の名前を、わたしは知っている。

「……どうしてキスしたの。人間の真似事?」
「ふぅん。キスって言葉、知ってたんだ」
「はぐらかすことばかりが得意なの?」
「いいや? そんな不誠実なこと、俺にはできないよ」

 わたしに口付けた唇で、彼は大嘘をつく。彼は冗談っぽく笑ったかと思えば、急に真面目くさった顔で続けた。どうして、俺を殺さなかったの、と。

「俺は何度か、おまえにチャンスをあげたよ。簡単に、苦しく殺せるようにね。おまえならできたはずだよ。火炙りにして苦しませながら殺すことも、一瞬で氷漬けにして殺すことも、魔物に喰い殺させることも」

 彼がわたしに一歩近づいたからわたしも一歩後ずさった。すると、わたしよりも大きな一歩でまた近づいてくる。答えないわたしを嘲笑うように、彼は軽やかな足取りで目の前に立った。

「この数百年、人間のそばにいたからかな。今なら少しだけ、おまえを殺そうとして殺せなかった理由がわかるよ。わざとおまえに殺されようとした理由もね」

 その感情の名前は知らないけど、とのたまった彼の、大きな手がわたしに伸びる。簡単に払いのけられるような、緩慢な動きだ。今も昔も、彼はわたしを試しているのだろう。わざと隙を見せることで、わざと払いのけられるようにすることで、わたしに選ばせている。
 北の国では珍しい晴れの日に、窓から光がさす部屋で眠りこける彼を、わたしに背中を向けて読書に熱中している彼を、殺せなかった臆病なわたしを、彼はわかっている。そして今も、彼の手から逃げようとしないわたしをわかっている。

「ナナなら、この感情にどんな名前をつける?」

 ずるい聞き方をする男だと思った。そちらの手の内は明かさないまま、こちらだけのすべてを暴露させて、知りたがる。

「少なくとも、愛情なんかじゃない」
「そうだね。俺もそう思う」

 人間が好き好む愛情というものは、もっと綺麗でもっと優しいはずだ。頬に触れた手は冷たく、大きい。フィガロはいつか、わたしよりも先に死ぬのだろう。それは一年後か、百年後か、もしかしたら明日なのかもしれない。それは少し、おかしな感じがした。今までは、そばにいなくてもどこかで生きているという、漠然とした確信めいたものがあった。けれど今は、彼のいない世界を想像して、奇妙な感覚に陥っている。指先から爪先が冷えるような、雪が降り積もる銀世界に取り残されたような、おかしな感覚だ。
「ねえ」と、目を弛めさせた彼が言う。

「俺が石になっても、誰にも殺されないでよ」

 お願いだからさ。軽い調子で、おちゃらけた風に続けた彼はわたしから離れ、肩を竦めて笑った。今までの言葉も振る舞いもすべて、冗談だと言いたげに。ごめんね、忘れていいよと笑うから、わたしは思わず彼の手を掴んだ。突拍子もない行動を取っている自覚はある。それでも今伝えなければ、彼はもうわたしとは会ってくれない気がした。

「その時は、誰にも食べられないように、海の底で死んであげるわ」

 フィガロは目を見開いて、わたしを見つめている。そんな表情ができるなんて知らなかった。

「約束してあげる」
「約束って……。馬鹿だね、おまえは」

 くしゃくしゃとした前髪をかき上げ、彼はそっと息をついた。二千年以上生きて、そのほとんどの時をフィガロとの殺し合いに使った人生だ。きっとこの世界は、彼がいなくなれば少しだけつまらなくなる。

「どうしようかな」

 彼は困ったなと言いたそうで、けれど、どことなく嬉しそうだった。

「抱きしめてもいい?」
「……さっきは勝手にキスしたでしょう」

 それもそうだと笑って、彼はわたしを強く抱きしめる。わたしを大事にするつもりもなさそうな乱雑な抱きしめ方なのに、彼の身体の芯からかすかに伝わるような温もりは心地よかった。
 この胸にある想いを、人間はなんと表現するだろう。わたしは北の魔女で、フィガロは南の魔法使いだ。今までも、これからも、人の情の動きを本当の意味で理解することはできない。悠久の心音を刻む胸に頭を預けながら、人の情に似たものを抱える心を受け入れた。


<< fin.

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