砂糖漬けの呪詛 12


 追憶のような、他人の記憶を覗き込んでいるような、リアルで生々しい夢を見ているような、奇妙な心地だった。

 目を覚ますと、わたしは魔法舎の部屋にいた。最初は自分自身が置かれている状況がよくわからなくて混乱したものの、ベッドのすぐそばに置かれているオルゴールやひび割れひとつない綺麗な天井を眺めているうちに気分も落ち着いた。フィガロ様に記憶を引きずり出された時に、そのまま意識を失ったのだろう。迷惑をかけてばかりの自分にうんざりしつつ起き上がろうとすれば、微睡みから引きずり出された直後の身体は思うように動かなかった。とめどなく流れ続けている涙が耳の中に入って気持ち悪い。何日も寝ていたかのように頭と節々が痛む。それでも気合いでなんとか起き上がると、涙がブランケットにぽたぽたと落ちていった。

「どうしよう……」

 別に、誰かに向けた言葉ではない。記憶すべてを取り戻したら、かつての恋人が思いの外近くにいただけだ。世間一般――普通の人間からしてみれば物珍しくて運命的な状況なのかもしれないが、真実を知った今、復縁を望めるわけがなかった。
 前世のわたしが死んでからの四百年、誠実なファウストは苦しみ続けていただろう。優しくて見目整ったファウストにお似合いの、身も心もうつくしい女性と出会っても、彼はわたしのことが頭にちらついて恋愛どころではなかったかもしれない。人も動物も文明も、立ち止まることなく変わり続ける怒涛の時を、わたしの最期の言葉を思い出しながら生きていたかもしれない。
 どんな思いで生きてきたのか勝手に想像して、勝手に同情する資格などわたしにはないとわかっているのに、考えては嘆いてしまう。
 悔やんで悲しんでもどうしようもない。そう理解しているからこそ、わたしの頭にはいくつもの選択肢が浮かんでは消えていっている。フィガロ様に頼んで記憶を消してもらうか、何も知らないふりをして円満に魔法舎を出ていくか、それとも、ファウストの記憶を消してしまうか――どれもが正解で、どれもが間違いであるようにも思えた。ひとまず魔法で出した万年筆で文字を綴り、手紙に封をした。

「……これでいっか」

 用意した手紙をベッドにでも置いておけば、きっと誰かしらが見つけてくれる。
 わたしには、ちゃんと考える時間が必要だった。けれど、何も知らせずに魔法舎を出れば賢者様やフィガロ様たちを困らせるだろう。手紙もなしに、わたしがいなくなったとなればスノウ様とホワイト様も多少は動揺なさるかもしれない。大騒ぎになる前にフィガロ様が先生の呪いについての誤解も解いてくださると思うから、双子もすぐに連れ戻しには来ない……と思いたいけれど。
 開いた扉がわずかに軋む。綺麗に畳んだブランケットの上に残した手紙はひどく寂しげに見えた。手紙だけを残して立ち去るなんて無礼が過ぎるということは承知の上だが、少しだけならば大目に見てもらえるだろう。双子もフィガロ様も、責任感が特別強いわけではないのだから。まさか、三百年も先生の弟子として生きてきたわたしを心配してくださるような方々でもない。
 扉の隙間を縫うように部屋の外に出ると広い廊下は真っ暗で、誰一人として出歩いていなかった。月明かりだけが廊下を照らし、青白い蠱惑の光はわたしを夜へといざなう。突き当たりの窓を開ければ、夜の女王然としている満月は悠々とこちらを見下ろしていた。わたしが死んでから、世界は瞬く間に激動を伴いながら変わったけれど、あの月だけは変わらずに空に居座っている。
 窓の縁に足をかけ、取り出した箒に飛び乗った。すると、冷たい夜風がわたしの頬や髪をくすぐる。長距離の移動を可能にする魔法を使えないことはないが、ああいった類の魔法は消費する魔力量が膨大だ。加えて、わたしの身体はフィガロ様や双子と離れてしまえば魔力量が著しく減少する。楽をしたがために故郷に帰り着いた途端に倒れ込む、なんてことがあっては洒落にならないし、少量の魔力消費で済む箒のほうが魔力温存には好都合だった。中央の国から黄昏の丘まではかなり離れているので飛行そのものは大変でも、魔力さえあればなんとでもなる。
 誰からも気づかれないよう静かに魔法舎から離れると、暗闇に包まれる家々が見えてきた。〈大いなる厄災〉やトビカゲリの襲来によって破壊された建物は目に見えて減っているものの、地割れや土砂崩れの痕跡は未だに残っている。



 黄昏の丘に着いてまずしたことは、睡眠だった。睡眠時間は丸一日を優に超え、気がつけば朝を迎えていた。あまりにも堕落したこの生活を誰かに咎められているわけでもないのに後ろめたくなるのは、一人になって考えてみてもいい考えが浮かばなかったからだ。そもそも、ファウストはわたしが前世のわたしと同じ記憶を持っていると知っているのだろうか。絶対そう、とは言いきれないけれど「もしかして」と思うような出来事は多々あったし、今世は初対面にも関わらず、わたしを気にかける素振りを何度か見せていたと今になっては思う。最初に接触するきっかけとなったオルゴールのことだってそうだ。オルゴールや呪文について問い質す彼の様子は、普通とは程遠かった。
 何もかも、どうすればいいのかわからない。ひとつのことを解決しようとすればまた他の問題が顔を出して、躊躇いが生まれる。ファウストは呪うほどにわたしを恨んでいた。なればこそ、やはりわたしとの記憶を消したほうがファウストも幸せになれそうなものだが、フィガロ様の言動がどうしても引っかかっていた。わたしは誰かと結ばれるために生まれてきたと、ファウストはずっとわたしを待っていたと、フィガロ様がおっしゃっていた理由がわからないのだ。呪われて生まれてきたわたしがファウストと結ばれるわけがない、わたしを呪ったファウストがわたしを待っているわけがない。だと言うのに、フィガロ様の言葉や行動は常に一貫していた。フィガロ様と先生がおっしゃる“わたしの幸せ”とは、結局なんだろうか。頭のいいお二人が根拠もなく、また意味もなく行動するとは思えない。第三者から見て、ファウストがわたしを愛していると思ったのだろうか? だったらどうして、フィガロ様はファウストがわたしを呪ったと考えられたのだろうか?
 わからないなりに考えても、疲れきっている頭では答えも出てこない。
 心休まる自然の中にいれば考えもまとまると思ったが、夜が運んでくる静けさはどこか居心地が悪い。湖に浸した爪先から身体中が冷え、不健康に白い肌がより不健康そうに見えた。月光に青白く透ける水の中に沈む両脚に、湖面のきらめきが反射している。黄昏の丘は幾星霜もの年月を経ても、きっとうつくしいのだろう。
 ここでファウストと結ばれて、ここで弔われた。
 湖のほとりにわたしの亡骸と共にオルゴールを埋めてくれた彼は、埋めたはずのオルゴールを持っているわたしにさぞ驚いたに違いない。

「……」

 ファウストの恋人になった時、夜空が祝福しているように見えた。けれど今は月の明かりが強すぎて、星の輝きも霞んでいる。

「ギャアアア! ギャアアッ!!」
「っ!?」

 空を見上げた瞬間に、森のほうから獣の凄まじい鳴き声が聞こえてきた。断末魔のように、空気ごと引き裂きそうな大きな鳴き声が大地を揺らしている。この地の魔物は先生が一匹残らず仕留めたのだから生き残りはいないはずだ。ここで生活していたあいだも魔物に遭遇した覚えはなかったし、その気配すら感じられなかった。たまたま迷い込んでしまったのかもしれないが、声を聞く限りではかなりの大物だ。普通、大型の魔物は住処を変えない。縄張り争いに負けて北寄りのこちらに足を踏み入れたとも考えづらいとなれば、〈大いなる厄災〉の影響で蘇ってしまった、ということも考えられる。

「どうしよう」

 鳴き声は徐々に近づいている。ガサガサと木や草をかき分ける音がする。推測通り太古の魔物が蘇っているとしたら、わたしは間違いなく死ぬ。今はほとんど底をついている状態だ。惰眠を貪ることで体力回復できたとしても、魔法が使えなければ確実に喰い殺されてしまう。箒で逃げてしまえば、魔力が枯渇しても命は助かるだろうか。
 魔物は湖の近くまで迫っているようだった。とにかく、頭を悩ませるより逃げるしかない。

「《サティルクナート・ムルクリード》!」

 頭上で閃光が弾け、光はそのまま湖の向こうまで一直線に走った。眩しい残像が暗闇に残り、明暗の対比のせいで目の奥が痛んだ。魔物は叫び声を上げることもなく息絶えたのか、数秒と経たずに慣れ親しんだ静けさが戻ってきた。
 どうして。疑問を浮かべるわたしを、焦りの滲む双眸が見下ろしている。無言のまま箒から降りた彼は、衣服が濡れるのも構わずにわたしの隣に立った。暗い色の布地が水を吸収し、より濃い色に変わっていく。

「……濡れるわ」

 先にお礼するべきだった。言ったあとで後悔したものの、ファウストが気を悪くする様子はない。それどころか「僕は構わない」とまで言っている。
 声も、表情も、懐かしかった。何かを言いたそうにしているくせになかなか切り出せずに口を閉ざす仕草が、四百年前と変わらないまま目の前にある。目頭が熱い。あの頃に戻ったみたいで少しだけ嬉しい。だけど、話すことなんてなかった。どんな風に接せばいいのかわからない。

「どうしてここに……? 助けてくれてもちろん感謝してるけど――」
「きみが」

 ファウストの顔を真正面から捉える前に、抱きしめられた。水や風の音が遠のき、間近にあるファウストの胸の鼓動がわたしにまで伝わってくる。

「きみが、無事でよかった」

 離れられなかった。その声を聞いたら、離れられなくなった。ファウストの声が震えている気がして、わたしの背中に回る両腕がひどく頼りなくて、何も言えなくなる。

「……いきなりこんなことをして悪かった」

 ようやくファウストが離れる頃には、頭が思考を放棄していた。握られたままの右手をどうすべきか考えようにも頭が回らなくて、俯いている彼が視界に映らないように空を見上げても大きな月が輝いているだけだ。

「きみと話すべきだと思った。逃げてばかりの……いい加減な奴にはなりたくない」
「……なんの話」
「僕と、ナナ。僕たちの昔話だ」

 色のついたレンズの奥で繊細そうな瞳が悲しそうに揺らいだ。同時に、やはり彼はすべてを悟っていたのだと思った。

「僕から話してもいいか?」

 今だけは、懐かしいあの星が恋しかった。抵抗する気はもはやない。諦めてゆるゆると頷いたわたしに、ファウストが安堵の吐息を吐き出した気がした。


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