砂糖漬けの呪詛 10


「もう少し、魔法舎にいてくれない?」
「……理由をお聞きしてもよろしいですか?」
「アルマンは確かにきみを呪ってないけど、きみが魔法舎に来るように仕組んだのはあいつだよ。今あそこを去ったら、アルマンの遺志はどうなる?」

 前にも言ったと思うけどね、と続け、わたしから離れたフィガロ様はいつも通りの表情で空を見上げた。すでに太陽は高く昇り、少しずつ月の明るさも薄まっている。彼のお願いは決して難しいものじゃない。けれど、あえて先生の名前を出したのはわざとに決まっている。唯一の弟子だったわたしが、先生がフィガロ様に託した最期の願いを断れるはずがない――そう確信していたからに違いない。

「アルマンはナナに幸せになってほしいんだよ」

 畳みかけるように罪悪感を煽られ、目を伏せる。
 見下ろした先にある大地は懐かしく、疎ましく、そして何よりも虚ろだった。かつて魔法使いたちの命を吸い取った焦土は、憎悪に狂う血潮に染まり、土壌そのものに禍々しい思念がこもっている気がした。

「でも……」

 過去を思い出すのは苦しい。だけど、今は亡き先生とのことをどうすべきかわからない。
 あんなに愛してくれた人を愛せなかった、というわたしの思いは所詮は傲慢なのだ。先生はそんなことを望んではいなかった、わたしが心のどこかで申し訳ないと思っていたのも間違いだった。わたしのそんな傲慢と、先生に向けていた浅はかな同情心を見透かしているであろうフィガロ様は、言い淀むわたしに優しい瞳を向けている。彼のその残酷な優しさは救済ではなく、わたしの心を揺さぶるための方便でしかないのに。

「大丈夫だよ。つらいなら、俺がいるじゃない。苦しいなら、優しく慰めてあげるよ」

 その優しさすべてが嘘だとは思わないけれど、聡明で理知的な彼はわたしをかき乱すのが昔から得意だった。彼は他者よりも圧倒的に強いからこそ、優しさと残酷さを共存させられるのだ。

「きみの恋人だった魔法使いも、黄昏の丘にいるよりは中央の国で過ごしたほうが見つけやすい。案外、近くにいるかもしれないしね」
「……あの人は亡くなったのでしょう?」
「……ん?」

 フィガロ様は笑顔のまま固まり、顎先に指を添えたまま首を傾げる。もしかして、彼はあの人が亡くなったことをご存知ではないのだろうか。南の国に長いあいだいらっしゃったから、あの人の訃報は耳に入っていなかったのかもしれない。
 なんだって? とおっしゃるのでもう一度「わたしの恋人だった魔法使いは亡くなったんですよね?」と念押しすると、彼は乾いた笑いを漏らした。

「それ、ファウストが言ったんだろ?」

 確信していらっしゃるかのような口振りだった。持ち前の頭脳で推察したのか、単なる直感でファウストの名前を出したのかは定かではないが、フィガロ様は呆れたように溜息をついている。

「ナナはどう思ってる? 死んでると思う? 生きてると思う?」
「……わかりません。でも、あの人の遺言は……彼らしくて、彼なら言いそうだと思いました」
「どんな言葉だった」
「自分のことは忘れて、幸せになってほしいと……」

 呪ったくせに、と詰りたくなる。正体不明の呪いをかけるくらいなら最後まで呪い通してほしかった。あの人を憎んでいるわけじゃない。許しが欲しいわけじゃない。一人で泣く彼を置いていった後悔はもちろんあるけれど、

「あれ……?」

 ふと、気がついた。
 何かがおかしい。確かにそこにある奇妙な矛盾は、どんどん膨れあがって思考回路もいっぱいいっぱいにしていく。考えなくたってわかるようなことにどうして気づかなかったのか、自分でもわからなかった。

「どうして、あの人はわたしに遺言を残したんでしょうか。わたしは黄昏の丘を離れたことはありません。あの人が、わたしが生まれ直したことを知っていたとも限りません。なのに……」

 自分を忘れて幸せに、なんて、わたしがこの世界に存在していて、前世の記憶を持っていることを知っていたような遺言ではないか。すでにその奇妙さに気づいていたらしいフィガロ様がわたしの手を握ってくださったものの、一言では形容し難い戸惑いを覚えた。
 前世や来世という概念はあっても、それを熱心に信じているのは敬虔な信徒か酔狂な学者くらいだ。まさか、あの人がそういった迷信を信じていたわけではないだろう。もしくは、遺言そのものがファウストの嘘だったのだろうか? だけど、いかにも誠実そうな彼が嘘をついているようには見えなかった。

「どうして、今の今まで気づかなかったんだと思う? 賢いナナなら、ファウストから聞いた時点でおかしいと思ったはずだよ」
「……わかりません」

 何よりも不可解だったのは、あの遺言を当然のように受け入れてしまったことだ。疑いもせず、あの人が本当に言ったものだと思い込んでいた。
 どうして? と問うたフィガロ様が前置きもなしに呪文を唱えた。握られている手から、眩しい光が空中に広がりながら流れていく。足元をすくわれ、下に引っ張られるような感覚に陥った。あの時と、フィガロ様の言う通りに炎を見た時とまったく同じだ。深い深い水に囚われて、底へと沈んでいく。揺らぐ水は光を透過させ、わたしの口からこぼれる大きなあぶくは湖面に届く前に弾けて消える、そんな幻影を見た。
 不意に、誰かがわたしの手を引っ張った。浮上した身体は濡れておらず、わたしの手を握りしめているフィガロ様のお身体も濡れてはいなかった。何もない白の世界が瞬く間に色を取り戻し、意味もなく積み重なっていた岩が古めかしい建物に変わっていく。

「ここはきみの記憶だ」
「……」
「きみは記憶に鍵をかけてる。彼を思い出せないのも、ファウストの言葉に惑わされるのも、鍵をかけたままだからだよ」

 行こうか、とおっしゃる声に従って歩くと、徐々に人が増え始めていた。魚を売る男、農具を持つ子ども、軒下で薪を割る老人――みながわたしたちの姿なんて見えていないかのように過ごしている。

「ここは、夢の中ではないのですか?」
「似ているけど、厳密には違う。俺が無理やり引き出している記憶だ」

 フィガロ様は向かい側から歩いてきた野菜売りの少女を避けず、そのまま突き進んだ。どうやら、意識や思考があっても実体は伴っていないらしい。少女はフィガロ様の身体をすり抜け、簡素な造りの家の前に腰かけている老婆の前で立ち止まって世間話を始めた。

「夢は潜在意識の投影だ。夢を見ているあいだは誰にも邪魔されないし、夢そのものが他者の干渉を拒む。入り込むのも難しい上に、使い勝手の悪い夢からわざわざ引き出すのは少々面倒だからね。少し精神に干渉して、潜在意識の中に仕舞ってる記憶を引き出させてもらったよ」
「夢は無防備だからこそ扱いづらいと?」
「その通り」

 人間は、意識しまいとすればするほどその事象を思い浮かべてしまう。たとえば何も考えるなと言われたら心を無にしようと躍起になるが、何も考えないようにと意識するあまり、頭には様々な情報がかえってよぎってしまう。つまるところ、防備しようとするほどに人間は意識を集中させてしまうのだ。
 逆に、無防備で混沌としている夢は術者がその中に入り込もうとしても内容が支離滅裂な上に、望む情報がすぐ手に入るとは限らない。夢は他者の侵入を拒む、ほとんど不可侵とも言える領域でもある。熟練の魔法使いならば夢からも情報を得られるものの、夢を覗く行為は意識のある人から記憶を取り出すよりも圧倒的に面倒だ。
 話題を変えるようにフィガロ様が「真実を知るのは怖いかい」とおっしゃったので口を噤むと、小さな湖がちょうど見えてきた。湖面には太陽の光がきらきらと反射し、湖底の水草までよく見えるほどに澄んでいる。

「ナナが望むなら、俺が記憶を消してあげるよ」
「……それは」
「俺なら呪いだって解けるはずだ。でも、それをするのは真実を知ってからでも遅くはないよ」

 いくらなんでも、ここまでしてくださる理由がわからなかった。わたしが先生の弟子だからという理由で、わたしに幸せになってほしいからという理由で、こんなにも気にかけるものだろうか?
 今の彼は、心残りがないように生きているように見えた。死期を予感していた先生と同じ目で彼はどこかを、わたしには見えもしない遠くのどこかを見ている。

「今のあなたは……」
「ん? 何?」

 もうすぐ死ぬと、わかっているような表情をしている。けれどそれを口に出すのは怖くてまた唇を引き結んだら、水が跳ねる音がした。白くて大きな鳥が湖の魚を捕まえたのだ。

「行っておいで。彼はあの湖の向こう側にいるよ」

 フィガロ様の手が離れた。繋がれていた温度が消えて、寒さ以上に寂しさを覚えた。彼は振り向いたわたしにただ微笑んでいる。

「ちゃんと、ここで待ってるよ」

 わたしの不安に気づいたのだろうか。彼はまた「行っておいで」と告げて、わたしを送り出した。



 悲しくて苦しいとわかりきっている記憶を、再び紐解くのは恐ろしい。けれど一度、フィガロ様のあの瞳を見てしまったら引き返せなくなった。彼の瞳は地平線の向こう側まで続く、銀河の輝きすらも映さない灰色の海に似ている。不完全な孤独をそっと抱きしめる海の底のように。

「……似てる」

 辿り着いた湖の反対側は、数歩先に深く険しい森が広がっていた。どことなく、流れる空気感が懐かしい。深い森にうつくしい湖、どこからともなく聞こえてくる動物たちの息差しは黄昏の丘を思い出させる。
 あたりを見渡すと、森の奥のほうで一人の青年がしゃがみ込んで作業をしていた。花を採集しているのかもしれない。こちらに背を向けている彼はローブを着込んでいるから顔も髪型もわからないものの、彼がわたしの恋人だった人だろう。声をかけようにも、どうせわたしの声は届かない。彼の前に回って顔を見るには勇気が出なくて少し離れた場所に座れば、そよぐ木漏れ日がわたしを淡く照らした。
 小ぶりで可憐な花びらは風に巻き上げられ、波の花のようにふわふわと浮いている。それを取り残さないようにカゴの中へと入れていく彼の手つきは手馴れているように見えた。人が寄り付かなさそうな森の中でもあまり目立たない色合いのローブを着ているのは、人目を避けているからなのかもしれない。
 やがて拾えそうな花びらはなくなり、彼はカゴを持って立ち上がった。フードの端を指先で掴み、少し俯いている彼の顔には影がさしてよく見えない。

「……っ」

 わたしも立ち上がろうとした瞬間、一際強い風が吹いて木の実や葉が落ちてくる。実体を持たないわたしは風を感じることはできない。せっかく拾い上げた花びらが飛んでいく様子をただ見つめた。彼は吹きつける風から逃れるように顔の近くに手をやったものの、フードが風の勢いに負けて頭から落ちてその顔が露わになる。

「ツイてないな……」

 少しだけ残念そうな声だった。髪に落ちた葉っぱを乱雑に払いながらカゴを見下ろした彼を、わたしは知っていた。地面に足が縫いつけられているように、身体中が石化してしまったかのように、その場から動けない。だって、だって彼は。

「ナナ」

 唐突にこちらに向いた両目が優しく緩む。その声も顔も、昨日の夜に偶然会ったファウストに似ていた。
 呆然と彼を見つめていると、わたしに近づいてきた彼はそのままわたしの横を通り過ぎ、もう一度「ナナ」と呼んだ。痛いくらいに激しく脈打つ心臓が今にも口から飛び出してしまいそうだった。ファウストであるはずがない。だって彼は、わたしの恋人だったあの人は亡くなったと言った。だって彼は、彼は――

「花、散っちゃったのね」

 わたしにどことなく似ている女性が笑った。それから、彼女は穏やかに笑ってこう言った。

「ファウスト」


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