砂糖漬けの呪詛 07


 昨日、初めて会話したファウストという魔法使いについては、警戒するに越したことはない。わたしの呪文を知っていたのもそうだが、オルゴールについてあんなに聞き出そうとするのも不審に思える。そんな怪しさを抜きにしても、わたしがわたしではなくなるような不安を抱かせる彼にはあまり近づきたくなかった。
 カナリアが魔法舎に来る前に天井や高い場所の掃除をしていると、南の魔法使いがバスルームから出てきたので道を開けようと壁側に寄れば、背の高い彼はわたしに気づくや否や唇を噛んだ。何かしてしまったっけ。悲しそうな表情をされる理由がわからず、思わず彼を目で追った。すると目が合い、彼はついに歩みを止めた。
 赤い瞳の中に悲哀が揺らめく。ひどく穏やかで、草原を吹き抜ける風のように優しいその瞳には見覚えがあった。わたしに伸びる手、あの人よりも関節が目立つ指――炎に焼かれるわたしが最後に見た彼はとても苦しそうだった。

「レノックス……」

 慌てて口を手で覆ったが、もう手遅れだった。明確な音になって滑り落ちた声が聞こえていたらしい彼は息を呑んだあと、大きな手が白くなるほど強く握りしめた。

「ナナ……俺を覚えていたのか……」
「……わからない」

 何もわからない。彼の名前を唐突に思い出した理由も、わたしと彼にどんな繋がりがあったのかも。普通ならどうして俺の名前を知っているのかと訝しむはずだ。けれど彼はそうしなかった。まるで、わたしがわたしではなかった頃のかつてを知っているみたいに。

「……っ、う」

 鋭い頭痛に襲われ、視界が白くぼやける。
 刹那的な映像が代わる代わる頭の中で踊り狂う。絵の具で塗り潰したように暗い空に赤い炎が映え、空に浮かんでいるはずの星も燃え盛る炎の光のせいで霞んで見える。現実と非現実が混濁し、どちらが幻なのか考える余裕もなかった。

「……ナナ、大丈夫か」
「あの人を、知ってる? わたしの恋人だった人……呪われてるの、ずっと、恨まれてるの……わたしが、わたしが――」

 死んだから。
 許さないと彼は言った。気管をも焦がすような熱風の中、がらがらに枯れて掠れた声で「許さない」と言った。事切れる寸前のわたしは何も伝えられず、許しを乞うこともできないままに彼の腕の中で石になった。わたしは死んだのだ。なんとなく察していたことだけれど、夢に度々登場していた炎が前世のわたしを死に追いやった原因なのだと一旦確信すると恐怖でどうにかなりそうだった。
 あの時、わたしは彼のそばにいなければならなかったのに。顔を覆った手の、指の隙間からぽたぽたと涙が落ちた。ナナ、とわたしを呼ぶ声がする。レノックスの声だ。なのにどうしても、あの人の声で再生される。

「……恨んでない。ナナ、あの方は……」
「いや……怖い……」
「ナナ……」

 ぼやけていく視界の先でレノックスがわたしに手を伸ばす。大きな手が、燃えたぎる炎からわたしを救い出したあの時の光景と重なった。



 真夏の夜に流星が翔けた。夜空に降る星は音もなく流れ、真っ暗な湖面には写し鏡のように星が広がる。湖の中に入ったら、たとえ偽物だとわかっていても星を掴めそうな気がした。

「掴めるわけがないじゃないか……」

 そう言いながらも、わたしと一緒に湖に入った彼は空を見上げた。進もうとする度に冷たい水が押し寄せて、跳ね返る音が静寂に響く。星空をそのままひっくり返したような湖面に波紋が広がり、遠くへ遠くへと水の鼓動が伝わっていく様子はどこか寂しくて幻想的だった。

「あの星の名前を知ってるか」

 彼は独り言のように問うた。遥か遠くの、銀河の果てにあるひとつの星を指さし、やがてゆっくりと手を開いた。星を捕まえようとしているような、手を伸ばしているような、純粋な少年みたいな動きだ。

「学者が見つけたんだ。最愛の妻への愛を……彼が思う愛の真理を説いた言葉にちなんだ名前らしい」

 わたしは何か言葉を発した。素敵ね、と言ったのかもしれないし、ふぅん、と面白そうに返事をしたのかもしれない。

「僕は……愛とか、恋とか、よくわからない。それに、きみに比べれば子どもだ」

 ふくれっ面で唇を尖らせている子どもみたいで、思わず笑うと彼はますます不満げに声を上げた。笑うな、子ども扱いするな、そんな不平ばかりが隣から聞こえてくる。ひとしきり笑ったあと、居心地の悪い沈黙がわたしたちのあいだに横たわった。

「……きみが好きだ。わかってる。僕は子どもだし、アレクみたいに器用なわけじゃ……いや、うん、別にきみと恋人になりたいとかそんな――」

 どんどん気弱になっていく声がついに風にかき消されて、彼は黙り込んだ。顔はちゃんと見えなくても、声を上擦らせている彼が真っ赤になっていることはなんとなくわかったけれど、彼に想いを告げられたわたしが、どういう風に答えたのか思い出せない。
 ただ、思い出せるのは。

「ほ、本当か……?」

 嬉しそうに、幸せそうに彼が笑ったことだけだ。
 手を伸ばしたら届く気がして、彼の頬に触れようとしたら視界の端で炎が燻った。穏やかで愛おしい空気は一陣の風と共に去り、耳障りな不協和音のせいで彼の声が歪んでいく。
 場面が急転し、泣きながらうずくまる彼の背中が見える。近づいてみると彼の身体は傷だらけで、火傷が痛々しく残る彼の両手の中には石が握られていた。
 どうせ骨になるなら、うつくしいあなたを着飾る宝石になりたいと言った詩人は、魔法使いや魔女たちの終わりに自身の最期をなぞらえたそうだ。詩人が愛したのもまた、永遠の狭間に生きる魔女だったから。
 嗚咽の合間に幾度となくわたしの名前を呼んだ彼は、きらきらと光る石をガラスの瓶に入れ、立ち上がるとどこかへと姿を消した。場面がまた変わり、彼が湖のほとりに立っているのが見える。最後の戦乱のあとに捨てたのか、わたしの知っている呪文ではなく聞き覚えのない新たな呪文を唱えた彼はしばらく考え込んだあと、結局魔法は使わずに素手で地面を掘り始めた。

「きみに、返すよ。遅くなって悪かった」

 石が入った瓶と、木製の小さなオルゴール。泥だらけになった手には火傷や傷跡はなく、流れた月日の長さを感じられた。土を掘り返し続ける手の甲に透明な雫がぽたぽたと落ちている。細い顎先から伝い落ちる、星屑のようにきらめいては静かに消える涙をわたしは見つめることしかできなくて、ただ傍らで夜のしじまに広がる嗚咽を聞いていた。
 わたしが知っている彼よりもわずかに背が伸びた、わずかに声が低くなった。触れられないのに、手を伸ばせないのに、彼を抱きしめられない自分が憎かった。

「ナナ」

 わたしが死んでから、どんな想いで過ごしてきただろう。空に流れ星が光った。次から次へと現れては夜の底へと消えていく流星の下で、空を見上げた彼は堰を切ったように泣きじゃくる。孤独な夜に抱きしめられている彼の後ろ姿はあまりに小さくて、湖の底にとぷんと沈んでしまいそうだった。

「あいたい」

 泥だらけになった手が強く強く握りしめられて、星に祈りを捧げる聖者のように見えた。
 眩い星が降る夜、三百年前の黄昏の丘は今と変わりなくうつくしかった。


***


「起きて、ナナ」

 視界が白く霞むような眩しさに目を細め、ようやくその明るさに慣れてくるとフィガロ様の顔が見えた。起き上がった拍子に頭痛がして反射的に頭を抑えたものの、痛みはすぐに引いていく。フィガロ様が何かしらの魔法をかけてくださったのかもしれない。

「レノと会ったんだろう」
「……」
「何か思い出せたかい」
「……わたしが死んだあとに、あの人が石とオルゴールを黄昏の丘の湖の近くに……」
「そう」
「あの人は、幸せですか」

 わたしの問いには答えないままベッドの縁に腰かけたフィガロ様はご自身の太ももに頬杖をついて、上半身を少し屈めながら曖昧な笑みを浮かべた。ここは、彼のお部屋だろう。

「どっちだと思う?」
「……」
「泣かないで、ナナ」
「だって、」
「三百年、一人の女の子を想い続けた男の話をしようか」

 フィガロ様はわたしの涙を指先で掬い、笑ったかと思えば前を見据えた。

「世界中を放浪していたある魔法使いは文字の読み書きができなかった。でも、千年と五百年ちょっと生きた頃に幼い魔女と出会った。その子は子どもと思えないくらいに頭がよくて、一人でなんでもできた」
「それは――」
「そうだよ。ナナとアルマンの話だ。きみは知っておくべきだ。アルマンが本当にきみに残したかったものの真実を」

 少し、ネタばらしをするには早すぎるけどね。そう言って、彼は宙に浮かせたティーカップに温かいハーブティーを注いだ。

「アルマンは確かにきみと出会って変わったよ。無用に人を殺さなくなったし、俺や双子先生たちとも普通に言葉を交わすようになった。初めてきみを連れてきた時は幼女趣味なのかと思ってたけど……おっとごめん、話が逸れた。まあとにかく、アルマンは変わったんだ」
「先生は、わたしを恨んでいるでしょうか」
「恨んでなんかないよ。……さあ飲んで、気持ちが落ち着くから」

 彼はティーカップをわたしに渡し、空中に取り残されていたティーポットは指を鳴らしてどこかに消した。

「あいつも真面目な奴でね。好きな子に好きな男がいると知った途端に悩み始めた。なんでもかんでも奪うのは得意だったくせに、初めてきみで悩んだんだ。色男で、頭も悪くはない。口説こうと思えば口説けた。欲しいならナナを篭絡すればいいのにしなかった」

 しれっと恐ろしいことを口にするフィガロ様はやはり北の魔法使いの片鱗を残している。思わず身震いすると、彼は「ん?」と首を傾げながら微笑んだ。

「なんでかわかる?」
「……わたしが幼い子どもの姿だったからでしょう」
「あははっ、違うよ。アルマンほどの魔法使いならきみの身体を本来の姿に戻すなんて容易いことさ! でも、そうしなかったのは、わかってたからだよ」
「わかってた?」
「ナナが最初から、あいつ以外の誰かと結ばれるために生まれてきた魔女だって」

 ――その容姿も、中身も、誰かに愛されるために生まれてきたようなものだ。
 フィガロ様が魔法舎にいらっしゃった夜に、告げられた言葉が脳裏に浮かんだ。意味を理解できずにいるわたしに苛立つでもなく、訳知り顔でわたしを見やった彼はベッドに手をついた。

「アルマンはきみを呪ってなんかいない。ここにきみを連れてくるように仕込んだのはアルマンだけどね」
「どうして……先生はわたしを呪ったと……」
「罪滅ぼしさ」
「罪? 先生は何もしていません」

 フィガロ様は緩く首を振った。

「きみの恋人が誰で、きみたちが互いにどれだけ焦がれていたのかを知っていたのに死ぬまできみを独り占めにした罪。アルマンは、きみを呪ってなんかいない。幸せになってほしいと願っていたくせに、自分からは手放せなかったことをずっと後悔してた」
「フィガロ様はご存知だったのですか」
「うん。だから言ったろう? 久しぶりに会った夜に、あいつもうまいことやったもんだって」
「あれは、そういう意味の台詞だったんですか……?」

 当然のように頷かれ、絶句する。同じように愛を返せなかったわたしを憎んでいると思っていたのに、すべてが優しい嘘だった。

「あ……」

 少しも減っていないハーブティーが忽然と消えた。フィガロ様の手がわたしの頬と髪のあいだに滑り込み、目じりに親指が触れる。喉が渇いている。魔法を使われたのかと思ったが、肩を押されただけで簡単に組み敷かれたわたしの目に人のいい笑みをお面のように貼り付けているフィガロ様が映った。

「本当にきみを呪ったのは、きみの恋人だった魔法使いだよ」

 彼の肩から白衣が落ちて、薬草の匂いがした。

「思い出して。ナナにキスしたのは? ナナを抱いたのは? 俺じゃない。もっと真面目で、一途な子だったはずだよ」
「……フィガロ様、お戯れが、」
「名前を呼んでごらん。俺でもない、レノでもない、アルマンでもない……彼の名前を。どうする? 俺の名前でもいいけど、そうなったら――」

 冷えきった眼差しに背中がぞくりと寒くなる。唇に触れた指先は冷たく、顔の横に置かれている大きな手はわたしの髪をいじっていた。

「《サティルクナート・ムルクリード》」

 誰かが呪文を唱えた瞬間、フィガロ様の手が弾かれてわたしの唇から指が離れる。楽しそうに笑いながら上体を起こした彼はわたしの上から退くと、扉の近くに立っているファウストを見やって「やあ」とにこやかに挨拶した。

「最低だぞ」

 よくない雰囲気に流されずに済んだことを安堵したのも束の間、ファウストはフィガロ様の腕を掴んだ。険悪な空気のせいで、変な場面を誰かに見られたという気まずさを感じる暇もない。

「……怒るなよ、冗談だよ」
「おまえの冗談は冗談じゃない、悪ふざけにしても最悪だ」
「そう? 荒療治って言うじゃない」
「おまえは、彼女に……!」
「ああ、やっぱりきみも気づいたのか」

 敵意を剥き出しにしているファウストと、余裕そうに彼を見下ろしているフィガロ様はわたしの存在なんてすっかり忘れているようだった。喧嘩の仲裁の仕方は知らないし、わからない。わたしも起き上がってみるものの、唇を引き結んだファウストの怒りはどんどん増大していくばかりのように見えた。
 不意に、ファウストの目がわたしを捉える。

「来なさい」
「え……?」
「この男は危険だ」

 確かにフィガロ様も怪しいし今日は様子が変だけれど、ファウストだっておかしな魔法使いだ。わたしの手を握りしめた彼は半ば強引にわたしを立ち上がらせると、フィガロ様に「悪ふざけはもうするな」とだけ言い捨ててわたしを連れ出した。
 長い廊下にわたしたちの足音だけが鳴り響いている。ファウストを見ると炎がちらつくのは、彼がわたしの夢に関係しているからだろうか。もしかしたら彼は、あの人を知っているのだろうか。

「わたしの恋人だった人を、知ってる?」

 廊下を突き進んでいたファウストの足が止まる。後ろ姿だけでは、彼がどんな表情をしているのかはわからない。それでも彼が、何かを知っているということだけはその反応から察せられた。

「知ってると言ったら、きみはどうする」

 やがてぎこちなく振り返ったファウストは、わたしのほうが切なくなってくるほどに悲しそうな顔をしていた。


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