毒なき不純
オレの幼馴染は、オレの兄貴に恋をしている。
オレは、そんなあいつに恋をしている。
つまりどこにでもある、報われない不毛な恋だ。マジでバカバカしいと思う。兄貴のために髪を伸ばして、兄貴のために背伸びした格好をして、兄貴のためにかわいくなって。兄貴のためだけに泣いて笑う、そんなあいつを間近で見てきたのに、バカみてーに好きになっちまった自分がいっそ憎らしかった。
「優しいところ」
どこが好きなんだよとからかうと白い頬を赤くさせながらそう答える。語尾なんて少し震えさせて、今にも泣き出しそうな目が「あのひとが好き」と訴える。痛かった。恋をしている彼女は悲しくなるくらいにかわいくて、それでもどうしても見ていられなかった。見ていたくなかった。
兄貴だって最低なことはするし、お世辞にも“優しい人”とは言えないと思う。たぶん、彼女に向ける優しさならオレのほうが勝っている。想いの深さも強さも、負けるはずがない。だけど彼女は兄貴が好きなのだ。ずっとずっと、オレが彼女を好きになる前から、兄貴のことだけが好きなのだ。
オレらは兄弟だから、顔だって、声だって、雰囲気だって、それなりに似ている。だから尚更、オレでもいいじゃんかって言ってしまいそうになる。でもそんなんじゃあダメなんだとわかってる。
「なあ。泣くなって」
「泣いてない」
「……あっそ」
泣いてないなんて、涙を流しながら言うことでもないだろ。じゃあなんで泣いてんだよって、ズケズケ聞いてもいいのかよ。
口には出せない言葉を飲み込みながら少し低い位置にある小さな頭を見下ろすと、彼女は赤い目に浮かぶ涙を拭った。一体、何度目の失恋だろうか。オレも彼女も、何度失恋して何度痛い目を見れば諦められるんだろうか。
女の子とデートする兄貴を見る度に傷ついて、耐えられなくなったときにひっそりと泣く彼女を抱きしめられたら、好きだと素直に言えたら、この関係も変わるのかもしれない。けれど、実行に移せたことは一度もない。ああできたら、こうできたら。そんな願望ばかりを溜め込んで、できやしないそれに踊らされているだけ。
きっと、告っても、そこから奇跡が起きて付き合えたとしても、オレは兄貴にそっくりな身代わりにしかなれない。
泣いている彼女を見ていたくなくて俯いたら、履き潰したスニーカーだけが目に入った。今日の夕飯なんだろなとか、思考を停止させた頭に全然関係のないことだけが浮かぶ。
だから、無意識に言ってしまった。
「そんなに、好きなのかよ」
文句を言うみたいに、不満そうに、嫌そうに、言ってしまった。するとどうだ。目を見開いてオレを見上げるこいつの、「どうしてそんなことを言うのかわからない」と言いたげな表情に無性に腹が立って、そのくせ悲しくなって、次から次へと言葉が出た。
「意味なくね?」
意味のない恋をしているのはオレのほう。
「兄貴を好きになったって、苦しいだけじゃん」
兄貴に片想いしている幼馴染を好きになって無様に苦しんでいるのはオレのほう。
よく言う、ブーメランってやつだ。オレ自身がこぼした言葉が鋭い針になって戻ってくる。チクチクと突き刺さる。形のない不確かな気持ちじゃなくて、明確な言葉にしているだけ痛みが強くなる。
オレにしとけよとか、そんなかっこいいことは言えやしない。もしもオレが少女漫画や恋愛ドラマの登場人物で、ヒロインに好きになってもらえるようなやつだったら自信満々に言えたのかもしれない。だけど現実はそうじゃない。オレは、他の男に恋をしている幼馴染に恋する二番手だ。
「わかってる」
わかってるの、本当は。
彼女は泣きもせずに呟いた。そこには諦めが滲んでいる。
「だから、手伝って」
「……言っとくけど、オレは手助けなんて、」
「わたしの失恋を手伝って」
今思い出したとばかりに、彼女の瞳に溜まった涙が落っこちた。言葉にならない苦しさの代わりにあふれてるみたいで、オレまで泣きたくなる。
「いいよ」
「ありがとう、エース」
彼女が失恋したら、損をするのは彼女で、得をするのはオレだ。傷つくのは彼女で、喜ぶのはオレ。
当たり前に頷く自分を、ずるいと思った。
◇
失恋を手伝ってと言った通り、彼女は兄貴に告った。オレが選んだ服を着て、兄貴が好きそうな女の子の格好で告って、やっぱり泣きながら帰ってきた。結果は聞かなくてもわかる。兄貴のことだから、彼女に向けられていた好意にも、なんならオレが彼女に向けている好意にも気づいていただろう。全部知っている上で、「もっと素敵な人がいるよ」と言ったんだろう。
「エース。ありがとう」
さっさと諦めればいいのにと思いながら手伝ったオレにでさえ、ありがとうと言う優しさも、健気さも、オレの罪悪感を一気に膨らませる。
下手くそな泣き笑いだった。幼い頃も、こんな風に下手くそに笑っていた。転んだときも喧嘩したときも、こいつはこうやって笑う。いつから好きになっていたかなんて覚えてない。
彼女は優しい兄貴が好きだと言うけれど、もしも初めっからやり直せたとして、意地悪なんてせずに優しくできていたらオレを好きになってくれていただろうか。そんな仮定ばかりが、変えようもない過去ばかりが、堂々巡りを繰り返す。
「なあ、オレの失恋も手伝ってよ」
あーあ、なに言ってんだよ。
諦めるつもりもないくせに真逆のことを口走る。ただ彼女を困らせて、オレのことを見てほしくて、そんなことを言っていた。こんなやつだから振り向いてもらえないんだろと考えながら。
「オレって兄貴に似てる?」
「うん」
「なら、ならさ」
兄貴の好きそうな女の子の格好をしている彼女が、オレの言葉に困り果てている。泣くのも忘れて、変な顔でオレを見ている。いつもより潤んでいる瞳にオレの恋敵にそっくりな顔が映っている。
身代わりでも、スペアでも、こいつの彼氏になれるならどうでもよかった。
「オレじゃ、ダメなわけ」
オレにしとけよ、なんて二枚目のためにあるようなセリフも言えやしない。情けなくてダサくて、声なんて震えていて、語尾はもうほとんど音になっていなかった。
本当は、わかっていた。押しに弱くて、幼馴染にとことん甘いこいつには、オレを突き放せないってこと。どうすればいいのかわからなくて困り果てるってこと。
片想いの苦しさがわかるからオレをふれなくて、傷つけたくなくて困ってる。そんなんだからオレみたいなやつに好かれて、つけ込まれるんだ。
「エース、わたしは……」
「好きなんだけど」
「……」
なにも知らない彼女は、また泣き出しそうな顔をしてオレを見つめていた。
どうしたら、こいつを追い詰めて、困らせて、答えをなくすことができるのか。本当は、全部わかってる。どんな言葉が、どんな表情が、どんな態度が、彼女を揺るがすのかなんて、テキストの数式なんかよりよっぽど。
「……エース」
震える声がオレにも聞こえた。
彼女は困って、悩んで、その頬に伸びたオレの指も拒否しない。そうやって、身動きも取れないままにこっちを見つめている。
「エース、まって」
羽音みたいにかすかな声だった。聞こえていないフリをするには丁度いいような。
「ホントに、すげー好き」
ほら、トドメには十分じゃん。