Ma Chérie


 ルークさんとの出会いは突然だった。

「あっ、おい! 押すなって! うおっ!?」

 廊下を走っていた男子生徒にぶつかった私の目には、ガラス製の瓶から飛び出した薄紫色の液体が宙を舞う様子はスローモーションに見えた。学園内の生徒たちが持っているそれが有害とは思えないけれど、魔法薬は人体に害をなす薬品や植物を含むものも多い。なんの薬かわからない分、避けなければ。

「いッ……!」

 しかし、本能的に動かそうとした右足に力を入れた瞬間に足首に痛みが走り、よろめいた体勢を立て直すには真横にある壁に手をつくしかなかった。
 ジュッ、と嫌な音がした。すぐさま見下ろした下半身──溶け始めているプリーツスカートに「なんでどうして」という疑問にも似た焦りが生じる。肌にも薬品がかかったのか、太ももや膝が火傷しているかのように熱くて痛い。炎が燃え広がっていくように、繊維のひとつひとつがほつれて溶けていく。慌てて手のひらで押えても衣服は無情にも溶け続け、ついには太ももが剥き出しになってしまった。
 廊下を走っていた男子生徒二人はあわあわとした様子で私に声をかけているが、少し動いただけでも下着が見えるだろう。今日に限って教室に置きっぱなしにしているジャケットは手元になく、それを腰に巻いて誤魔化すことはできない。たとえ暑くても我慢して着ておけばよかったと今さら考えたって私のスカートは溶けて、軽い火傷までしてしまっている。

「見えそうじゃね、あれ」
「手ェどけてくんねぇかな」

 一部始終を見ていたらしい他の生徒たちの声は品もなく、思いやりもない。少なくとも、今すぐ消え入りたいくらい恥ずかしい思いをしている女性に対してかける言葉ではないし、さらけ出している肌を見ようとする不躾な視線は下品にも程がある。
 身動きが取れない情けなさに泣きたくなった。どうして私がこんな目に遭わなければならないの。

「災難だったね」

 思えば、恋に落ちたのは多分その時だった。
 唇を噛んで涙を耐える私の肩に誰かの手が乗り、低い声が囁いた。思わず声の主のほうを見上げれば、絹の糸のように指通りの良さそうな月色の髪が廊下の明かりに照らされて淡く光っている。二年生のルーク・ハント先輩。私も、彼の顔と名前だけは知っていた。

「麗しいレディ。これを腰に巻くといい」
「え……」
「失礼するよ」

 ふわり、といい匂いがした。私の腰に彼のジャケットが巻き付けられ、うしろから香っていたその匂いはひときわ強くなる。太ももはジャケットの背中の部分に完全に覆い隠され、少しだけヘンテコな格好になった。

「エスコートは私がしてもよろしいかな?」
「え、わっ」

 その言葉と同時に背中と膝裏に添えられた手は易々と私を抱き上げ、突然の浮遊感に思わずベストを掴んでしまっても彼はバランスを崩さず、それどころかよりしっかりと抱きとめた。美しい髪は彼の動きに合わせて揺れ、切れ長のつり目と笑っているかのような持ち上がった口角は大人っぽい余裕を醸し出している。
 先ほどよりも近くなった距離に驚けばいいのか照れればいいのかわからず、か細い声で「おろしてください」と言っても先輩は頷かない。たくさんの生徒がいる中、男の人にお姫様抱っこをされるなんて恥ずかしくて仕方がないのだけれど、彼は私が恥ずかしく思うのも馬鹿らしくなってくるくらい堂々と歩いている。

「怪我をしている女性を放っておくなんて、私にはできないね」
「気づいてたんですか?」
「勿論だとも。私の目は欺けないよ。なにも気にせず身を預けるといい」
「あ、ありがとうございます……」

 変わり者の副寮長だと聞いていたが、とても優しい人なのかもしれない。最初にジャケットを貸してくれたのも、横抱きした時にスカートの中が見えないようにと配慮してくださったからだろう。
 警戒しているつもりはないものの、異性に善意で抱きしめられてしまえば緊張してしまっても無理はない。加えて、ハント先輩は友達との会話でも「かっこいい先輩」としてよく名前が上がる。そのくらい顔立ちが整っている人と距離が近いと、恥ずかしくて恥ずかしくて顔を覆いたくなる。周囲の音を拾うために無意識のうちにぺたっと横に広がった耳のそばで、低く笑う声が聞こえてきた。

「君の耳はとてもかわいらしいね」

 目を当てられないほどに真っ赤になったであろう頬を隠せるはずもなく、切れ長の両目にはめ込まれた翡翠の双眸はそんな私を意地悪そうに見下ろしていた。
 ひとつ、言い訳をするのなら。
 優しくて、かっこいい彼に恋をしないなんて無理な話なのだ。私の話を聞いた女の子たちは口々に「素敵」と言って、幼馴染は「ただの偶然ッスよ」と鼻で笑った。


  ◇


「どうしたんだい」
「いえ、ちょっと……ルークさんと初めて話した時のことを思い出してたんです」
「ああ……あの時のことを?」
「はい」

 お腹の前に回された腕に手を重ねると、背中に彼の体温が乗った。

「まさか、こんなに情熱的な女性だとは思わなかったけれどね」
「……お嫌いですか?」
「いいや。愛おしく思うよ。私が仕留めようと思っていたのに、仕留められたのは私だったというだけの話さ」

 不覚にもね、と笑っているルークさんの指先は私の頬を撫で、首の裏に口付けた。
 昼下がりのベッドは温かく、抜け出したばかりの微睡みの中にまた引きずり込まれそうになる。今でこそ、数ヶ月に一度の発情期が来る度に甘えてしまう私を嫌がることなく大切に愛してくれているけれど、こうして付き合う前は私の押しの強さにタジタジになっていた。
 肉食獣の獣人は大抵、狙った獲物は逃がさない。それが雌であれば特に、本能的に惹かれる雄を見つけた場合にはよっぽどのことがない限り手に入れる。

「ムシュー・タンポポの話では一人でいることが好きな女性だと聞いていたからね。出方を伺っていたら私のほうが捕えられてしまった」
「絶対に捕まえる気でしたから」
「おお、それは怖い」

 ──ナマエには悪いけれど、話しかけた時は下心もあったのさ。少しでも、きっかけが欲しくてね。
 ルークさんは付き合い始めたばかりの頃にとっておきの秘密を暴露した。最初はチーターの獣人である私への純粋な興味しかなかったけれど、私の猛アプローチを経て少しずつ変わり始めていたらしい。きっと、大きくも感じられるたった一学年の差を埋めようと躍起になっていた私に絆されてくれたのだろう。
 クラスメイトのアズールと契約を結んでまでルークさんの好みや趣味についての情報を手に入れていた学生時代が懐かしく感じられる。順調な交際を重ね、いい関係性を築けているとは思うものの、ナイトレイブンカレッジを卒業して数年が経った今でも彼がなにを考えているかわからない時がある。

「君は星のようだ」
「星?」
「夜空で寒々と光るけれど、その実触れられないほどに熱く燃えている。とても美して愛おしいのに、触れたら私まで火傷しそうだ」

 背中側を流れる髪を摘み、口付けたのか小さなリップ音が聞こえてきた。言うことなすことすべてが気障っぽくて、恋愛映画に登場する役者のように大袈裟な愛情表現は何年経っても擽ったく感じられる。けれども、彼が捧げてくれる愛情に慣れ始めているらしい私はどこか遠回しで比喩的な言葉を嬉しくも思っていた。
 それでも恥ずかしいのは恥ずかしい。照れていると思われたくなくて起き上がると腕は容易く離れ、演技っぽい残念そうな声が私の背中を責めた。

「もう起きるのかい?」
「お腹すきませんか?」
「ふふ、そうだね。そういうことにしておいてあげよう。昨晩はなにも食べていない」
「……ごめんなさい」
「どうして謝るんだい?」

 う、と言葉に詰まる私を見上げる瞳はひどく楽しそうで、ベッドに頬杖をついている彼は薄い唇を愉快そうにつり上げている。
 ルークさんが夜ご飯を食べられなかったのは私のせいだ。

「昨日の君はとても情熱的で嬉しかったよ。ナマエは時が来ないとあんなに素直に甘えてくれないからね」
「も、もう……勘弁してください……」
「愛する女性にあんなに求められては、理性的ではいられないものさ」
「ルークさん……!」

 わざとだ。私をからかっているに違いない。私が恥ずかしがるとわかっていて、あえて口にしているのだ。そばにいる時間が長くなるにつれて、ルークさんは優しさ以外も見せるようになった気がする。こんな風に私を困らせて、とてもとても楽しそうに笑っているのだ。
 かと言って言い返しても返り討ちに遭うだけだとわかっている。諦めてバスルームに逃げ込めば、首筋や胸元に散っている鬱血痕が鏡にも映っていた。キスマークや噛み跡は付けたがらないルークさんらしくもなく、昨日の夜は彼も興奮していたのかもしれない。

「……」

 肌に残る証を見つめたって夜のことを思い出して恥ずかしくなるだけだ。
 すぐに目を逸らし、顔を洗って歯を磨いているとルークさんもバスルームに入ってきた。相変わらず寝癖知らずの柔らかな髪はヘアセットをしなくとも綺麗で、羨ましい。頑固な寝癖と格闘する私を他所に、手早く洗顔と歯磨きを済ませた彼は私の髪を器用に解き、ひとつにまとめてしまった。彼なりの甘やかし方は、いつも甘すぎると思うのだ。

「すまないね。そんなにいじけないで」
「……わ、私だって発情期中はつらいんです……」
「ああ、そうだろうとも。けれど、恥ずかしがるナマエがかわいくてつい虐めてしまうんだ」
「……」
「朝ご飯は私が作ろう。昨日は無理をさせたからね」
「だ、だからそういうのは……!」
「ノンノン、今のは言葉のあやだ」

 わかってくれるだろう? と言って瞼にキスを落とした彼は私の手を引き、リビングのソファに座らせた。ルークさんと二人で選んだソファは座り心地が良く、映画やドラマを彼と並んで見るには十分な特等席だ。
 二人で選んで買ったものが溢れる部屋で、学生時代よりもずっと大人びた顔でルークさんは笑う。

「リクエストはなんでもどうぞ、レディ?」

 出会ったばかりの頃のように呼ぶから、恥ずかしさも忘れてしまう。いつも、彼は私の機嫌を直す魔法を使うのだ。

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