feel something for you


 狼の愛って、少し重い。
 他人に縛られたり、自由を奪われたり。そういうことが嫌いな私には、狼という生き物の愛は面倒くさくて重いものだと思った。

 大学に進学してから、地元に帰る頻度は明らかに減っている。課題やバイトで忙しい日々を過ごすうちに、家族や地元の友人たちのことはおざなりになり、気がつけば輝石の国を出て二年も経っていた。
 夏の休暇で久々に降り立った生まれ故郷は、少しも変わらない街並で私を出迎えてくれた。実家に帰ったら、地元に残った友達と遊んだり、だらだらしながらアイスを食べたり、去年とそう変わらない夏を過ごす予定だ。お母さんは我が家で私の好物を用意して待ってくれているだろう。
 太陽の光をさんさんと受け、熱気をくゆらす黒いアスファルトの上では陽炎が踊り、ほとんど荷物が入っていないキャリーケースを引きずるだけでも汗が流れる。日傘を差しているだけ少しは涼しくなっているものの、歩いていれば暑くもなる。生まれ育ったこの土地は、雪国として有名な観光名所であると同時に夏は避暑地となる。それでも暑いのは暑いのだけれど、他の地域に比べたらやっぱり過ごしやすい気温らしい。
 日頃、まったくと言っていいほど運動をしていないツケが回ってきたのかもしれない。駅から家までの距離がこんなにも遠く感じるなんて。

「あっつ〜……」

 入道雲に縁取られている青空に向かってぼやく私の真横を、麦わら帽子やキャップを被った女の子と男の子たちが追い抜いて走り去っていく。きゃはは、と子どもらしい高めの笑い声と一緒に、彼らが肩にかけているショルダー付きの水筒から響く氷同士がぶつかり合う涼やかな音も遠のいていった。彼らは、短い夏を目いっぱい楽しんでいるんだろう。子どもは元気が良くていいなぁ。あ、今のは少しおばさんっぽかったかもしれない。
 十年以上前までは、私もあんな風に暑い真夏も寒い真冬も走り回って遊んでいた。今はもう、そんな元気も若さもないけれど。
 子どもの頃によく訪れていた駄菓子屋さん、年下の幼馴染と遊んだ公園、エレメンタリースクールに通っていた頃の通学路。全部ちゃんと形を保って残っているのにどこか寂しさを感じるのは、思い出ばかりを置いてけぼりにして私だけが大人になったからだろう。
 懐かしさと寂しさを覚えながら家に帰ると、お母さんではなく横にも縦にも大きな男の子が私を出迎えた。ぴょこっと生えた白い耳はかわいらしいが、筋肉の塊のような鍛え抜かれた身体を見てしまうとかわいいとは思えなくなる。
 暑さにやられて家を間違えてしまったのかもしれない。一瞬焦ったけれど、玄関の造りも壁にかけられている家族写真も記憶にある我が家のものと同じだった。じゃあ誰。この子誰。まさか泥棒? 泥棒にしては若すぎる上に、住人を前にしても落ち着き払いすぎている気がするものの、泥棒ならばやられる前に逃げて通報しなければならない。
 あの、と男の子の口が動いたが、彼がなにかを言う前にフライ返しを持っているお母さんがキッチンのほうから顔を出した。

「どうしたの、ナマエ。ジャックくんだって困ってるじゃないの」
「ジャックくん……?」

 ジャックくん。近所の、年下の男の子。白い髪とふわふわの耳がかわいいジャック・ハウルくんなら、今は十七歳だろう。五年くらい会っていないから今はどんな子に育っているのか──白い髪とふわふわの耳?
 ハッとして目の前の彼を見上げる。彼の頭にも、ぴょこぴょこしたかわいい耳が生えていた。もしかして、筋肉ムキムキなこの子が「姉ちゃん」と慕ってくれていたあのジャックなのだろうか。

「ジャック?」

 恐る恐る聞くと、彼の耳がぴこんと動いた。

「……っす」
「嘘!! 久しぶり〜! うわ〜、大きくなったね! 誰かわかんなかったよ〜」

 男の子は五年でこうも変わるものなのかと驚く私に、ジャックは照れくさそうに頬をかいている。本気で泥棒かと思っちゃった。ジャックが聞いたら絶対に怒るだろうし、口に出せるような勘違いでもないので「わかんなかった〜!」と笑い飛ばし、キャリーケースを二階の部屋に運ぼうとすると、ジャックがひょいっと持ち上げた。いつの間にやら、紳士的な青年に成長したらしい。でも、荷物なんてほとんど入っていないキャリーケースはかなり軽く、彼の力を借りなくても簡単に運べる。お客さんにそんな仕事をさせるわけにもいかないため、奪い返そうとしたら一歩引かれた。渡さない、ということだろう。

「いいよ、そんなの軽いから」
「あんたの部屋でいいんだろ」

 これはもう譲ってくれない。ジャックはまだ小さかった時から子どもと思えないくらいに頑固で諦めが悪かった。五年のブランクはあっても、彼の人となりはそれなりにわかっている私は諦めて頷き、階段を上って自室の扉を開けた。冷房も入っていない部屋のむわっとした熱気が顔に当たり、火照っている身体が更に熱くなる。一年前と変わっていない部屋には、大学に入る前に使っていた参考書やノートも置きっぱなしになっていた。

「えーと、そのあたりに置いておいて」
「っす」

 なんだろう、ジャックは少しだけ余所余所しくなった気がする。昔はもう少し笑顔を見せてくれて、もっと話しかけてくれていた。久々に会うから距離感が掴めていないだけかもしれないが、仲良くしていた男の子に気まずげにされてしまうと私も気まずくなってしまう。

「ありがとね。……行こっか」
「いや……別に」

 会話がまったく弾まない。お喋りなお母さんが恋しくなって、ベッド脇にキャリーケースを置いた彼の顔を見ないまま階段を降り、気まずい雰囲気をどうにかしたい一心で気が急いでいたからか最後の数段で足を滑らせた。手すりさえ掴んでおけばよかったと後悔しても、私の身体はすでに宙に浮いている。嫌な浮遊感と、落下した時の痛みを想像して全身から汗が一気に引いたけれど、悲鳴を上げる前に腕を掴まれ、お腹の前にも太い腕が回った。

「ナマエ姉ちゃ……さんは変わらねぇな。そういうところ」
「……ご、ごめん……」

 引き寄せられたことで距離が縮まり、呆れた顔が目と鼻の先にあった。睫毛の白さまでわかってしまうような距離で鋭い光を持つ瞳が輝き、くっついている背中からは穏やかな心音が伝わってきた。けれど、本当にいきなり、とても唐突に、彼の心臓の音がドッと激しく動き始めた。
 照れたのか、恥ずかしかったのか。ジャックは私から離れてしまい、支えをなくした私の身体は再び宙に浮いた。
 今度こそ落ちる。落ちたら捻挫くらいの怪我はしてしまうだろう。恐ろしくて固く目をつぶった私の身体が、熱いものに包まれた。

「悪い!! 怪我してねぇか!」

 焦った表情で私の腕を引いて抱き寄せた彼は持ち前の運動神経で一階に着地し、血の気の引いた顔色のまま私の腕を持ち上げたり肩を見たりと怪我の有無を確認した。ジャックのおかげで怪我はないけれど、抱きしめられたままなのでどうしようもない。心配性なジャックを安心させるために「大丈夫」と告げても、彼は謝ってばかりでいる。
 女に怪我でもさせようものなら、一生責任を取る! と言いそうなくらい真面目で硬派な彼らしく、その顔色は青ざめたままだ。

「ねえジャック」
「悪い、俺のせいだ」
「ジャック」
「病院行くか?」
「ジャック、平気だってば。どうしてそんなに心配するの」
「そりゃ……」

 そりゃ、のあとは続かなかった。お母さんの「ご飯よ〜」と言う明るい声がジャックの声を遮り、口を噤んだ彼は私を立ち上がらせると逃れるようにリビングのほうへと行ってしまった。

「……そういえば、ジャックはどうしてうちにいるの?」
「おばさんの荷物持つのを手伝ったら飯に誘われた」
「そうなんだ、ありがとね」

 お母さんは一気に買い込む癖があるから、偶然見かけたジャックが手伝ってくれたんだろう。いい子だから、手伝うと言って譲らない彼の姿が目に浮かぶ。いや、とだけ遠慮がちに答えた彼はお礼も兼ねた食卓で、私とは少し離れた席に腰かけた。


  ◇


 昼食を終えて、ジャックは家に帰った。彼もなかなか実家には帰れないナイトレイブンカレッジの学生だから、あんまり家族団欒のための時間を奪うのも無粋だろう。
 私はと言うと、夜ご飯のあとにアイスが食べたくなって近所のスーパーを訪れていた。こってりした濃厚なアイスも捨て難いけれど、さっぱりとしたフルーツ系のアイスが夏には食べたくなる。
 柑橘系のアイスキャンディーを手に、会計を終えて外に出るとスーパーの看板のネオンが明るい夏の夜には浮いて見えた。レジの猫の獣人の男の子はちょっとだけ愛想が悪かったけれど、アイスが手元にある今はなにがあっても上機嫌でいられそうだ。早く食べたい。歩きながら食べちゃおうかな、なんて行儀の悪いことを考えながら真夏の星座が輝く夜空を見上げていたら、足音が背後から聞こえてきた。こんな熱帯夜にランニングをするなんて、軽快に走るその人は鋼の心でも持っているんだろう。
 左側に寄り、その人が追い抜くのを待っていると、足音は私に近づくにつれてゆっくりになり、たった数メートル離れた位置で立ち止まったようだった。それとなく、自然に見えるように振り向いた先には額から汗を流し、不機嫌そうに眉間に皺を寄せているジャックが立っていた。私は意外な人物がいて驚いたが、彼はむすっとしている。

「なにやってんだ、ナマエさん」
「びっくりした、ジャックだったんだ」
「なにやってんだ」
「アイス買いに……」
「こんな夜更けに、女一人で?」

 年上なのに情けなくも気圧された私のしどろもどろな返答にジャックはその眼光をより厳しく光らせた。ちょっと怖い。悪いことはしていないはずだ。真夜中に食べるアイスのほうがよっぽど背徳感がある。
 彼の顔や声に私を責めているような気配を感じて居心地が悪い。事実、責めているんだろう。だけど、夜更けと言ってもまだ九時台で、疎らに人通りだってある。

「危なくないよ」
「危ねぇだろ」
「お昼から変だよ、ジャック。そんなに心配したことなかったのに」
「……」

 ジャックはお昼のあの時みたいにまたしても黙った。彼は確かに気を許した相手にはとことん甘くも厳しくもなる子だったが、昔はこんなに心配性ではなかったと思う。私が怪我をしても心配こそすれど、病院、と提案したことさえなかった。

「……」
「もう行くからね?」

 答えない彼にしびれを切らし、街灯に照らされる歩道を再び歩き始めた私には彼がなにを考えているのかわかるはずもない。ジジジ、と擦れるような音が魔法の力で輝く街灯から聞こえてくる。早くアイスを食べて、寝よう──少し先の予定を立てていた私の腕は、ジャックに掴まれた。今日は、彼に掴まれてばかりだ。

「あんたは女だ」
「え? う、うん」
「今日、久々に会ったらあんたが小さくなってて驚いた」
「ジャックが大きくなっただけだよ」
「……そりゃわかってる」

 続けて、ジャックは言った。

「あんた、柔らかすぎて心配になるんだよ。俺が力を入れたら折れそうじゃねぇか。それに、細すぎて……」
「じゃ、じゃっく……ひ!?」

 がぶり、と噛まれた。剥き出しになっている首に、甘噛みされた。
 待って、なんで?
 惚ける私を前に正気に戻ったらしいジャックは一歩どころか三歩以上は離れ、街灯に照らされる真っ赤な顔を隠しもせずに口をパクパクと魚のように開閉した。ジャックは居た堪れなさそうにしているけれど、顔を赤くしたいのは私だし、逃げ出したいのも私のほうだ。

「悪い……」
「な、なんで噛んだの」
「……」
「……ジャック?」
「狼の……」
「狼の?」
「狼の……愛情表現だ」

 アイスが入っている袋はアスファルトに落ちた。きっともう、溶けてしまっているだろう。
 狼の、ジャックの愛情表現を受ける日が来るとは夢にも思っていなかった。彼は弟みたいな、小さな頃によく遊んでいた近所の男の子だ。年上である私は、こういう時こそ余裕を見せなくちゃいけないのに顔が熱くて熱くて心臓も痛かった。
 夏の暑さにやられてしまったのか、ジャックの真剣な眼差しにやられてしまったのか、私の頭の中もどろどろに溶けそうになっている。

「……やっちまったもんは仕方ねぇよな」

 独り言のように、赤い顔のまま言葉を紡ぐジャックの真横をマジカルホイールが通り抜ける。ふわりと吹いた蒸し暑い風は夏の気配を忍ばせて、私の髪を揺らした。

「多分、ナマエさんが好きだ」

 もう一度近くなった距離、逃げなかった時点で私はこの夏に搦め取られていた。
 狼の獣人は、一度好きになった相手と添い遂げる。その愛情から逃げられた獣人も、人間も、人魚もいない。そうまことしやかに囁かれるくらい、狼の愛情は深くて強い。

「ジャック」

 私の声なんて聞こえないとばかりに、首筋に唇が触れる。本当は、大きなその耳で聞こえているくせに。
 他人に縛られたり、自由を奪われたり。そういうことが嫌いな私には、狼という生き物の愛は面倒くさくて重いと思えて仕方がなかったはずなのに、最後の追い討ちとばかりになされた甘噛みからは逃げられなかった。

 私は茹だるような夏の夜に仕留められた。満月の光が眩しい、夜のことだ。

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