春が来るのはあなたのせいです


 先生。
 先生のこと、好きなんです。

 一度きりの人生、上手くいかないことのほうが圧倒的に多い。順風満帆に見える人だって、それなりに苦労してそれなりに頑張って生きているのかもしれない。わたしも、他人から見れば“成功している側の人間”に見えていたことだろう。
 動物言語学を専攻に博士の道を志し、縁あって名門の魔法士養成学校の教師になった。ツイステッドワンダーランドの双璧をなすナイトレイブンカレッジやロイヤルソードアカデミーには敵わないにしても、そこそこの知名度を誇る中堅の学校。緊張と期待に心を躍らせた、初めて教壇に立った日のことはよく覚えている。もちろん、若い生徒たちとの衝突は多々あった。それでも慣れないなりに足掻き、今年からはクラスも受け持つことになっていた。すべてが順調で、すべてが真新しい。このまま結婚せずに仕事に生きてもいいかもしれない。本気でそう思うくらい、教師という職業は天職に思えた。
 ──なのに。なのにだ。

「今回のことはあちらの学園長にも話をつけている。なあに、安心するといい。彼は君を悪いようにはしないだろう」
「……はい。ご迷惑をおかけして……申し訳ありません」

 どうしてわたしが、校長に頭を下げなければならないのだろう。わたしはなにもしていないのに。
「先生のこと、好きなんです」だから、お願いです。そう言った彼の声が頭から離れない。誰もいない資料室でいきなり押し倒されて、気がついたら彼は気を失って倒れていた。わたしは無意識に正当防衛としての魔法を使っていたらしい。わたしの叫び声や物音に気がついて資料室に飛び込んできた先生方は室内の惨状に息を呑んだ。
 人生が崩壊するきっかけなんて、予測もしていない方向からいきなり訪れる。

「それと、あの子は謹慎処分が決まったよ」
「……そう、ですか」
「あの子のためにも、君のためにも、今回のことは───」

 続きは聞かなくとも、彼の言わんとすることはその目を見れば理解できた。誰にも言うなと。学校の看板に泥を塗るようなことをするなと、言外に訴えているのだ。
 ナイトレイブンカレッジへの赴任が決まったわたしに言い渡された言葉は残酷だった。この学校の尊厳のために、被害者だったはずのわたしは泣き寝入りをしなければならない。


  ◇


 九月の空は青くて、高かった。誰もが認める名門校、ナイトレイブンカレッジは学生の質も教師陣の質も高い。不真面目な子も一定数いるものの、ほとんどの生徒が少しテキストを読んだだけで内容を理解する。それは彼らが生まれ持った優秀さを物語っていた。

「センセー、わかんなーい」
「まだテキストを開いてすらいないじゃない。三十六ページを開いて」
「え〜? センセーが開いてよ」

 この学園は前の学校よりもやりにくい。若い女だからという理由で舐められる。特に、ここは男子校で女はまったくと言っていいほどいないから。
 わたしが男だったなら、いくつも年下の少年たちによってなされる新人いびりも多少はマシだったのかもしれない。仮に本当に男だったとしても上手くやれるかはわからないけれど、いくら注意しても話を聞かない生徒たちが言うことを聞いてくれるようになるなら性別を変える魔法薬だって飲みたいところだ。

「センセー、カレシいんの?」
「授業に集中しなさい」

 トレイン先生やクルーウェル先生に反抗できない生徒たちのちょうどいいサンドバック──それが、今のわたしだった。エリート揃いの教師陣は揃いも揃って優秀で、自由奔放な生徒たちを従わせるだけの実力がある。片や、わたしはどうだろうか? 二十代半ばの、名門校とは言えナイトレイブンカレッジよりも格下の学校からいきなり赴任してきた女教師。我ながら、舐められる要素は十分に揃っていると思う。
 特に、サバナクロー寮の生徒が多いクラスの受け持ちは大変だった。学級崩壊寸前のクラスに教えている気分になるのだ。授業中に紙飛行機が飛んだり、テキストで隠しながら早弁をしたり、果てには勝手に席から立ったり。まるで動物園である。もはやチンパンジーとかオランウータンのレベルを超えて、交信不可能な宇宙人のように見えてしまう。
 この学園の生徒たちは優秀な魔力と引き換えになにか大事なものを失ってしまったのかもしれない。いつしか、本気でそう思うようになった。
 こんな学園でも、人は慣れる生き物らしい。頭痛を覚えながら終える授業に慣れた頃、新しい環境に慣れてくるとわたしにも少しずつ余裕が生まれ始めていた。余裕と落ち着きを取り戻せば、見えていなかったものが見えてくる。わたしはわたしのやり方で授業のスタイルを確立していけばいい。ただ、トレイン先生やクルーウェル先生の授業は参考にはならない。彼らのような厳格な教師陣による恐怖政治じみた授業は大抵の生徒を大人しくさせているが、すでに舐められているわたしが真似をしたら大いに反発されるだけだとわかりきっている。綱渡りはしない。

「ラインハルトくん、凄いわ。ここの訳は難しかったでしょう?」
「いや……あざっす……」

 リカオンの獣人であるラインハルトくんは大きな耳をぴるると震わせながらはにかんだ。数ヶ月前までは悪魔のように思えていた彼も、かわいらしく思えてくる。兼ねてより用いていた褒めて伸ばす方式は思いのほか効果があった。どこか斜に構えている彼らは素直に受け止めてくれないと思っていたのに、存外にも高校生らしい部分は残っていたらしい。
 他の先生方の授業を鞭とするならば、わたしの授業は飴だ。そうして方針を定めていくうちに、例の事件で負った心の傷も癒えかけていた。
 ナイトレイブンカレッジに来て一年が経った秋だっただろうか。その年の秋は肌寒くて、膝にかけるブランケットが手放せなかった。わたしに関する嫌な噂が流れたのは、敷地内の草木が色を変え始めていた矢先のことだ。

「前の学校で生徒と恋愛して飛ばされたらしいぜ」

 生徒たちの声が、わたしを追い出した校長の声を思い出させた。違う。言いたくても、言えなかった。一方的に襲われそうになったと声を大にして言える女性が、この世にどれほどいるだろう。恋愛、なんて生易しいものなんかじゃない。わたしは被害者で、彼は加害者だった。
 噂が流れるのは早い。いつかこうなるだろうなという予感と、やっぱりなという失望は存外にわたしを打ちのめした。泣いちゃダメだとわかってる。泣いたら、わたしをここに飛ばすことで事を解決しようとした校長に負ける気がした。負けるな、押し潰されるな。そうやって歯を食いしばって耐えても、悪夢のような現実は無情に押し寄せてくる。

「気にしなくていい」

 どうやらわたしは、クルーウェル先生に心配されるほど弱っているように見えたらしかった。彼はコーヒーが入ったマグカップを片手に、生徒が持ってきた日誌を読んでいる。彼の横顔に浮かんでいたのは素っ気ない、無愛想な優しさだった。ぼんやりと、今ここでこの人に甘えられるような性格をしていたらあのときも誰かが助けてくれたのだろうかと考えた。
「……なにがですか?」素知らぬふりをすると、クルーウェル先生はかすかに笑った気がした。

「……いや、お前が気にしてないのならいい」

 だが、と言葉を切った彼はマグをデスクに置いた。

「女性に寝不足は大敵だろう」

 わたしの目元に触れた革手袋の感触は一瞬で離れた。引き出しから取り出した薬瓶をわたしに握らせた彼の髪がランプの光を浴びている。こんなに近くで彼の顔を見るのは初めてだった。黒いアイシャドウが乗った瞼はまだまだ瑞々しく、若々しい見た目とは裏腹にその瞳は色っぽい。
 目が合ってしまう前に手の中にある薬瓶に視線を移し、揺らしてみると淡い色の液体もたぷたぷと揺れた。

「これは……?」
「眠り薬だ」
「……わざわざ作ってくださったんですか?」
「生徒の補習で作らせたら俺も久々に作りたくなっただけだ。使いすぎるなよ。一晩程度なら数滴だけで十分だ」

 素っ気ないのに、優しい。涙腺が緩んだ拍子に泣き出しそうになり、お礼だけを言って職員室から出た。もっと気の利いた言葉を言えたらいいのに、なんにも言えない自分がいやになる。多分あの場にずっといたら泣いていた。
 ──先生のこと、好きなんです。
 ──前の学校で生徒と恋愛して飛ばされたらしいぜ。
 呪詛のように蟠り続ける声も、ナイトレイブンカレッジで流れている噂も、考えなくてすむ夜が欲しかった。頭がいいクルーウェル先生はそれすらもお見通しだったのかもしれない。
 眠り薬を一滴垂らしたホットミルクを飲んだその晩は、一度も目覚めることなくよく眠れた。とろりとした液体は魔法薬らしく少し苦いけれど、その苦さが甘いミルクにはちょうどよかった。クルーウェル先生になにかお礼をしよう──考えながら、目を閉ざす。すると朝を迎えているのだから不思議だった。
 お礼をしようとしたら彼はいつもわたしに「無理はするなよ」と言う。優しいのか厳しいのか、どちらとも言えない人だ。わたしがこの学園に来たばかりの頃は無関心を貫いていた彼がこうも気にかけてくれる理由はわからない。実は面倒見がいい質なのだろう。

「今日は飲みに行くか?」
「いつものところ?」
「ああ」

 彼と、職場の同僚として親しくなるまでそう時間はかからなかった。学園の外ではファーストネームで呼び合ったし、週末には食事に出かけることもあった。楽しい、幸せ。彼のそばにいるとそう思う。彼特製の眠り薬も使わなくてもいいようになって、気持ちも前向きになり始めていた。
 でも、根本的な問題はまだ終わっていなかった。

「俺ともヤッてくんねーかなぁ、あの先生」
「まあ、確かにかわいいよな。いつもすましてっから泣き顔見てみてぇ」

 職員会議のあとにクルーウェル先生と並んで歩いていたら、近くの教室からそんな声が聞こえてきた。考えるまでもない。わたしの話だ。
 いくつも年下の生徒たちに性的に見られて、どこに行ってもそんな目で見られる。それを、彼にも聞かれて。居た堪れない。大人としても、女としても、舐められてばかりだ。立ち止まってしまった彼は気遣わしげにわたしを見やり、ギョッと目を見開いた。
 生徒の言葉で泣くなんて情けない。ただでさえ消えてしまいたいのに、今以上に自分を情けないと思いたくなくて乱暴に涙を拭った。

「ごっ、ごめなさい、目にゴミが入ったみたい」

 無言でこちらを見下ろしたクルーウェル先生はわたしの頭に手を置いて髪をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。やがて手は離れ、わたしが小声で名前を呼ぶ前に彼は教室に入っていく。なにをしたいのかわからない。
 クルーウェル先生どうしたんすか。俺らの中の誰かがやらかしたとか? 生徒たちの明るい声が聞こえてきた。

「いや。俺の恋人の話が聞こえてきたものだからな。俺も仲間に入れてくれるだろう?」

 え、と声をこぼしたのはわたしも生徒も同じだった。彼と恋人同士になった覚えはない。わたしを守ろうとしてくれている。頭が混乱して、涙だけがぽろぽろと流れた。

「お前らのような駄犬がなにを妄想しようとどうでもいいが、俺の前でも、彼女の前でも、その話は二度とするな。不愉快だ」
「す、すみません……」
「それに……泣き顔が見たいんだったか? 残念だったな。それを見ていいのはこの俺だけだ」

 確かに今さっき見せてしまったけれど、その言い方は誤解を招いてしまう気がする。しかし、説教モードのスイッチが入っている彼にすっかり怯えてしまっている生徒たちはひたすら謝り倒すロボットのようになっていた。
 彼にこんなことまでさせてしまって申し訳ない。そのくせ彼の優しさが嬉しくて泣いてしまう自分が愚かしい。しばらくして教室から出てきた彼はわたしを見て眉を寄せ、すぐにため息をついた。

「嘘までつかせてごめんなさ──」
「言うな」

 最後まで言いきる前に唇を手で塞がれ、彼はその手の甲に口づけた。彼の手がなかったら、わたしたちはキスしていただろう。驚きで涙も引っ込み、わたしから離れた彼を凝視してしまう。

「校内だから我慢してやる。クルーウェル様に感謝しろ」

 なにを我慢したのか、聞くまでもない。

「いいか、俺はどうでもいい女のために眠り薬を作ってやるほどお人好しではないし休日を使ってやるほど暇ではない」
「……クルーウェル先生、」
「男に対して恐怖心を持っているならと今まで手加減していたが、今わかった」

 ──そんな顔をするなら遠慮はしない。
 告げた彼の瞳に、真っ赤な顔をしているわたしが映っていた。

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