あまやかな罅にあらましき星


 俺はいつも、この性別を憎たらしく思っている。
 かのお方に初恋を捧げた日、俺は女として生きる未来と、長い髪を切り捨てた。鋏の刃が髪を切り落とす音、ダストボックスに捨てた髪の束。その音も、光景も、今でも覚えている。
 これから先、髪を伸ばすことはない。俺はもう、男なのだから。そう思いながら見上げた鏡に映っていたのは、少年なのか少女なのかもわからない子どもだった。



 不敬かつ烏滸がましい感情だったと今でこそわかっているけれど、初恋はマレウス様だった。これは誰にも言ったことのない秘密だ。きっと、あの親父様でさえも知らないし、色恋沙汰にはとことん鈍いシルバーとセベクも勿論知らないだろう。とうに諦めた初恋を彼らに話すつもりもないが、マレウス様を敬愛するセベクに口を滑らせてしまったら「不敬だぞ!」とガミガミ怒鳴られそうだからなにがあっても暴露はしないと心に決めている。セベクは一旦スイッチが入るとうんざりするほど話が長いのだ。だから、刺激しないように接するのが吉。耳を痛めたくないならお利口にしておいたほうがいい。だと言うのに、なんだかんだで短気なシルバーは真正面からぶつかっていくから毎日のように喧嘩が絶えない。もう十代も半ばを超えたのだからいい加減に落ち着いてほしいと常々思っているのだが、精神が幼い彼らが大人になるのはまだ先の話だろう。
 日常的に起こる喧嘩には、マレウス様も親父様もすっかり匙を投げられてしまっていた。親父様なんて「男の子は喧嘩して成長するものじゃ。はっはっはっ」とおっしゃられる始末だ。
 やれシルバーが、やれセベクが、とどうでもいい話を聞かされるこちらの身にもなっていただきたいが、ぶつかり合う二人の姿を微笑ましそうに見ていらっしゃる親父様にはなにを申し上げても無意味だろう。

「またやったの、お前ら」

 その問いへの返答はない。
 思わず漏れたため息は、ムスッとした表情で座っているセベクには聞こえることなく滑り落ちた。ここのところ、毎日ため息をついている気がする。俺の疲労を跳ね上がらせる元凶その一は、耐え難い! と言わんばかりに勢いよく立ち上がった。彼の勢いに負けて吹っ飛んだ丸椅子は大きな音を立てながらひっくり返り、床を転がる。
 面倒くさく思いながらも視線をずらすと、翠の瞳に怒気を孕ませているセベクと目が合った。人間よりも青白い頬は真っ赤に腫れ、唇には乾燥した赤黒い血液がこびり付いている。

「シルバーにボコボコにされたんだろ」
「されてなどいない!」
「じゃあ誰にやられたのさ」
「シルバーだ!!」
「やられてるじゃん」
「うるさい!! シルバーは若様の護衛を仰せつかっているという自覚が足りん!!」
「うるさいのはどっちだよ……」

 耳がキーンと痛む。
 話を聞くだけならばまだいいが、まともに相手をしていたら予習復習の時間どころか鍛錬するための時間までも奪われる。ただでさえ、女の俺は力や筋力がない。成長期を迎えてからは特に、筋肉も付きにくくなった。
 どうにか話を切り上げて走りに行きたい。稽古をしないと、また置いていかれる。そう思いつつ、焦りを隠してセベクの愚痴に付き合う俺はとんだお人好しなのかもしれない。

「僕だってシルバーの右頬に一発決めたんだぞ!!」
「オーケー、オーケー。すごいじゃん」

 覚悟はしていたけれど、セベクがナイトレイブンカレッジに入学してから随分と騒がしくなった。どこに行っても若様若様と叫んでいるため、セベクの居場所はすぐにわかる。あと数分吐き出させてやれば落ち着くだろうと考え、長椅子に座り直した。
 するとちょうど、監督生と歩かれるマレウス様を見つけた。マレウス様のおそばにはシルバーがいて、親父様もいらっしゃる。
 オンボロ寮の監督生。彼が抱いている灰色の猫はなにやら騒いでいるが、マレウス様も親父様もそれを咎める気配はない。むしろ、楽しそうに笑っている。
 魔力もない、ひ弱な少年。そのくせ、あの監督生は俺が欲しいものすべてを持っている。
 爪先が氷のように冷たい。肚の底で煮えくり返る衝動は目を当てられぬほどに醜く、思考は「どうして」の四文字ばかりを踊らせる。

『どうして、わたしはおんななのですか』

 そう言って、親父様を困らせたことがある。
 生まれつき、魔力が少なかったから死に物狂いで魔法を学んだ。生まれつき、女だったからシルバーとセベクに置いていかれないように鍛錬を重ねた。置いていってほしくなかった。女に生まれてしまった俺を、捨てないでほしかった。
 女になんて、生まれたくなかった。

「……ナマエ?」

 いつからか、セベクは俺との手合わせで手加減をするようになった。セベクだけではなく、シルバーも、俺には本気を出さない。
 俺が監督生に向けている嫉妬も羨望も知らないセベクは、その優しさが俺を苦しめているとも知らずにこの名を呼んた。

「なんでもないよ。ほら、マレウス様たちがあっちにいらっしゃるから行ってきたらどうだ」
「あ、ああ……だが、」
「俺はこれから用事あんだよ」

 へらりとした、明るすぎる笑顔が顔に張り付いている。視線をあちらこちらに巡らせたセベクは少し悩み、結局なにも告げずに俺から離れた。

 俺は、嘘ばかりがうまくなった。

 大嫌いだ。女の身体とは思えぬほどに傷だらけになっているくせに、一丁前に女らしく育っていく身体が大嫌いだ。胸はふくらんで、月に一度は月経が来て、声も高いまま。
 監督生はなんでも持っている。魔力がなくても彼らのそばにいることができて、俺がなりたくてもなれない男という性別で。
 羨ましい。ずるい。心が痛い。痛くて痛くて、どこが痛いのかもわからなくなってくる。
 降りしきる雨に晒され、水分を含んだ衣服はずしりと重たく、白い布に押し潰された胸の谷間が張り付くシャツ越しに見えた。忌々しく、憎たらしい女の証は、今もなお育ち続けている。地面から芽吹いて両足に絡みつく蔦のように、自由を奪う足枷のように、「お前は女なんだよ」と呪詛の言の葉を吐いては俺の心を殺していく。
 痛みに慣れて、麻痺して、もう限界だと気がついた時には立っていられなくなる。だけど立ち止まるわけにはいかなくて、俺は馬鹿みたいに剣を振るうしかない。
 水たまりを踏む水音が聞こえた直後、右腕を掴まれた。見慣れた銀色の髪もまた、俺と同じように雨に濡れている。ずぶ濡れになっている俺を見下ろすシルバーの表情は明るいとは決して言えず、眉間には気難しそうな皺まで刻まれていた。

「いい加減、戻れ」
「うるさい」
「風邪を引く」
「うるさい! お前には関係ない……!!」

 こんなの子どもじみた八つ当たりだとわかっていても、俺が欲しいものを持っているシルバーが許せなかった。俺も欲しいんだ。男に生まれたかったんだ。そうしたらきっと、俺も自信を持てていた気がするんだ。
 痛くて痛くてたまらない。ちっとも力を込めていないであろうシルバーの手を振り解けない弱さが、あんまりにも残酷だった。

「放せよ!! 放せ!!」
「……ナマエ。なにをそんなに焦っているんだ。お前らしくもない」
「俺らしさってなんだよ……!! お前らにすぐに負けるところか!?」
「ナマエ」
「俺は、生まれたくて女に生まれたわけじゃな──」

 ざあざあと降っていた雨の音が一瞬だけ遠のいた気がした。剣は手から滑り落ち、シルバーはスラックスの裾が汚れることも気にせずに俺たちのあいだにできた水たまりを踏み込んだ。
 雨で冷たくなった唇から温もりが伝わり、シルバーの髪から滴り落ちた水滴が頬を流れる。この男はなにをしているのか。俺はなにをされているのか。
 雨の匂いがわからなくなるほどに、シルバーの匂いが近かった。彼が目を伏せると睫毛の白さが際立ち、鮮やかな虹彩に様々な色が混ざり合う。

「お前は女だ」
「いや、だ」
「俺は男で、お前は女だ」
「言わないでよ……!!」

 ようやく離れた唇にはシルバーの熱が残っていたが、いいや、とかぶりを振るう彼は冷徹な言葉を続けた。

「お前が、特別扱いされたくないことなんて知っている。だが、俺には無理だ。お前を男同然に扱うなんて、無理なんだ」
「聞きたくないッ!」
「俺は一度も、お前の性別を違えたことはない」
「シルバー!!」
「本当はわかっているだろう。キスの意味も、俺がお前をどう想っているのかも」
「やだ……!!」
「ナマエ。お前は……」

 シルバーは俺のシャツのボタンを外し、耳元で囁いた。露になった胸元を隠そうとしても、彼に手首を掴まれてしまえば隠せるはずもない。

「男だと言うのなら、俺にも見せられるだろう」
「……それは」
「だが、お前は隠そうとした」
「シ、ル」
「お前は、女なんだ」

 呪詛師のように呪いを吐くシルバーは、首筋や鎖骨、胸元に残っている古傷に口付けを落とした。とうの昔に割れていた罅の隙間から、忘れたくてたまらない痛みが疼き出す。

「綺麗だ」
「やだ、いやだ」
「この傷もお前の一部だと思うと、愛おしくてたまらなくなる」
「や……」

 シルバーの声は猛毒だ。流し込まれたそれがどろどろと蕩けて、この痛みを麻痺させてくれるのではないかと救いを求めたくなる。

「傷つきたくないなら、なにもかもわからなくなればいい」

 曇天に星がきらめいた気がした。けれど、痛みも苦しみも忘れさせてくれるならと縋ったのが間違いだった。麻痺して、依存して、離れられなくなる。それをわかっていながらシルバーに手を伸ばす愚かしさは、きらきら光る星を取らんとして死んでいった大昔の魔法士たちのようだった。

「わすれさせて、シルバー」

 結局は、わたしは女で、シルバーは男だった。あの日、あの時に、ダストボックスに捨てたはずの未来は夜明けのベッドに横たわっていたのだ。

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