思春期のぼく


 アズール・アーシェングロットの、人生最大の過ちにして汚点。それは、一人の少女と出会ってしまったことである。

「ほんと、泣き虫だよね。アズールは」

 当時の僕にとっては勿論、喜ばしい出会いではなかった。なぜなら、ナマエはとんでもなく横暴な女性だったからだ。話で解決しないなら拳を振るうまで──なんともまあ、フロイドと同じくらい……いや、それ以上に血気盛んな子どもだった。気が合うのか合わないのか、フロイドとの拳を交えた喧嘩は日常茶飯事で、鼻血を吹き出してぶすくれることもしばしば。海中で血を流したら傷にしみて痛むとわかっているだろうに、学習もせずにフロイドと喧嘩ばかりする馬鹿な……元気な彼女にはある種の尊敬さえ覚えていた。
 この女は黙っていればそこそこ愛らしい見目をしているのに、気に食わないことがあるとすぐに尾びれが出るからいけないのだ。気まぐれで自分勝手なフロイドが音を上げるほどに気が強く、ぺらぺらと嘘も真実も澱みなく口にするジェイドを言い負かすほどによく口が回る彼女はエレメンタリースクールでもミドルスクールでも、向かうところ敵なしのガキ大将だった。
 だが、そんなナマエにも春が来てしまったのである。僕たちがナイトレイブンカレッジに入学して一年が経った頃から急激にモテ始めたらしい。
 結論として、その噂は事実だったと言える。
 故郷に流れ着く流氷がようやく溶け、久々に帰省した春先には様々な男にアプローチされているナマエの姿を頻繁に見かけた。この世には理解し難い性癖や嗜好をお持ちの方もいるものですねえ、とジェイドは笑っていたが、僕もフロイドも、そして笑顔で貶していたジェイドも、エレメンタリースクール時代から彼女が“クラスでかわいいと思う女子”のランキングにしれっと名を連ねていたことは知っていた。
 そもそもの一般常識として雌が優位になりがちな海の世界では、いかにも強い子孫を残せそうな彼女は人気があった。海を生きる雄は強い雌に本能的に心惹かれる。しかもそこそこに見目整っているとなれば、その凶暴さを差し引いてもお釣りが来る。と、見え透いた下心を隠しもしない男どもは思っているわけだ。まったく、趣味が悪い。なにがどうしてあんな女に落ちてしまったのか。名前や住所、電話番号からマジカメの裏垢に至るまで、まとめて提出してくれたら、彼女がやらかしてきた悪行の数々を懇切丁寧に教えてあげてもいいくらいだ。

「泣き虫タコちゃんだ。元気?」

 へらへらと笑うナマエは、少しだけ女性らしくなった頬を緩めてまた笑う。本当に、趣味が悪い。こんなのの、どこがいいんだか。

「誰が泣き虫ですって?」

 いい加減に危機感くらいは持ってくれと僕らしくもなく心配してやったのだが、ナマエは少し目を見開いてまたへらりと笑うだけだった。人がせっかく忠告してやっているのに、笑うとは随分な真似をしてくれる。
 僕の記憶よりも伸びた髪を器用にまとめた彼女は薄い尾びれを揺らし、双子たちと似た形状の耳をぴるると震わせた。……まあ確かに、かわいらしいと思わないでもない。あくまで黙っていれば、の話だが。
 なんとなく目を逸らせずにいると、硝子玉のような双眸が僕を見た。

「学校、楽しい?」
「まあまあです。あなたがいなくて気が楽です」
「アズール、泣き虫だから寂しがるかなって思ってた」
「まさか。伸び伸びと過ごしていますよ」
「ひどーい」

 けらけらと笑うナマエは少しも気にしていないだろう。僕がなにを言っても、双子がなにをしても、笑っているような女だ。アズールをいじめるなー! と怒鳴りながら僕をいじめていた奴らを蹴散らすような幼少期を経た彼女だ、図太くて当然である。

「アズールは色々と根に持ちすぎ。謝ったのに」
「さて、いつのことだか。思い当たる節が多すぎてわかりませんね」

 実際、僕が根に持っているのはジェイドとフロイドに連れられて僕の隠れ家までやってきたくせに「泣き虫タコちゃん」と初対面で呼んだことくらいだ。ナマエとのあいだに起きたくだらない瑣末事なんて、多すぎて覚えていられない。
 ──ねえ、アズール、聞いてる?
 ナマエが訝しげに僕の顔を覗き込んだが、僕はその両目から逃げた。どうしてか、見慣れていたはずの女性らしい曲線を見ていられなかった。陸の女性たちは人魚たちのようには露出しない。陸の生活に幾分か慣れていたからか、柔らかいであろう胸のふくらみを意識してしまっていることに気がつき、舌打ちしたくなった。見放題で羨ましい、と言う陸の学友たちの言葉を鼻で笑ったばかりだというのに。

「あーあ、アズールにかわいい彼女ができたらわたしにも優しくなってくれるのかな〜」
「……余計なお世話ですよ」

 本当に、こんなのがモテる意味がわからない。わかりたくもないのに、彼女の言動すべてに腹が立っている僕がいた。
 横暴で、わがままで、まったくかわいげのない。それが彼女で、この海でも一人で生きていけるような強かな女だ。
 自立していると言えば聞こえがいいだろう。しかし、それでは面白くない。そこでふと、考えた。面白くないってなんだ。自立しているのはいいことじゃないか。彼女が僕の手助けを必要とするはずがないし、僕も易々と手を差し伸べてやるつもりはない。
 そのくせ、僕は。
 僕は、なにかが狂っているのかもしれない。
 手のかかる面倒な生き物は嫌いな僕が、彼女をこんなにも気にかけている理由は今でもわからないままでいる。あんな女に頭を悩ませられるのは非常に腹立たしいが、このままではすっきりしないのもまた事実。ホリデーが終わり、学園に戻ったあとも悶々とした日々を過ごしていた僕はついにある決断を下した。すでに、春のホリデーから半年ほど経った秋のことだ。

「ジェイド、少しいいですか」
「……なにかお悩みでも?」
「まあ、そんなところです」

 ジェイドならば話くらいは聞いてくれるだろうと相談を持ちかけた。彼ならば軽々しく口外しない。そう信じて相談したものの、どうやら失敗だったようだ。

「恋ではないですか?」
「馬鹿を言うのはおやめなさい。減給しますよ」
「おや、それは酷い」

 僕の話を聞き、訳知り顔で頷いたジェイドが信じられないようなことを言うものだから、思わず立ち上がってしまった。この男に相談したのは僕の見込み違いだったか。少しばかりの後悔をしていると、ジェイドは嫌な笑みを浮かべた。

「そういえば、マジフト大会に来るらしいですよ」
「……なんですって?」
「ですから、ナマエがマジフト大会に」
「なぜです。僕は誘っていませんよ」
「フロイドが誘ったんですよ」
「フロイドはナマエを随分と気にかけますね」
「おやおや、男性の嫉妬は見苦しいのでは?」
「なっ……だから、違うと言っているだろ!」
「顔が茹でタコちゃんのようになっていますよ」
「タコちゃんと言うな!!」

 くすくすと笑い続けるジェイドは僕の反応を見て楽しんでいる。これ以上乗せられるわけにはいかないが、ジェイドが相手だと彼独特のペースに呑まれてしまう。敵に回しても、味方になっても、どちらにせよ厄介で扱いづらい質をしているのだ。

「いい機会です。会って確かめてみてはいいかがです」
「嫌ですよ、面倒くさい」
「そう言っていつも気にかけてあげているでしょう」
「この僕があいつを気にかけていると? それはお前の勘違いだ」
「ふふ、陸に上がるのは初めてでしょうから……歩けなくて変な輩に絡まれてしまうかもしれません。ああ、可哀想に」

 妙に芝居がかった口調でつらつらと告げるジェイドを睨みつけるも、先に俯いたのは僕だった。

「そんなの知りませんよ。僕には関係のないことだ」


  ◇


 マジフト大会当日、ナマエはやはり酷い足取りで歩いていた。たとえるなら産まれたての仔鹿。陸の人間たちの表現らしいが、なるほど言い得て妙だ。ぷるぷると震える無様な姿は見守りたくもなる。

「無理……」
「右足を出して左足を出せば歩けます」

 先ほどから僕の腕にしがみついている彼女は一歩も歩けていない。ジェイドに関係ないと言ったこの口で、歩き方のアドバイスをしている僕はなんという馬鹿なのだろうか。

「あ、足が気持ち悪い……」
「さあ歩いてください」
「無理だってば」
「はあ……陸に来たこともないのにどうして来ようと思ったんだ……。考えればわかるでしょう」
「フロイドがおいでって言ってくれたから」

 フロイドが来いと言ったら、素直に陸に上がるのか。こんな、大変な思いをしてまで。もしかして、彼女はフロイドのことが好きなのだろうか。仮にそうだとしたら、二人が毎日のように喧嘩していた幼い頃の思い出も意味深なものに変わる。フロイドと話したかったから、フロイドに興味を持ってほしかったから、フロイドに構ってほしかったから、喧嘩をしていたとしたら──彼女はあの頃からあいつが好きだったということになる。
 面白くない。少しも笑えない。彼女に好きな男でもできたら笑い飛ばして「ご愁傷さまですね、その方も」と言ってやるつもりだった。
 そのくせ、僕は。
 僕は、なにかが狂っているのかもしれない。

「フロイドを呼んできます」
「えっ!? アズール!!」

 小さな手を振りほどいたら、ナマエとは簡単に離れてしまった。僕らしくもない。苛立ちに任せて行動するなんて実に愚かだ。いつもの僕ならもっと上手く立ち回れたはずで、にっこりと笑って嫌味のひとつやふたつくらい言えただろう。

「アズール!! まっ、あ!!」

 僕が無視したから、焦ったのかもしれない。人混みの中で響いた悲鳴に慌ててふりかえった時にはもう、ナマエは転んでいた。白い膝からは血が滲み、流れる血液を見つめている彼女は呆然としている。
 さすがに、このままではフロイドを探せない。彼女のもとに戻って手を差し伸べると、泣き出しそうな顔がよく見えた。すると不思議なことに一瞬だけ、胸がぎゅっと痛くなった気がした。

「……大丈夫ですか」
「……痛い」
「それは当たり前です。保健室に行きますよ」
「立てない……」
「……今回だけですからね」

 今回だけは致し方ない。ナマエを放ってフロイドを探しに行こうとした僕にも非があると思うが、大体、お膳立てしてあげようと思ったのにどうして僕なんかを追いかけようとしたんだ。

「対価は?」
「対価?」
「保健室に連れていってくれるなんて、なにか企んでるでしょ?」
「あなたと契約を結んだところでなにになるんです。僕は無意味な契約はしませんよ」

 素直に謝罪を口にできないまま背中と膝裏に腕を回し、抱き上げた身体は存外にも小さく、柔らかかった。心臓がおかしな音を立てて、呼吸がしづらくなった。けれどそれは、この女を抱えたからだろう。そのせいで動悸がしているだけだ。他に理由なんてない、繊細な僕には荷が重すぎるのだ。

「……アズール、お姫様抱っこなんてできたんだね」
「ダイエットしてみてはいかがです?」
「そこは羽みたいに軽いよって言うべきところだよ」
「へえ、後学のために覚えておきますよ」

 さっきまで泣きべそをかいていたくせに笑うとは、本当に表情がよく変わる。海のカメレオンとも言われるお調子者のコウイカの人魚たちのようだ。
 怪我をしてもへらへらと笑っているナマエを抱えて人の多いメインストリートを歩くのは至難の業だ。肩や腕が当たる度にずり落ちそうになる彼女を抱え直さなければならない。これが学園の生徒だったなら取引を持ちかけて契約書にサインをさせた上でこき使ってやっていたところだ。
 しかしまあ、彼女と契約を結んでも身になるような成果は得られないだろうが。不意に、彼女が僕を呼んだ。視線をそちらに向けると、どこか楽しそうに目をきらめかせている顔がある。概して、こういう時の彼女はろくなことを言わないのでなにを言われても聞き流すつもりだった。

「アズールも男の子なんだね」
「はあ? 当たり前でしょう。僕は男で、あなたは──」

 正直、馬鹿にしているのかと思った。けれども、僕はその先を言えなかった。
 僕は男で、ナマエは女。この柔らかさも、小ささも、僕にはない。そもそも、尾びれのない彼女は驚くほどに小さくて、頼りない二本の脚はポッキリと折れてしまいそうだった。どうしてそれを、メインストリートに一人で佇む彼女の姿を見つけた瞬間の光景を、こんなにも思い出してしまうのか。

「アズール?」
「……なんでもありません」
「茹でタコちゃんになってるよ」
「なんでもないと言っているでしょう!」
「暑いの?」
「ああもう、やかましいですね、本当に……!!」

 この女には情緒というものがまるでない。心情を推し量ろうともしない。そんな女に、見るからに面倒くさそうな女に、僕は大層厄介なものを抱えてしまっているらしい。
 彼女との明確な境界線は、最初からずっと身近にあったのだ。ただ、僕が見ようともしなかっただけで、ナマエは僕よりも小さい女の子だった。認めてしまうと、僕の腕の中に大人しく収まっている彼女がとんでもなくかわいらしく見えてくる。馬鹿馬鹿しすぎて笑えてくる話だが、僕に身を委ねている姿は非常に愛おしく思う。

 ──恋ではないですか?

 ああだから、ジェイドに相談したのは失敗だったのだ。あの男は妙に鋭くて、こちらの気持ちすら無視して核心をついてくる。
 どうしてこんな女なんかに。と、そう考えている時点で、僕が持っている切り札は出し尽くしてしまっていたわけなのだ。当然のことながら悪足掻きもしたくなる。
 一度勢いづいて諦めがつくと、トントン拍子に物事は進む。この僕に恋だなんて実にくだらなくて滑稽な感情を植え付けた対価はもらわなければ気が済まない。

「この対価は必ず頂きますよ」
「ええ? いらないってさっき言ったじゃん」
「さあ、なんのことだか」

 アズール・アーシェングロットの、人生最大の過ちにして喜劇。それは、一人の少女と出会い、恋に落ちてしまったことである。

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