エグめの依存


「トレイおにいちゃん」

 ねむれないの。そう言ったら、彼はいつもわたしの頭をそっと撫でてくれた。



 トレイ・クローバーはいつも甘い匂いがする。バターが焦げて、砂糖がとける匂い。それは、お菓子を作る人の匂いだった。トレイくんのお父さんもお母さんもおんなじ匂いがするけれど、彼のそれはひときわ強く感じられた。
 たとえば。初めて彼と会った時、初めて握手を交わした時、彼は年齢よりいくつも大人びた表情で笑ったくせに、その身体からは焼き菓子の甘い甘い香りがしたのだ。どこもかしこも甘そうな人。泣き腫らした目で蜂蜜色に照り輝く瞳を見上げながらそう思った記憶がある。
 重い病気を患うお母さんの治療のために都会に引っ越してきたわたしたちの新居はトレイくんの家の隣だった。彼のお父さんとお母さんが営むケーキ屋さんの二階は住居スペースで、わたしの部屋のちょうど真向かいにあるトレイくんの部屋はお互いが行き来できるほど窓と窓の距離が近かった。一人っ子のわたしとは対照的に弟や妹がいるトレイくんはいつも優しくしてくれたし、薔薇の王国の文化や習慣にまだまだ慣れていないわたしに色々なことを教えてくれた。
 お母さんは病院にいて、お父さんは仕事に行っている。幼いわたしには一人ぼっちの家は寂しくて寂しくてたまらなかった。そうなると、我慢の限界に達している子どもが泣いてしまうのもおかしな話ではないだろう。
 お母さんが恋しい。
 お母さんに会いたい。
 彼女の病気がどんなものか知らなかった幼い日のわたしは何度もお父さんを困らせた。困らせて、悲しませたと思う。今思えば幼さが招いた行動だとわかっていても、少しも悪くないのにわたしに謝るお父さんの顔を思い出す度に自分自身が情けなくなってくる。どうしてうちは普通じゃないの、どうしてお母さんはいないのって、幼いわたしの言葉でさえも真正面から受け止めてくれるお父さんを何度も責めたから。
 けれどある時、わたしはお母さんに会いたいと言わなくなった。怖い夢をぱったりと見なくなった。
 すべて、トレイくんがいてくれたからだ。
 日頃は玄関に置いている傘を使って夜の空を映す窓を軽く叩く。しばらく待って、反応がなければまた傘を使う。すると、眠り眼をこするトレイくんが窓を開けてくれる。

「トレイおにいちゃん」
「ねむれないのか?」
「うん」
「そっか。おいで」

 そっかって言って、トレイくんはいつもわたしに手を差し伸べてくれた。トレイくんのお父さんもお母さんも、わたしのお父さんも知らない秘密の逢瀬。真夜中に窓から窓へと移るに至ったきっかけは忘れたが、きっとわたしがあんまりにも泣きじゃくるものだから優しい彼が声をかけてくれたんだろう。
 彼の魔法は、愛情に飢えるわたしにはぴったりな幻だった。最後に家族三人で出かけた頃の夢を見て泣くわたしの記憶や孤独を上書きして、楽しい思い出だけを見せてくれる。
 でも、彼はそのユニーク魔法を使うと眉を下げて悲しそうに笑うのだ。彼はベッドの中でわたしを抱きしめて、決まりきった日課みたいに同じことを言う。

「少しのあいだしか、忘れさせてやれないんだ」

 その言葉の最後に謝罪があるはずが──あっていいはずもなかったけれど、わたしの耳には「ごめんな」と謝るトレイくんの声が聞こえてくる気がしていた。わたしだって幼ながらに虚しいことをしている自覚はあったし、彼の心に負担をかけているとわかっていた。
 朝、目覚めたら。魔法がとけてしまったら。眼鏡をかけていない、いつもより幼げに見える彼の蜂蜜色の双眸は悲しみを無理やり書き換えた先にある苦しみをよく知っているようだった。彼も、ままならない感情を上書きするためにユニーク魔法を使うことがあるんだろう。
 優しい、誰からも慕われるお兄ちゃん。しかしその裏には、誰にも見せられない本性や隠し事がある。わたしは眠れない夜に取り残される度に、ひとつずつ剥がれて、剥き出しになっていく彼の仄暗い部分に触れられている気がして嬉しかった。

「トレイくん」
「ん?」
「……なんでもない」

 一時期でも寂しさを忘れさせてくれる存在に、わたしは確かに恋をしていた。否。ずっと、不毛な恋をしている。
 成長するにつれて悪い夢を見る機会はぐんと減った。それでも、わたしはトレイくんに甘え続けた。彼がわたしを妹のように思っていると知っているからこそ、それを利用して。

「たく……仕方ないな。おいで」

 木々色めく肌寒い時期だったから、トレイくんも人肌が恋しかったのかもしれない。さすがになあ……と最初は渋っていたものの、結局折れてわたしをベッドの中に招き入れてくれた。

「ケーキ屋さん、継ぐの?」
「ん、ああ、まあな。覚えなきゃいけないことだらけで参るよ」
「頑張って。トレイくんのケーキ大好き」
「こーら。前も食べすぎた! って言って泣いてただろ?」
「泣いてないし」
「はいはい」

 ベッドに横たわって枕に頬杖をつき、眠れないわたしに付き合って起きてくれているトレイくんは懐かしそうに両目を伏せた。年齢はそう大して変わらないはずなのに、彼の表情や仕草はわたしよりもよっぽど大人びていた。
 リドルは、わたしとトレイくんの距離の近さはおかしいと言う。多分、その通りだ。世間の人たちが言うような普通の幼馴染はベッドで一緒に寝ない。そのくらいわたしにもわかる。

「お前は本当に手がかかるよ」

 彼はいつも、こう。これでもかと期待させておいて結局は妹扱い。天下の名門校ナイトレイブンカレッジに喚ばれるほど優秀なくせして、わたしの気持ちにはまったく気づかない。もしも仮に気づいているなら、効率と結果を一番重視する性分である彼は面倒な幼馴染との恋愛なんてごめんだろうし、やんわりとわたしを突き放すだろう。

「彼氏、できたか?」
「……うるさい」
「はは、いたら俺のところになんか来ないか」

 彼らしくない鈍さに感謝している反面、言葉なしでも気づいてほしいと思っているわたしはわがままなままだ。

「トレイくんは……?」
「俺? 俺にいるわけないだろ」
「ふぅん」

 十代のうちの四年間をナイトレイブンカレッジで過ごし、この街に戻ってきたトレイくんはお父さんとお母さんのケーキ屋さんを継ぐらしく、お店の前を通る度に爽やかな笑顔で接客をしている彼を見る。いつかはかわいい奥さんをもらって、仲睦まじい自分の両親みたいに仲良くお店をやっていくのだと思うと寂しいのか妬けてくるのかわからなくなる。
 甘い匂い。
 それとなく近づくと鼻腔を通り抜ける香りに胸がギシギシと軋んだ。この匂いに満たされながら微睡みに沈み込めるのはあとどれくらいか。まだ学生のわたしにはわからない。

「好きだよ」

 受け入れなくてもいいから、受け止めてほしかったのかもしれない。口走ってしまったと気づいた時にはもう、想いは音になっていた。
 トレイくんはなにも言わない。蜂蜜色の目を見開いて、わたしを見つめている。それから彼は魔法をかけてくれる時と同じ表情をしたから、この気持ちは一切届いていないと悟った。

「俺もだよ」
「違う」
「大切に思ってる」
「違う……!!」

 違わないよ、とトレイくんが言った。わたしの「好き」と彼が言う「好き」はまるっきり違うのに。

「ごめん。お前には、俺みたいな奴は相応しくない」
「やだ、忘れさせないで」

 大きな手が頬を撫でた。甘そうな彼の瞳には涙を流しながらも懇願するわたしが映る。

「許さなくていい」

 ──薔薇を塗ろう(ドゥードゥル・スート)


  ◇


 トレイくんはわたしの告白は聞かなかったことにしたらしい。それってどうしようもなく、残酷だ。
 突発的に告白をしてしまったとは言え、わたしの気持ちは彼の魔法によって上書きされて、全否定された。あんな拒み方、あんまりではないか。
 段々腹が立ってきた。
 嫌いなら嫌いだと言って、きっぱりと振ってくれたほうが楽になるのに彼はそうしない。わたしを傷つけたくてわざとユニーク魔法を使ったのなら称賛に値する性格の悪さだ。むしろ、短時間の効力しか保てないとわかっていながら恋愛感情を上書きしたのは単なる嫌がらせだとしか思えない。
 大体、「許さなくていい」ってなんだ。そんなことを言うくらいならちゃんと振ってほしかったし、こんな形で距離をとられたくなかった。彼の欠点はああして自己完結して、遠ざけてしまうところだ。加えて、わたしのことを悪夢に魘されて泣く子どものままだと──なんにもわからない子どものままだと思い込んでいる。十年以上そばにいたから、彼がなにを意図してユニーク魔法を使ったのかすぐにわかったのに。
 トレイくんの行動原理には“結果”が第一優先事項に据えられる。彼は過程を顧みないわけではないけれど、決して重視はしない。
 彼は、過程はどうであれ一旦傷つけたらわたしが近づいてこないと思っている。わたしがトレイ・クローバーを嫌いになること。それが正解で、正しいと思っているから手早く傷つけられる方法を選んだ。

「……許せない」

 思わず漏れた声は怨念じみた感情を孕んでいるのか、低かった。トレイくんは女の子の恋の恨みは怖いとナイトレイブンカレッジで教わらなかったのだろうか。わたしじゃなくても、彼のあの性格だと女の人たちにいつか刺されてしまいそうだ。
 青春時代のほとんどをトレイくんを想う時間に使ってしまった華のティーンを厄介なユニーク魔法で傷つけるなんて最低だ。友達のシエンナだって、年上の彼氏がいるヴィクトリアだって「そんな奴殴っちゃえ!」と言っていた。
 平手打ちくらいはしないと気が収まらない。お客さんたちの前で大泣きして悪い噂でも流しちゃおうかな。こんなことを真剣に考えてしまうわたしは紛うことなき、正真正銘の悪女みたいだった。

「あ、ナマエじゃん」
「……」
「おーい」
「ルーカスに構ってる暇はないの」
「なに、例のお兄ちゃんとこに殴り込みに行くの?」
「関係ないでしょ。ていうか、盗み聞きしないでよ!」
「偶然聞こえただけだから。聞かれたくないなら教室で話すなよな」

 笑っているルーカスの鳩尾に右ストレートを決めたら地面に沈んだ。帰る方向が同じだとうるさいこのお調子者と帰らなければならなくなるから嫌なのだ。しかも、シエンナやヴィクトリアとの会話を聞かれて好き勝手に口出しされることもある。そう、今みたいに。

「そんなに好きなの?」
「うるさい。また沈めるわよ」
「こわ……そんなんだから振られるんだよ」
「振られてない。恋愛感情を消されただけ」
「振るより酷いじゃん、ソレ」
「関係ないでしょ! わたしは好きだもん!!」

 思わず声を荒らげると、ルーカスはムッとした表情になった。

「……わたしはトレイくんが好きなだけ。ずっと好きだったから、告白しちゃっただけ。別に、付き合えるだとか、変な期待はしてなかった」
「だけどあっちはなんとも思ってないんだろ。お兄ちゃんだって迷惑だったんじゃね?」
「うるさい……!! 何度上書きされても、わたしはトレイくんを好きになるの!!」
「そうやって押し付けがましいから変な魔法使われるんだろ!」

 押し付けがましい。
 確かにそう。トレイくんはわたしの感情が迷惑だったから上書きしたんだろう。怒り、悲しみ、切なさ。全部がぐちゃぐちゃになって、言葉の代わりに涙がぽたぽたと落ちる。こうして泣くのは失恋した時──トレイくんにユニーク魔法を使われた夜以来。
「お、おい、泣くなって……」と途端に慌て始めるルーカスに泣き顔を見られたくなくて俯くと、わたしのローファーに雫が落ちた。わたしが泣いたらいつも助けてくれたヒーローはもういない。
 わかってた。告白したら、全部台無しになるって。だから、こんなことになっているのはわたしのせい。

「ナマエ」

 寂しい夜に腕を引いて、名前を呼んでくれるのはトレイくんだけだった。彼からはいつも甘い匂いがする。バターが焦げて、砂糖がとける匂い。それは、お菓子を作る人の匂い。そう、たとえば、こんな匂い──あれ?

「帰ろう、ナマエ」
「トレイくん……? なんで、」

 わたしの頭に上着をかけ、手を握りしめたのは間違いなく彼だった。ルーカスもわたしも、ぽかんとしている。ルーカスを一瞥し、歩き始めたトレイくんはなにも言わない。買い物帰りだったのか、右手に袋を提げている。その中には卵や牛乳パックが入っていた。
 元気が有り余っている子どもたちで賑わう公園の横を横切り、素敵な老夫婦が営んでいる花屋さんの前を通り抜ける。何度か手を解こうとしたけれど、彼の指先はわたしの指に絡まったままだった。

「素晴らしい右ストレートだったな」
「……見てたの」
「ああ。あのルーカスって奴に話しかけられるあたりから」
「最初からじゃん」

 まあ、そうだな。悪びれた様子もなく続ける彼はふと立ち止まり、わたしを抱きしめた。甘い匂いが強くなる。肺の中が彼の匂いで満たされる。

「傷つけてごめんな」
「トレイく、」
「俺も好きだよ」
「……それは妹としてってことでしょ」
「いや?」

 トレイくんはおもむろに眼鏡を外して甘そうな蜂蜜色の飴玉をいっそう甘そうにゆるませた。

「こういう意味で」

 キスに音があるとしたら、がぶ、とか、そんな感じの効果音だった。こういう意味でって、そういう意味? なにがなんだかわからない。今すぐ逃げたい。わたしの心情を知ってか知らずか、眼鏡をかけ直したトレイくんは意地悪な笑みを浮かべた。

「全部、聞いてたよ。何度上書きしても、俺のことを好きになるって」
「それ……っ」
「俺は本当に、ナマエには相応しくないんだ。だから諦めさせようって、傷つけようって思った」

 ごめん、と言った彼はわたしの頬を撫でた。燃えるように熱い身体には、冷たい手のひらの温度が心地いい。

「多分俺、かなり重いと思うんだ」
「重い?」
「ナマエを束縛するだろうし嫉妬もすると思う。そんなの、可哀想だろ?」
「可哀想って……」
「そもそも、最初からダメだった。泣いているお前が俺だけに縋ってくれるのが嬉しかった。そしたらいつの間にか……好きになってた。でも、こんなの間違ってる。俺が依存させたみたいなもんだ。俺はお前に、酷いことを」

 トレイくんが言い終わる前にその背中に腕を回すと、彼はわたしの頭の上に大きな手を置いた。

「酷くても、優しくなくても、トレイくんが好きだよ」

 嘘偽りない本心だ。わたしが見てきたのは優しくて頼りになるトレイお兄ちゃんだけだけど、こうしてそばにいることでわたしの知らない彼に触れられるのなら、未来のわたしは幸せだと思うだろう。
 名前を呼ばれて顔を上げると、困ったなあと言いたそうに笑う彼の瞳と目が合った。

「……参った。降参だよ」

 今度は眼鏡も外さずにキスが落ちてきて、頬にフレームが少しだけ当たった。やっぱり、彼はどこもかしこも甘いのかもしれない。

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