即席ネバーランド


 吸血鬼、という面倒な生き物がいる。血に飢え、人の生き血を啜る獣が。
 何千年も前に人間たちに迫害され、狩りの対象となっていた吸血鬼も、人種平等が掲げられている今となってはそれなりに“最低限度の生活”が約束されている。念の為に説明しておくと、最低限度の生活とは生きるか死ぬかすれすれのラインの生活、ということだ。まあつまりは、吸血鬼という哀れな生き物は総じて家が貧しく、レッドリストに載っている野生生物のように年々その数が減っている。栄養失調や病気が原因であったり、寒さや暑さが原因であったり、その死因は様々だ。
 吸血鬼一族の最後の純血種として生を受けたわたしにも、常に死はまとわりついていた。前述の通り、現代の吸血鬼はそれはそれは苦難を強いられるが、理解を示してくれない人間たちほど恐ろしいものもないと強く思う。「人の生き血を啜る獣であり、そばにいては襲われる」というステレオタイプな偏見は、時として銀の弾丸よりもわたしたちを傷つける。血筋柄、迫害も差別も慣れてはいたけれど、友達と思っていた子たちが悲鳴をあげながらわたしから離れた瞬間の切なさはよく覚えている。
 吸血鬼はなににも恵まれない。美味しいご飯を食べることも、あたたかいベッドで眠ることも、友達と笑い合うことも叶わない。
 いつしかわたしは、普通の人間の子どもたちを羨むようになった。

「血が飲めないのはあなたくらいよ、ナマエ」

 異端らしいわたしは、人間の血が飲めなかった。普通になりたい、という思いが他の吸血鬼よりも人一倍強かったせいだろう。月に一度の頻度でやってくる激しい飢えも、自分の腕に噛みついて血を飲めばなんとか腹を満たせた。吸血鬼としては劣っている、もしくは欠陥を抱えているとも言える体質だ。でも、そんな体質だからこそ普通の人間になれると信じていた時期がわたしにもあったのだ。
 けれどもそんな願いが実現するはずもなく。このまま野垂れ死にすんのかなあと眼下の川を眺めていたら棺を乗せた馬車が来て、あれよあれよという間にナイトレイブンカレッジにいた。頭がいいじいちゃんと魔女のばあちゃんに育てられたわたしはミドルスクール卒業程度までの学ならあったが、いかんせん性別は女である。あの名門校にまさか女が入学できるわけあるまい。そう高を括って闇の鏡の前に立ったわたしに、なんと鏡は「ディアソムニア!」と叫んだ。
 学園長に言えば、きっと故郷に帰してくれる。不手際でやってきた吸血鬼の娘の入学を認めてくれるはずがないのだから。──それはわかっていたけど、わたしは声をあげなかった。
 卒業まで性別を隠しおおせたら将来的に仕事に困らないかもしれない。そしたら育ててくれた二人に楽な生活をさせてあげられるかもしれない。そんな打算が、なによりも魅力的に思えたのだ。
 わたしはそうして秘密を抱え直した。誰にも言えない、誰にも言わない秘密を。ざわつく入学式の喧騒を聴きながら、手のひらを握りしめた。

「リリアじゃ。よろしく頼む」
「……僕はナマエ。よろしく」

 縦に細長い瞳孔と尖った耳は妖精族の血筋だろう。友好的に手を差し出した彼の手を握り返すと、男の子にしては小柄な彼は鋭い歯をちらつかせながら笑った。
 その日から、わたしは“僕”になった。わたし、という一人称はどこかに捨てて。


 結論から言うと、僕が吸血鬼であることは入学早々にバレた。諸々の書類に記入していた「人種区分:吸血鬼」がクラスメイト数人の目に触れていたらしく、そこからどんどん噂は広まり、サバナクロー寮生にも怯えられる生意気な一年坊へと僕は進化していた。
 個人情報を記入する書類が多い入学直後。ある意味起こるべくして起きた事件なのだが、ただでさえ遠巻きにされがちなディアソムニア寮生ということもあって誰も寄り付かなくなった。ただ一人の例外──ハーツラビュルのケイト・ダイヤモンドを除いては。彼は“マジカメ映え”というものを狙っているらしく、僕と写真を撮りたがる。

「人の血っておいしーの?」
「いや、飲んだことがないからわからない」
「えっ!? ナマエくん飲んだことないの!? 吸血鬼なのに!?」
「自分の血なら飲むけど、他人のものは抵抗がある」
「あ〜、潔癖とかそういうの?」
「いや、別に」

 ええ、なにそれ、と困ったような顔で頬を掻くケイトは感情や表情を取り繕うのがうまい。肚の中になにかしら隠していそうだとも思うが、僕はそこまで踏み込めるほど彼と親しくない。
 やわらかくて甘い女や子どもがいい、と言う奴らも多いが、吸血鬼はかなりの美食家か偏食家でない限りはどんな人間の血でも飲める。

「飲んだら痛い」
「ナマエくんが?」
「吸われる側がだよ。痛いのは可哀想だ」
「やっさし〜。でもでも、飲まなくても平気なの?」

 平気か、そうでないかと聞かれれば平気ではないと思う。吸血鬼は定期的に血を飲まなければ本来の力が減退し、魔力や魔法の質が悪くなる。一昔前までは人間と吸血鬼のあいだで成立していた利害関係によって人間側から血液を与えられていたらしいが、今ではそれもない。僕たちに理解がある人間、まして代償なしに血液を分け与えてくれる人間が少ないことも、ここ半世紀における吸血鬼一族の力が衰えている原因のひとつと言えた。
 じいちゃんとばあちゃんはヒトの血液の成分を含んだタブレットやドリンクを作っているが、それだけでは多少の飢えしか癒えず、満月の夜は飢餓で自我を保てなくなることがほとんどだ。自分の血さえ飲めば落ち着く特殊な体質の僕でも、月一のその夜はかなりしんどい。

「平気だよ」

 平気じゃないと今ここで言ってもなんの腹の足しにもならないし、余計な詮索を招くだけだ。にっこり笑うと、ケイトは興味深そうにふぅんと頷いた。まあ、彼が文献を漁れば僕の嘘だとバレてしまうだろうけど。
 人体実験の餌食となった僕の先祖たちについては文献やら論文やらでご丁寧にまとめられている。銀に弱いとか、魔力が強い者のそばにいたら酩酊状態に陥るとか、愛する人の血を飲んだらその血しか飲めなくなるとか、吸血鬼の生態について。

「ごめん、酔ったから戻る」
「へ? 酔った?」

 ナイトレイブンカレッジは優秀な魔法士の卵が集まる学園だ。混み合う食堂に長時間いると多種多様な魔力の匂いが多すぎて酔いそうになる。人間の食事よりも美味しそうな匂いがそこかしこからするここは、鼻が利く僕には耐えられない。


  ◇


 性別をなんとか隠しながら三年生になった僕は、かなり嫌われているようだ。同寮のディアソムニア寮生からは避けられ、他寮生からも避けられ、今年入学してきた新入生たちには怯えられている。オンボロ寮の魔法が使えない監督生くんには彼と親しいクラスメイト──エースとデュースだったか──の優秀な守りまでついていて、その二人とすれ違う時には思いきり警戒されてしまう。

「そこのヴァンパイア!! 若様に近づくでないぞ!!」

 三年に進級してからは特に、この少年のせいで僕は風評被害を受けている。我が寮の寮長の付き人であるセベク・ジグボルトは寮や校舎で会う度に「ヴァンパイア」と言ってくるため、新入生たちには“恐ろしい吸血鬼”というイメージが刷り込まれていた。少なくとも、僕は彼になにもしていないというのに。

「近づいてない。君は態度を改めたほうがいい。ディアソムニア寮寮生だけではなく、君の大事な若様(、、)の品格が疑われるぞ」
「貴様に言われる筋合いなど……!!」
「僕にはナマエという名前がある。ヴァンパイアでも貴様でもない。それとも、血を啜ってほしくて僕の気を引いている?」
「なっ……貴様!!」

 胸ぐらを掴まれて壁に押し付けられたが、彼に正攻法で勝てるほどの腕っ節は僕にはない。いくら頭に血が上っていても、そのくらいの判断力は残っている。彼は一九〇近い筋骨隆々の少年だ。ひょろひょろしている女の僕が勝てるわけがない。だけど、人には人の、吸血鬼には吸血鬼の、それぞれの戦い方がある。
 太古の吸血鬼は永遠の美貌を持ち、人の疑心をぐずぐずに溶かすほどの蠱惑的な色香で誘い込んでいたと言う。

 ──さあこちらに。あなたともっといたいの。

 その耳元にどろどろと甘い声を流し込んで、脳髄が痺れるほどあでやかにのたまったそうだ。惑わされた生贄は、無防備な首に鋭い牙を突き立てられるとも知らずに。
 僕の大祖母様はあだやかにうつくしく笑うだけで男を陥落させたと言う。最愛の男に向けるように、今しがた情を契っているかのように微笑めば落ちない男はいなかったらしい。

「君はどこが美味しいかな」
「……っ」
「ねえ、そんなに怖がらないで?」

 彼が目を見開いたことで、細長い瞳孔がよく見えた。今にも喰い殺せそうな哀れな仔羊のような姿に笑いたくなる。忠義心に篤いこの男も、しょせんは男なのだ。どんなに隠していても、本能には抗えない。
 引き寄せるために掴んでいたネクタイから手を離すと、彼はハッとして僕を睨みつけた。少しからかいすぎたかもしれないが、これに懲りてくれればいい。

「嘘。ジョーダン。それじゃ」
「き、貴様!!」

 単純な力勝負ではなかっただけに、僕を嫌っている彼には耐えられない屈辱だろう。しかも男(だと思っている奴)に惑わされたのだ。いっそう耐えられないに違いない。

「僕に言い返せなかった時点で君の負け」

 そうでしょ、と目を細めたら、彼は悔しそうな表情を見せた。


 セベクは若様に近づくなと言ったがマレウス・ドラコニアのほうから近づいてくる場合については明言していないし、正しく僕のほうから(、、、、、、)近づいていないので嘘をついたわけでもない。つまり、マレウスに話しかけられようがちょっかいをかけられようが僕は悪くない。

「セベクをあまりからかうな」
「……だったら躾直せ」
「ふ、妬けるな。男を誑かすのは得意というわけか?」
「からかうな。それに、僕に仕込んだのは祖母だ。お前にとやかく言われる筋合いはない」

 マレウスは意地の悪い笑みを浮かべ、僕を見つめている。
 この男と頻繁に会うようになったのは、一年の冬頃だったと思う。満月の夜、月に一度だけ訪れる飢えをオンボロ寮で耐えていた。人には手を出さないと決めているにしても、近くに誰かがいれば危害を加えないとも言いきれない。だからこそオンボロ寮を選んでいたのだが、廃墟巡りを趣味にしているマレウスと遭遇したのが運の尽きだった。しかも性別までバレている。今年からは監督生くんの入寮によって使えなくなったし、僕は天にまで見放されているようだ。
 不意に、青白い光が降り注いだ。分厚い雲の切れ目から現れた満月は忌々しいほどに明るく光っている。
 飢える地獄の時間が今日もやってきたのだ。吸血衝動を抑える薬などこの世界のどこにもない。歯が痒くなり、やがて爪も伸び始める。マレウスの目に映るのはバケモノじみた僕だろう。

「月が出てきた。戻ってくれないか」

 マレウスの匂いは危険だ。吸血鬼は魔力の質が高い人間の血の匂いに弱い。厳密には彼は人間ではないが、内側からとかされそうな甘ったるい匂いがするのだ。絶対的強者でありながら、その匂いは吸血鬼を惑わせる。他の吸血鬼ならば飛びついていたと思うが、彼は易々と血を飲まれるほど弱くない。むしろ襲ったほうが返り討ちにされる。
 たとえマレウスが強い魔法士であっても、僕が勝手に友達だと思っている男に手を出したくない。強い力を持っているが故に恐れられる彼は僕を怖がらない。リリアもそうだ。飛び抜けて優れている彼らは僕のことをその他の人間と同じくらいに圧倒的な弱者だと思っている。尊大とも言えるそんな態度が僕には新鮮で、心地よかった。

「難儀な奴だ」

 彼はくすくすと嫌な笑い声を出し、そして消えた。人の気も知らないで。
 こんな姿は誰にも見られたくない。醜い、恐ろしい、おぞましい、人はみんなそう言う。どんなに美しく在りたくても、誰も認めてくれない。
 今夜はひときわ月の光が眩しかった。全身の血液が沸騰し、あまりの熱さに脳みそごととけそうだ。心臓の音が耳の真横でドクドクと響いているような気がするが、今の状況じゃ感じるものすべてを錯覚だと思ったほうがいい。

「っ、ふ、ぅ゙……ッ」

 腹が減った。苦しい。喉が渇いた。血を飲みたい。
 腕に歯を立て血を啜ってもなかなか腹は満たされない。

「ゔぅうッ、ぐ……!!」

 お腹がすいた。もう死んでしまう。そう思いながら、自分のおいしくもない血を飲んで。
 どこからか落ち葉を踏みしめるような乾いた音がした。顔を上げた先にいたのはマレウスだった。どうしているんだよ、どうして戻ってないんだよ。
 揺れ動く理性の狭間に本能が顔を出す。
 僕のたべものでもある。ああおいしそうだなあ。食べたらほっぺが落ちそうだ。血も、甘そうで。

「帰れ……!! 消えろッ!!」

 食ってしまいたくなる衝動を抑えるために更に強く噛んだら、歯がいっそう深く食い込んだ。ぼたぼたぼた。ぼたぼたと血が落ちる。白いシャツと黄緑のベストが赤黒く汚れていく。
 もういやだ。バケモノだと怯えられるのは、もういやなんだ。僕はただ、生きているだけなのに。普通に生きていたいだけなのに。どうかそんな目で見ないで。僕が、わたしが、恐ろしい生き物だということはわかってるから。

『吸血鬼なんかと仲良くしちゃいけません!!』

 友達が欲しいだけだった。絶対に傷つけないって決めていた。だけどみんないなくなった。ずっとそうだ。僕を僕として見てくれる人間なんて一人もいない。
 吸血鬼という人種への劣等感も嫌悪も生温かいこの血と飲み干せたらどんなにいいだろう。飢えて苦しいのに器用に泣ける自分が滑稽だった。マレウスはそばに来て、僕の前に片膝をついた。

「腹が減っているのか」
「へっ、てない……!!」
「苦しそうだが?」
「ちがう……!!」
「僕がおいしそうに見えるか?」

 なにがしたいのかわからない。真意が見えてこない。マレウスの肚の底が、見えてこない。
 彼は手袋を外し、自身の指に歯を立てた。骨張った白い手を伝い、ぽとりと滴るそれは赤い。僕のものよりずっとおいしそうだった。甘い匂いがする。背筋が痺れるような、寒気がするような。
 ダメだ、よだれが止まらなくなる。彼の血液から目を離せない。

「な、にを……」

 僕の頬を右手で掴み、左手を流れる血液を口に含んだマレウスはいびつに笑った。この男は僕に自分の血を飲ませようとしている。すぐに察して、頭が冷えた。

「や、だ……いや、いらないっ……ぅ、っ、まれ、んっ」

 熱い。押し付けられた唇から匂う甘い匂いと脳髄がとろけそうなほどに甘美な味に目眩がした。思考がどろどろになっている。欲しくなる。目の前の男が欲しくて、逃げも隠れもできない。

「僕の血でしか生きられないようになればいい」

 マレウスが欲しい。熱い血も甘美な声も、欲しい。
 唇にあてがわれた首筋に、わたしは大した抵抗もできずに歯を立てた。愛する人の血を飲んだらその血しか飲めなくなる、哀れな性質も忘れて。

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