あどけない笑顔でいてほしいの


 男の細い顎先から水が滴った。

「私はあなたなんて知らない。さっさとどこかへ行って」

 質のいい高そうなスーツは水に濡れ、テーブルも水浸しになっている。男は無言で立ち上がると、一万マドルをテーブルに置いて席を立った。私たちを遠巻きに見ていた店員や客たちがようやく動き出す気配は、鬱陶しく感じられて仕方なかった。


  ◇


 夕焼けの草原は貧富の格差が激しい国だ。汚れひとつない清潔な服を着てご馳走をたらふく食べる富裕層、服とも言えないようなボロボロの布切れ一枚で泥水を啜る貧困層。私は後者だった。生まれる家庭や環境は絶対に選べない。弱肉強食のこの世界では、生まれたその瞬間に勝ち組か負け組か確定する。客に身体を売って生計を立てていた母は私を産み、間もなく性病で亡くなった。魔法があれば治らない病はないと言われているこの時代に、粗末な小屋の中で息を引き取った。
 世界は冷笑的で不平等だと言うのに、生命の終わりだけは公平に、平等に与える。腐ったリンゴにたかる蝿を見つめながらガリガリに痩せ細っている手のひらで濁った水を掬うと、関節が目立つ指の隙間からこぼれた。
 お腹がすきすぎて空腹も感じられなくなった。私も死ぬのかなあ、とぼんやり思う。強い陽射しに目を細め、屋根の下に引っ込んでいるだけでも道を行き交う人々は嫌そうな顔で私を見る。小汚い子どもなんて、道路脇の雑草以下なのだ。

「ナマエ。これ、食べて」

 地面に影が落ち、俯かせていた顔を上げるとハイエナの男の子が立っていた。その手にはおいしそうなパンが握られ、膝は赤く擦り切れている。逃げている途中で転んだのかな。考えていたら、パンをぐいっと押し付けられた。

「ラギーくん、はんぶんこにしよう」
「だめ。ナマエは他の子にもあげてるくせに、オレと分けてたらナマエのがなくなるッスよ」
「最年長だもん。我慢できるよ」
「じゃあ、オレもそうする」

 ラギー・ブッチという名前の彼は、私と同い年なのに盗みやスリが上手だった。パンや果物、新鮮な水を分けてくれるから、近所の──同じく貧しい子どもたちにとってヒーローのような存在である。くぅ、とラギーくんのお腹が鳴った。決まり悪そうに頬をかいた彼は、ごめん、とちっとも悪くないのに呟く。
 少しパサついているパンは、簡単にふたつにちぎれた。

「はんぶんこ」
「……ありがと。ナマエ、他の子にあげるのはなしッスからね。オレがちゃんとあげとくから」

 私は優しいラギーくんに恋していた。
 私たちよりも貧しくて、私たちよりも年下の子どもたちは何人もいる。そんな子たちに食料を分け与えるために盗みを働いたりスリをしたりしている彼は、いつも傷だらけだ。彼にしてみれば、容赦なく殴られたり蹴られたりしていた数年前よりも今のほうが楽なのだろうけど。
 この生まれを誇りに思ったことも、恵まれていると思ったこともない。あるのは、明日まで続くかもわからない不明瞭なしあわせだけだ。
 頭がいいラギーくんは私たちに字の読み書きを教え、彼がおばあちゃんから聞いた知識を包み隠さず教えてくれた。幼い子たちがせがむと魔法だって見せてくれた。難しい魔法も、ユニーク魔法も、難なく使う。子どもたちとじゃれ合う彼を見ていると、こんな貧しい場所からはいなくなるんだろうな、という直感じみた予感がいつもよぎった。
 しかし、先に故郷を去ったのは私だった。

「踊り子になるって本当ッスか」

 どれだけ貧しくても、私の身体は女らしく育っていく。どれだけ大人ぶっていても、私が貧しい子どもである事実は変わらない。簡単に抗える運命ならば、最初から抗っている。抵抗すらできないから、その日暮らしの生活を送っているのだ。
 答えてよ、と言う声が「嘘だよね?」と言っているみたいだった。息を切らして私の所へ来たラギーくんはわかっているのだろう。私がどんな場所に行って、どんな仕事をするのかも、私より理解しているに違いない。うん、とは素直に言えなくて曖昧に笑えば、ラギーくんの顔からサッと血の気が引いた。

「ここにいちゃ、ダメなんスか」
「お金がないと生きていけないってわかってるでしょ?」
「でも、でも……ナマエはまだ十四歳じゃないッスか!! こんなの、おかしいだろっ……!!」
「私より小さい子も働いてるよ」

 ラギーくんの大きな目が見開かれ、光が揺れる。私は結局、お母さんと同じ道しか辿れないのかもしれない。乾いた風がガラスもはめ込まれていない四角の窓から入り込み、彼のしっぽに砂埃が絡みついた。

「迎えに行く」
「……ラギーくん?」
「絶対、迎えに行くから、待ってて」

 こんなセリフ、寒すぎて二度と言いたくないッスねえ。いつもなら身震いしながらそう言いそうなのに、ラギーくんは張り詰めた表情のまま泣き出しそうな声を出した。

「オレを、待ってて」
「……」
「約束してよ、ナマエ」
「……うん」

 好き、と言われわけじゃない。けれど、ラギーくんの気持ちがわからないほど鈍くはなかった。
 数ヶ月前よりも少し背が伸びた彼は屈んで私にキスをする。掃き溜めで見つけた恋愛小説のような色気も、幸福もない。栄養が足りず、うるおいのない唇同士が重なるだけの大人の真似事は生々しい温度と傷だけを残した。



 ラギーくんに会いたい。会えるまで生きていたい。耐えて、忍んで、あの口約束だけを拠り所にして。しかし、ラギーくんを思い出しながら他の男に抱かれる日々は、私を落ちるところまで落とした。

「ラギー……」

 寝言だったのか、無意識の独り言だったのか、それは判然としない。夜明けに沈む星の輝きは、忌々しいほどに綺麗に見えた。よく軋む安いベッドから抜け出し、ぬるい水を飲む。客を満足させるために演技したせいで喉はカラカラに渇いていた。
 風の噂では、彼はあの名門校に入ったらしい。ツイステッドワンダーランド有数の魔法士養成学校となれば、卒業後も引く手あまただろう。
 あんなにまっさらだった初恋は薄汚いドブ水で汚された。否、他でもない私が汚してしまった。腐りかけのものを食べなければ、泥水を啜らなければ、この身を売らなければ生きていけなかった。
 大人になった。想いだけが大人になりそびれたままの、いびつな。重い身体を引きずって廊下に出ると、夜半の窓の近くに同僚であるルーナがいた。ひとつ年上の彼女は、客との子どもを妊娠している。

「ナマエ……。聞いて、この子が動いたの」
「触っていい?」
「ええ、もちろん」

 私たちは貴い命から遠いようで、何も知らない無垢から遠いようで、誰よりも近かった。膨れて血管が少し浮いているルーナの腹を撫でると、小さな衝撃が指の腹に伝わってくる。
 生きるために。明日を見るために。お腹の子も私たちも必死に生きている。ただ、それだけのこと。朝から会社に行くように、割り当てられた仕事をするように、ここの女たちも働いている。けれど、それすら世間が許してくれない。女で、身体を売っているからという理由で。

「無事に産まれるといいね」
「そうね。ナマエ、ありがとう」

 ラギーくんも、蔑みに満ちた目で私を見るだろうか。



 二十歳になっても、私は踊り子をしている。故郷には一度も戻っていない。こうして年老いて、死ぬのだろう。そう思っていたのに、私の前に現れたスーツの男は「久しぶり」と無邪気に言って笑った。日曜の昼下がり、安さが売りのカフェ。いきなり声をかけてきたかと思えば、ナンパ師のようにさっと向かいの椅子に腰掛けた彼は綺麗な目を優しくゆるめた。

「……どちら様ですか」
「そーいうジョーダンはいいんで」

 ここ数年で演技が上手くなったなぁ。他人事みたいに思った。
 ラギーくんは「シシシッ」と記憶よりも低くなっている笑い声をあげ、頬杖をついている。週末にハイエナの男の人がナマエを探している、と年下の女の子たちから聞いた時は肝が冷えたけれど、いざ会ってみると懐かしさよりも劣等感が胸に広がった。同時に、きっぱりと諦めもついた。綺麗なスーツを着て、いかにも仕事ができそうな風貌のラギーくんには私は釣り合わない。そもそも、期待していなかった。頭のいい彼が、何の価値もない私のために六年前の約束を果たしに来たとも思えなかったからだ。だから今日は、律儀に「約束はなかったことにしたい」と伝えに来たのかもしれない。
 水が入ったグラスを振り上げる。すると、細い顎先から水が滴った。

「私はあなたなんて知らない。さっさとどこかへ行って」

 質のいい高そうなスーツは水に濡れ、テーブルも水浸しになっている。目を瞬かせたラギーくんは無言で立ち上がると、一万マドルをテーブルに置いて席を立った。いらない、とマドルを突き返せる余裕もない。カランカランと鳴ったドアベルが、煩わしい耳鳴りみたいに聞こえた。
 これでよかったと思う。ラギーくんに私はふさわしくない。わざわざ来てやったのに、と腹を立ててくれたなら万々歳だ。
 後悔はしていないはずなのに、涙が今さら落ちた。これ以上惨めになりたくなかった。ラギーくんにみっともなく縋る女にはなりたくなかった。好きだなんて、会えて嬉しいだなんて、口が裂けても言えない。誰にも聞かれないように嗚咽を押し殺し、指先で涙を拭う。泣いても泣いても一向に止まる気配がしない。こんなに泣ける感性が残っていたことに驚きつつ、ラギーくんが残した爪痕の深さを痛感した。
 不意に、騒がしさを取り戻したはずの店内が再び静かになった。タイル張りの床を歩く革靴の音は、安っぽいカフェには不釣り合いで、妙ちくりんに感じられる。ぽたり、とうなじに落ちた水滴は冷たく、テーブルに置いている手に重ねられた手は骨張っている。理解が追いつかなくて肩を揺らすと、特徴的な笑い声が頭の上から聞こえた。

「泣き虫なのは変わらないんスから。……はい、これ」
「……」
「この色、好きでしょ」

 押し付けられた花束の色が、ぼやける視界でも映えていた。

「なんで……?」

 なんで、戻ってきたの。

「プロポーズには花束って相場が決まってんでしょ? さっきも、これなかったから怒られたと思ったんスけど。あれ、おっかしいなぁ……違った?」
「……本当はわかってるでしょ」

 胡散臭くおどけたラギーくんは、わざとらしく「そんなまさか!」と両手を上げた。

「ま、嘘をつくならもっと上手くやるべきだと思うけど」
「……」
「オレを騙すのは諦めたほうがいいッスよ〜? 怪物並の曲者たちに揉まれてたんで」

 前髪をかき上げたラギーくんの頬から水が滴る。私の真横に立ち直した彼は、懐かしそうに微笑んでいた。

「綺麗になったね、ナマエ。待たせてごめん」
「な、んで」
「約束したじゃないスか。絶対迎えに行くって」
「……忘れてて、ほしかったのに」

 忘れられるわけないでしょ、と笑って私の手を握りしめたラギーくんはどうしてか泣きそうな顔をしている。

「笑って。オレと、笑っててよ。ずっと」

 いつかのように私の頬を引っ張ったラギーくんのほうがずっと、苦しそうだった。私でもいいの? と聞いたら、ナマエがいいよ、と返ってくる声がある。

「ラギーくんも、笑って」

 ラギーくんの滑らかな頬に手を伸ばすと、彼はわずかに目を見開き、それから下手くそな笑顔を見せた。お互いの頬を引っ張る私たちは、さぞおかしく見えるだろう。けれど、今ばかりはどうでもよかった。

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