与えること、許すこと、手放すこと


「腕のいい悪魔祓い(エクソシスト)を探しているのですが」

 と、その男は切り出した。悪魔の存在なんて誰も信じちゃいないこのご時世に、世界滅亡を唱える学者だとか、経済の破綻を伝える大統領だとかみたいに、真面目腐った声で「悪魔祓い」と口走るので私は今にも笑い出しそうだった。事実、ちょっと笑っていた。
 私たちを横切った若いウェイターは若干引き気味で、近くに座っている男の子なんて母親に「悪魔はいるの?」と無邪気に聞いている。私たちの会話は、数億マドルのロタリーが当たるかどうかを道端で議論する人たちと同じくらいバカバカしかった。
 そうだ。悪魔はいない。いるはずはない。
 可笑しいのは、“悪魔祓い”がどこかに存在しているという前提で話を進めるこの男のほうだ。仮に、彼らが実在するとしても、悪魔祓いと自ら名乗り出るような輩は詐欺師かただ気が狂っているかのどちらかで、悪魔を退ける能力や知識は持っていないだろう。
 私は湯気が立ちのぼるコーヒーカップをテーブルに戻し、口を開いた。

「あなたに必要なのは悪魔祓いじゃなくて頭の医者ではなくて?」
「定期的な健康診断ではどこにも異常はないと」
「じゃあその医者は偽物かしら」

 男は、私の小生意気な返事すら気にしていないようだった。目は感情を雄弁に語ると言うが、不気味な仮面の奥にある彼の双眸は見えず、何を考えているのかわからない。固く引き結んだ唇から察すれば、無意味に広い会議場で国の未来を話し合うお偉方のように、暗く、沈痛な顔でもしているのかもしれない。

「素晴らしいドクターですよ。三十年近くお世話になっています」
「ふぅん。あなた、妖精?」
「さあ。どうでしょう。あなたより若いとは思いますが――おや」
「それを、どこで聞いたの? 返答によってはただじゃおかない」

 男は両手を上げ、無防備に「そんな物騒なものを向けないでくださいよ」と告げた。この男はある魔法士養成学校の学園長だと聞いた。それも、選りすぐりの生徒を集めた名門校の。
 私が彼に向けているショットガンなんて、ちっとも恐ろしくないだろう。子どもの玩具か、赤茶色に錆びた(なまくら)くらいにしか思っていないはずだ。彼がひとたび呪文を唱えれば、私は呆気なく殺される。力量の違いは私にもわかっていた。
 
「私は、腕のいい悪魔祓いを探しているだけなんですが」

 男は、それだけで銃口を向けられる謂れはないはずです、と白々しく続けると、テーブルに小さな紙を置いた。小切手だ。随分と羽振りのいい金額が並ぶそれを一瞥し、溜息をこぼす。こういう、まどろっこしい駆け引きは好きになれない。

「……どこで聞いたの。先に答えて」
「風の噂で、ですよ。長く生きていれば、様々な情報が自ずと耳に入ってくるものですから」

 ねえそうでしょう、と男が笑う。他人を手のひらの上で転がすことに慣れている者の笑み。圧倒的な力を持って生まれてきた、勝者の笑み。
 数日ぶりに側頭部に痛みが走り、舌打ちする。コートにいつもしのばせている煙草は切れていて、ポケットにはライターくらいしか入っていない。何もかもにうんざりして、もう一度舌打ちをこぼせば、男は苦笑を漏らした。

「ナイトレイブンカレッジの学園長として、優秀な悪魔祓いであるあなたに悪魔退治を依頼させていただきます」


 ◇


 これは広く知られていないことだが、禁忌を犯した人間のみが悪魔祓いになれる。つまり私のような悪魔祓いは大罪人ということだ。たまに出会う同業者たちもそう。私たちは法ではなく神に裁かれ、勝手に死ぬことも許されず、罪を贖うために悪魔を祓っている。
 この世界の最たる禁忌とは、人を殺すこと、自殺すること、そして、死んだ人間を生き返らせること。人殺しや自殺者がいちいち悪魔祓いになっていたらこの世は悪魔祓いだらけになってしまうが、私たちの数がごく小数なのは、適性のある人間が限りなく少ないからだ。
 短くなった煙草を灰皿に押し付け、窓際から運動場を見下ろす。生徒が、だだっ広い運動場を走り回っている。若い教師に見つからないように駄弁る者もいれば、堂々と携帯電話をいじる者もいる。
 ここは、すべてが変わった。この学園の教育体制も、生徒が持つデバイスも、価値観も、常識も。最近、理系担当の教師が世代交代したばかりだというのに今度は体力育成の教師まで変わったらしい。生徒に指示を出す教師を視界に収め、コートから煙草の箱を取り出し新しい一本に火をつける。私の肺はきっと真っ黒だ。普通の人間だったらとうに死んでいる。

「吸うな」

 指のあいだから煙草が消えた。不躾な手が頬を掴み、迷いなく煙草を捨てたもう片方の手が甘ったるいキャンディーを私の口内に突っ込んだ。

「しつこい」
「あなたがやたら吸うからでしょう」

 透明な棒付きキャンディーは、苦い煙草の味に慣れきっている舌には甘すぎる。何度目かもわからない不平を漏らせば彼は「じゃあ吸うな」と教師らしい言葉を吐いて、室内に充満していた臭いまで魔法で消した。相当な嫌煙家らしい彼は私が煙草を吸う度にいやそうな顔をして、本来なら生徒のために用意していたであろうキャンディーを私の口に突っ込む。私だって喫煙する場所は選んでいるし、未成年者の前では煙草の箱すら出さないようにしている。それでも、このデイヴィス・クルーウェルという面倒な男は気に食わないらしかった。

「あのクソガキが大人になったものね」
「若い頃の話をしないでくださいとあれほど言ったはずですが?」
「私に喧嘩を売ったときのこと?」
「……」
「それとも、私に『bitch(雌犬)』って言ったときのこと?」

 十六歳のクルーウェルは今の比じゃないほど生意気で、女という性別に強い嫌悪を抱いていた。それは彼自身が未熟で、思春期特有の潔癖が表出していたからだ。加えて、彼はあのときから洗練された雰囲気を纏っていた。生来の頭の良さと優れた容姿が幼い少年にもたらした苦悩について詮索する気はないが、ミドルスクール時代にまあ色々と大変な目に遭ってきたのだろう。
 私が、定期的にナイトレイブンカレッジを訪れるようになって十年が経った頃に入学してきた少年はすっかり大人になり、教師にまでなった。学生時代の不遜な態度や生意気な口ぶりを潜め、荒削りながら多少は丸くなったこの男も生徒の前ではちゃんと“先生”をしていて、私のからかいに気まずそうな表情をするだけのかわいげを持つようになった。

「怒っていますか」
「別に? あなたが思うほど怒ってない。クソ生意気なガキだとは思ったけど」

 やっぱり怒っているじゃないか、と溜息混じりに呟いたクルーウェルが近くのソファに腰掛けた。教師だなんて厄介そうな仕事をしなくても顔だけで食っていけそうなこの男は、一年越しの再会を果たす度に大人びていく。いずれはもっと老いて、他の人間たちと同じように死んでいくのだろう。本当に似合わないけれど、彼も生涯のパートナーを見つけて、家庭を持って、住宅ローンの返済に追われる日々を過ごすのかもしれない。いや、言いすぎた。この男にはローンだとかそういう庶民臭い単語は一生似合わない。夜景が見えるホテルの一室で、俗に言うイイ女(、、、)をその腕で抱き寄せているほうがずっと似合う。

「俺の顔に何か?」
「男前に成長したと思って」

 一年生の頃は女に近寄りもしなかった。三年生になる頃にはいつも甘い香水の匂いがした。大人になるにつれて、彼は、女の扱い方がうまくなった。
 私の返事に気を悪くしたのかただ単純に不審に思ったのか、クルーウェルは彩度の低いシルバーグレーを眇め、私を見上げた。

「口説いているんですか?」
「私があなたを口説く? ありえない。何か、って聞かれたから答えただけよ」
「逆ならどうですか?」
「逆……?」

 運動場から聞こえてきたバルガスの声に気を取られ、クルーウェルの表情なんて見ていなかった。彼の言葉の意味を思考する前に腕を掴まれて、男の力に到底勝てるはずもない私の身体は簡単に倒れ込んだ。目の前に整った顔がある。未熟さのかけらもない。その双眸にはかわいらしさも傲慢さもなく、あるのは真摯な光だけだった。

「……なんのつもり」
「口説いているつもりです」
「驚いたわ。手近な女で済ませようとするなんてあなたらしくないんじゃない。遊びたいなら若くて綺麗な女にしておけば」

 残念ながら、とクルーウェルの唇が動いた。

「本気ですよ」

 私は、バカだから、その声を聞いてようやく「逃げなきゃ」と思った。頭が良くて賢いこの男に呑まれたらおしまいだ。そのくらいのことはわかっているのに、私の身体に触れている腕はびくともしない。

「……あなたが年上好きだなんて知らなかった」
「からかうな」
「悪趣味ね」
「ああ、悪趣味だ。死にたがりの女に惚れるつもりなんて、少しもなかった」

 クルーウェルに、強がりは通じなかった。それどころか、彼は私の虚勢に気づいておきながら、気づかないふりをしているに違いなかった。

「死んだ恋人の亡霊を探し続ける女に惚れるほど、俺は馬鹿じゃないはずだった」
「……どうして」
「知っているのか? 簡単だ。悪魔祓いになれるのは罪人だけだ。人殺しか、自殺者か、或いは、死者蘇生を試みた者か。……あなたが人殺しであれば学園長がこの学園に招き入れるはずがない。となれば、選択肢は二つのみだが、自殺したわけではないだろう。死にたがりのわりに、直接死に関わるような行動は取っていないからな。消去法でいけば、誰かを生き返らせようとした(、、、、、、、、、、、、、)、と考えるのが妥当だ」

 視界が、頭が、真っ白になっていく。クルーウェルには知られたくなかった。彼だけには知られてはならないと、なぜか思っていた。

「一体誰を生き返らせようとしたのか、ずっと考えていた。だが、あなたを見ていたら、いやでも気がついた。わかってしまった」
「……言わないで」
「恋人だ。あなたには、罪を犯してまで生き返らせたかった男がいる」
「言わないで!」
「俺だって言いたくない。惚れた女が惚れ抜いた男の話なんて、誰が好き好んでするんだ」

 部屋が暗くなった。明かりが消えたからとか、太陽が雲に隠れたからとか、そういうのではなく、クルーウェルが魔法で窓のカーテンを閉めたからだ。

「俺には悪魔は見えん。が、それらは確かに存在していて、あなたはなんらかの超自然的な事物から呪いを受けたんだろう。神であれ、悪魔であれ、魔王であれ、そういったやつらに呪われて、不老不死になった」

 私の頬を撫でるクルーウェルの指は熱かった。いつから、彼は私にキャンディーをくれるようになっただろう。いつから、手袋を外して会いにくるようになっただろう。いつから、いつから。女物の香水の匂いをさせなくなっただろう?

「呪いを解くのは、真実の愛のキスだと相場が決まっているらしい」
「……いやよ」
「あなたは恐れているだけだ」

 突き放さなければ。そう思うのに、クルーウェルの膝に乗り上げている私の身体はちっとも言うことを聞いてくれない。

「俺の感情が馬鹿げた“真実の愛”とやらで、“愛のキス”という科学的根拠も理論も数値もないくだらないものであなたの呪いが解けたならば、それは」

 どの指が私の唇に触れたのか、考えるのもいやだった。わからない。恐ろしい。何も聞きたくない。この男は、人間のふりをした悪魔なのだろうか。もしそうであるなら、納得してしまいそうになる自分がいた。

「あなたの運命は、お前が愛してきた男ではなく、この俺だったということになるからな」
「……違う」
「違う? そうか、違うか。なら試せばいい。口と口をくっつけてみるだけだ。挨拶と変わらない」
「いやよ」

 逃げる。捕まる。逸らす。奪われる。
 意味のない攻防を繰り広げて、最後の最後に鼻で笑ったクルーウェルは私の頬を容赦なく掴み上げた。この男が、今まで対峙してきたどんな悪魔よりも恐ろしい。

「あのときみたいに、『調子に乗るなクソガキ』と言わなくていいのか」
「じ、ごくに、落ちればいい」
「地獄? 俺には天国よりもお似合いだな」
「っ、や」
「怖いなら目を閉じていろ」

 待て、と言う暇もなかった。唇に乗った痺れるような熱さと目の前にある瞳から逃れるようにして目をつぶったら、彼の艶めいた息遣いが耳を掠めた。涙で濡れていた唇が熱を帯びている。全身からくまなく力が抜けて結局クルーウェルにしなだれる自分自身が情けない。

「あなたは俺を拒めない。最初から、拒む気なんてないんだ」

 そうだろう、と瞳のみで問いかける狡さも、すべて見透かす鋭さも、ずっと嫌いだった。

「俺は鈍くない」
「……クルーウェル」
「惚れた女に、悪しからず思われていることくらいわかっていた」
「いや……やめて……」
「好きだ」

 人のかたちをした悪魔は甘やかに囁いて、もう一度、私の唇をやわく食んだ。

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