有刺鉄線の赤い糸


「何か覚えてるか」
「……死ぬほど飲んだことしか」

 私は生まれて初めて、同僚の部屋で目を覚ますという経験をした。酒は飲んでも飲まれるな。その通りですはい。


 ◇


 生まれつき、私は美人だったし頭も良かった。どこに行っても一番で、できないことを探すほうが難しい。そんな子どもだったので両親にはたいそう愛され守られ、自己肯定感の塊のような大人になった。当然、何かを失ったことはない。職業選択ではそれなりに苦難を強いられたが二度と立ち上がれなくなるような挫折も知らずに育ち、仕事も波に乗り始めた頃に婚約者に捨てられた。

「君は確かに綺麗だが、少しもかわいげがない。君なら一人で生きていけるだろう」

 近所では名の知れた良家のお嬢様だった私には生まれたときから婚約者がいた。恋なんてものをろくに知らず、家同士のその約束を漠然と受け入れた私もいつの間にか二十代を迎え、そろそろ結婚をと両親にせっつかれ始めた頃に婚約者くんから破談の申し入れを受けた。私は婚約者くんにとって邪魔な存在だったらしい。「女はもっとかわいげがあったほうがいい」と余計なお世話すぎる捨て台詞を両親たちの前で言い放った彼は、同じ職場で働くかわいい女の子と付き合い始めた。正式に破談を受け入れた一週間後のことである。全部計画のうちだったのかもしれない。

「ごめんなさい、まさかあんな男だったなんて……」
「すべて私たちのせいだ。お前には辛い思いを……」

 ちっとも悪くない両親に泣きながら謝られて私のメンタルは死んだ。そこでようやく、あのクズ金を搾り取られた挙句に浮気されて路頭に迷ってしまえ、とも思った。すっかり抜け殻になった両親は「好きなことをしなさい」と言って私にお金を握らせると現実逃避という名の海外旅行に出た。
 人間、一人になると何をしでかすかわからない。一見冷静に見えていても人目がなくなれば壊れる人間もいる。私がそのタイプだった。仕事やプライベートのストレスで頭がおかしくなっていたのか、家具を捨てアクセサリーを捨て借りていた部屋の契約を切った。あと仕事も辞めた。一週間か二週間、遊び尽くしてふと気がつく。
 私、馬鹿すぎるんじゃん。
 正気に戻った私の周りには豪遊した証の領収書といつ買ったかもわからない服やら靴やらが落ちていた。母自慢のかわいいおうちは見る影もない。両親がこの惨状を見たら泣くな、というレベルの有様だったので彼らが帰ってくる前に綺麗に片付けた。虚しい。
 医者か社長か大企業に務めるエンジニアと結婚したい。浮気をしない誠実な男ならなおよし。する予定もない結婚だとか見つけるつもりもない結婚相手のことを無意味に考え、私はようやく新しい仕事を探し始めた。そこそこいい学校で教師をしていたから働いていたぶんの貯金はあっても、無職のくせに人生遊んで過ごすには無理がありすぎる。
 どうせなら地元を出たかった。あのクズがかわいい恋人とのうのうとイチャイチャする様なんて見たくもないし二度と会いたくなかったからだ。とは言っても地元以外にコネはない。学生時代に私を娘のようにかわいがってくれた教授に頼み込むと、彼は嬉しそうに笑った。できるだけお給料がいいところがいいな、とお願いしてナイトレイブンカレッジの教職を持ってくるあたりが教授のイカれ具合を示している。素晴らしいカモだ。是非とも健やかなおじさんのままでいてほしい。
 名門のナイトレイブンカレッジなら給料は良いだろうし、落ち着いた子が多いだろう。だって名門校だ。以前勤めていたハイスクールの生徒のように喧嘩したりサボったりしないはず。カツアゲ? 暴力? ないない。だって名門校だし。



「クソガキどもめ……」

 つい先日行われた試験の採点をしながら悪態をつくと、隣のデスクのバルガス先生が物凄く大きな声で笑った。同意の笑いだったようだ。いつも弾けそうな声で笑うから心臓に悪い。
 答案用紙に「先生の連絡先教えて」と書き込む生徒はいるわ、わからないからと落書きする生徒はいるわで頭痛が酷くなってくる。おかしい。もしかしてナイトレイブンカレッジは名門校ではなかった? 同じ名前の学校が複数あるとか? 私は世紀末のほうのナイトレイブンカレッジに来てしまった?
 喧嘩とサボりは日常茶飯事だしなんなら病院送りもザラにあるしセクハラまがいのことを言ってくる馬鹿もいる。ナイトレイブンカレッジは「ウチ名門校です」詐欺をしていると思う。絶対嘘なのに。いつかゴシップ誌に〈名門校N学園の裏の真実〉みたいな感じで抜かれそうで怖い。
 先生の連絡先は教えません。色ボケした答案用紙に赤ペンで書き込み、次の子の採点に入る。

「まあ、美女を口説きたくなるのは男の性でしょう」
「あらお上手ですね」

 私が何に対して溜息をついたのか察したらしいバルガス先生の言葉に思わず苦笑する。こいつらは大して怖くない私で遊んでいるだけだと思う。舐められているとも言う。そのあたりも含めてやっぱりクソガキだ。
 彼氏いるの恋人いるの攻撃に耐えきれなくなり「先生は婚約者に捨てられました」とこの世の終わりのような顔で言ってあげたら誰も何も聞かなくなった。特にサバナクローの面々は大人しくなった。「つらかったよな……」「気持ちわかるぜ」と励ましてくれる謎の勢力が出てきたが今のところ害はないので放置している。サバナクローの彼らは浮気でもされたことがあるのだろうか。みんな若いのにかわいそう。

「せんせー、古代呪文語教えて。ついでに連絡先も」

 職員室に入ってきた生徒は古代呪文語の教科書を持っている。わからない箇所があるのは事実らしい。

「ついでにで人の連絡先を聞かないの」

 私の連絡先を聞く流れはもはや様式美になっている。私は未成年に手を出すほど男に飢えていないし、この年でお縄につきたくない。私が逮捕された日には両親が泡を吹いて倒れてしまう。
「せんせーってバルガス先生と隣なの」「ああそうだ! 俺にも質問するか?」「いやしないけど」「なんだと!!」「だって筋肉のことしか言わないし」マイペースな彼はバルガス先生と親しげに話している。キリのいいところで採点を終わらせて立ち上がると、彼もバルガス先生との会話を切り上げた。

「どこがわからないの?」
「東洋古代呪文語」

 空き教室に向かう途中、特に話題もなかったから聞いてみれば二日前に教えたばかりの内容が返ってきた。東洋は馴染みのない土地だからか、生徒が躓きやすい場所ではある。私の友達も東洋の分野が大の苦手だった。
 そうだよね難しいよねーと話していると前方からクルーウェル先生が歩いてきた。書類に視線を落としている彼はまだ私たちに気づいていない。思わず壁際に身を寄せる私はかなり情けない大人に見えるだろう、でも仕方ないのだ。単純に雰囲気が怖いし、これはクルーウェル先生には少しも関係なくて申し訳ないけれど高圧的な話し方が婚約者だったクズに似ていてトラウマがよぎる。正気を失い、およそ成人した大人とは思えない自堕落な生活を送ってしまったトラウマが。あのときの私は人間じゃなかった。理性を失い本能のままに食っちゃ寝する獣だった。思い出したくもない。
 サムさんのように「ハァイ!」と話しかけられるわけもなく、トレイン先生のように落ち着いて挨拶できるわけもなく、クルーウェル先生とすれ違う瞬間、私はとんでもなく下手な笑顔を披露した。このとき最もいやなのが、鼻で笑ったクルーウェル先生に「Good girl」とからかわれることである。

「子ども扱いされてるし。Good girlて」

 憐れむような目に見つめられているせいで居た堪れない。例に漏れず、私はからかわれた。含み笑いを浮かべていたクルーウェル先生の足音が遠ざかり、書類をめくる音と一緒に香水の匂いも薄れた。

「苦手?」
「そんなわけないでしょう。彼は素晴らしい先生だもの」
「口ではなんとでも言えるよね」

 NRC生そういうところかわいくない選手権堂々の一位はこういうところだ。つまりクソガキ。

「仲悪いって本当だったんだ」

 生徒がそう言うということは、私はクルーウェル先生に嫌われているし、クルーウェル先生を嫌っているように見えるのだろう。
 いや私も苦手ですし。文句は言えないというか。むしろ態度に出てしまう私のほうがずっと幼稚ですし。そうです体面を取り繕えない私が悪いです。私も同僚とは仲良くすべきだとわかってます。いやでもあの話し方を聞いているとクズを思い出してしまって頭が痛くなってくる。かわいげがない。一人でも生きていける。私を傷つけるためだけに平気でそう言った男の言葉が頭を駆け巡って、消えたくなってしまう。
 あのクズにとっては私は傷つけてもいい女だった。たったそれだけのことなのに、軽んじられて意味もなく馬鹿にされたことが悔しい。

「手加減なしでいくからね」
「ゲッ……せんせースパルタだからやだな」

 まずは目の前の仕事を終わらせて、この子を寮に帰してから採点もやって明日の授業の予習をして、それから。あとはプリント作りもしなければ。やることが多い。多すぎる。待って課題のチェックもしなくちゃいけない。

「クソ……名門校なんてクソだ……」

 名門校の労働はクソ。日が沈み、窓の外が真っ暗になる頃には職員室には私しかいなかった。ようやく終わらせた仕事の山はデスクに積み重ねられ、ぼんやりと「よくこんなにやれたな」と思った。
 疲れた。帰りたい。眠い。お腹空いた。身体なんて悲鳴を上げているし疲労と空腹と睡眠不足で何がなんだかわからない。
 私何してるんだろう。生徒のために真面目に労働してます。馬鹿馬鹿しい自問自答をしながら立ち上がると、職員室の扉が開いた。わあクルーウェル先生。夜でも相変わらず素敵ですね。言えるはずもない言葉がつらつらと流れる脳内とは裏腹に、気まずい空気が流れて私の表情筋は死んだ。

「俺しか残っていないと思いましたが。先生もいらっしゃったとは」

 私はクルーウェル先生の言葉が刺々しく聞こえる魔法にかかっている。言わずもがなあのクズのせいで。

「もう帰るところです。……お疲れ様です」
「食事にでも行かないか」

 疲れすぎて幻聴が聞こえてきた。さっさと家に帰って寝たほうがいい。じゃないと仕事に支障が出る。

「俺とは行きたくないか」
「……幻聴じゃない……?」
「幻聴……?」

 扉を押さえつける長い腕に行く手を阻まれ、思わず顔を上げれば私と同じように疲れの滲んだ瞳と目が合った。それもそうか。私たちはどちらも二十代半ばを超えている。やんちゃすぎる生徒たちの相手を毎日していたら疲れるに決まってる。せっかくハンサムなのにかわいそう。ハンサムって言葉はもう死語だよと生徒に言われたっけ。じゃあイケメン。
 私のほうが酷い顔してるんだろうなあ。教師とは思えないくらい整っている顔面を眺めていたらじわじわと仲間意識のようなものが芽生えてきた。お互い大変ですね、というあれだ。
「待っててください」と言われたので頷いたら少し驚かれた。疲労って怖い。無敵になれる。というか家に帰って食事の準備をしたくない。おいしいご飯が食べられるならそれでいい気がしてきた。
 そのあとクルーウェル先生とめちゃくちゃ愚痴ったし酒を飲んだし記憶を飛ばしてなぜか彼のベッドで目覚めた。もちろん素っ裸で。
 とんでもないことである。

「何か覚えてるか」
「……死ぬほど飲んだことしか」

 経緯を思い出そうとしても二日酔いの頭は痛みしか訴えない。とてつもない量のアルコールを飲んだことはわかる。酔う前は愚痴ったり授業の方針などについて話し合ったりでまともだったと思うが、問題は泥酔した私がぴーぴー泣いてしまったことだろう。クズの話をめちゃくちゃした気がする。
 それからどんな流れでクルーウェル先生の自宅にお邪魔したのかは覚えていないし、なぜ抱かれてしまったのかも思い出せない。独り身の男性の家に酔っぱらい女が足を踏み入れた時点で、末路は決まりきっていたのかもしれないけれど。

「まあいい。そろそろ出ないと間に合わん」

 呆れ顔の、少し機嫌が悪いクルーウェル先生は私を見逃してくれたらしかった。壁にかけられた時計は七時半を指している。確かに仕事に遅刻してしまったら大変だ。

「家に戻る時間はないだろ。シャワーなら貸してやる」

 手渡されたのは私が着ていた服だった。クルーウェル先生は私の服を洗濯しておいてくれたらしい。クズとは人間性から違う。こんなに素晴らしい人に対して失礼すぎる態度を取ってきた過去の私を殴りたい。

「今まですみませんでした。失礼なことばかり……」
「気にしてない。避けられていた理由もわかったしな」
「でも」
「嫌っていたら抱かないだろ。この話は終わりだ」
「……どうしてそんなに優しくしてくださるんですか?」

 気まずく思いながらも聞くと、クルーウェル先生はおかしそうに笑った。

「俺が優しい……? あなたがそう思うならそれでいいが。まあ、いつかは手懐けてやろうと思っていたさ」

 頬に長い指が触れた。手懐ける? 手懐けるとは?

「Good girl」

 びくりと肩を揺らした私を見つめる瞳はいつものからかいの色が見えた。こんなの手懐けられてしまう。やっぱり苦手かもしれない。
 クルーウェル先生は優しくないのだと思い知ったのは、サバナクローの子たちに「クルーウェルの匂いがする」「今度こそ幸せになれよ!」と言われたときだった。その日から、私に「連絡先教えて」と言ってくる生徒は一人もいなかった。

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