永遠の春を待っていた


「俺にくれるのか? ……そうか。ありがとう」

 決して高くはないプレゼントを受け取ったあのひとは花が綻ぶみたいに笑って、私の大好きな少しだけ頼りない表情で「大切にする」と言ってくれた。雪降る大地のような冷たい色の髪には様々な色の紙テープや紙吹雪が絡みつき、彼がどれだけ多くの人たちに愛されているかを知るだけで泣けてくる。私の内側でやさしく痺れる痛みは、きっと愛情だった。
 誰よりも真っ直ぐだった彼は今、どんな人になっていてどんな風に笑っているだろう。

 プレゼントを渡せたのはたったの四回だ。渡せないまま過ぎ去った五年ぶんのプレゼントは今も私の部屋で眠っている。


  ◇


 カリムがナイトレイブンカレッジを卒業した日、私は当時付き合っていた恋人と別れた。お互いに恋よりも優先すべきものがあったから、どちらともなく「別れよう」と告げてそのまま呆気なく終わったのだ。友達に戻ろう、と言う私の言葉に首を振ったのは意外にも彼のほうだったけれど、僅かな未練も残さずに関係に終止符を打つ清々しさまでもが彼らしくて最後の最後に「ああ好きだな」と思ったことを覚えている。真面目なあのひとは友達でもなく知人でもなく、一切関わらないことを望んだのだ。

「なあ、休憩しないか?」

 書類から顔を上げたカリムは私の返事を待たずに部屋から出ると、近くの廊下に待機していた召使いを呼び出してあれこれと指示を出した。熱砂の太陽を思わせる双眸は地平線の向こうに沈む直前の夕日に似ている。直視するには眩しすぎる色は、そのおおらかさと明るさで人を包み込むカリムによく似合っていた。
 金のピアスを揺らしながら戻ってきたカリムが軽々と書類の山を持ち上げ、手際よく片付けていく。カリムのそばに黒髪の彼はいない。二人でワンセット、そんな当たり前も今や当たり前ではなくなっている。

「ジャミルのやつ、そろそろ帰ってくるって言ってたぜ」
「それは嬉しい報せですね」

 ジャミルの手助けがなくても生きていけるようにと努力し、もうすぐ26歳を迎えるカリムは自分の二本足だけでちゃんと立っている。

「敬語じゃなくていいって言ってるだろ?」
「仕事中ですから」
「えー? そんなの気にすんなよ」

 唇を尖らせる困った主人に笑みがこぼれる。
 ナイトレイブンカレッジを卒業してから丸々五年が経った今でも、カリムはカリムのまま純粋でいてくれる。伸びた髪や逞しくなった腕、随分と高くなった背丈が時の流れをより強く感じさせようとも、変わらない彼の穏やかさにはいつだって救われてきた。

「あ、そういえばそろそろ同窓会があるんだよな。ジャミルは多分それまでに帰ってくるだろうし……ナマエも来るだろ?」

 当然のように言われても、なんと返せばいいのかわからない。「ご冗談を」と笑いながらそれとなくカリムから目を離し、窓辺から入り込む風に揺られるカーテンを観察した。いつもは歯牙にもかけないカーテンが今さら気になるだなんて、カリムの言葉から逃げるための現実逃避に過ぎないんだろう。

「嬉しいお誘いですが、私は」
「行こうぜ!」
「いいえ。私は護衛としてあなた様のおそばにいただけです。生徒ではない私が同窓会なんて烏滸がましいだけでしょう」
「ナマエはいつもそればっかりだ。アズールも会いたがってたぜ?」

 万が一にも、億が一にも、あのアズール・アーシェングロットが利用価値のない女に会いたがるはずがない。大袈裟に「おやおや……それは残念です」と肩を竦めるわざとらしい姿が目に浮かぶ。おそらく、カリムはアズールの社交辞令を真に受けてしまったんだろう。護衛として仕えて長いが、アジーム家の当主となった今でも疑いと穢れを知らないこの純粋さは時おり心配になる。

「カリム様、お茶のご用意ができました」

 この話はもう終わりだ。カリムを呼ぶ召使いの声を聞きながら、私は誰にも知られないようそっと息をつく。

「ハーブティーとアッワーマでございます」
「ありがとな!」

 熱砂の国名産のハーブの香りが広い室内に香り立ち、ガラス製のポットから注がれる熱湯がこぽこぽと音を立てた。疲労や眠気に効くハーブティーですので、という彼女の説明をカリムがちゃんと聞いているかはわからない。
 アッワーマはシロップ漬けのドーナツのことだ。ナイトレイブンカレッジにいた頃は、ドーナツが好物らしいラギーを誘ってカリムやジャミルとたまに一緒に食べていた。「めちゃくちゃ甘いけどクセになる味」と評したラギーの手が止まることはなく、すぐに空っぽになったお皿を見たカリムが「また作るからな!」と笑っていた。あの光景を思い出すと、懐かしさと寂しさが蘇る。

「ナマエも来いよ」
「いえ、行きません」
「なんでだよお」

 む、と珍しくむくれた表情をする。今日は珍しいなと思いながらカリムを見やると唇の端にシロップがついていて、「ついてるよ」と笑ってしまいそうになる。とうに身に染みついてしまった丁寧な口調で声をかけると、カリムは笑いながらナフキンで唇を拭った。
 主従関係にある私とカリムは主人と従者という間柄でありながら、気の置けない幼馴染同士として過ごしてきた。二人きりになるとカリムが途端に幼くなるのは気を抜いている証拠だろうし、大人になっても変わらない純新無垢な振る舞いはある意味美点でもあるだろう。
 学生の頃のジャミルはそういうところが嫌いだと言っていたが、今のカリムは一人で生きていけるほどしっかりしている。たまにふらっと旅に出るジャミルがカリムに連絡を寄越したということは、そろそろ帰ってくるのだろう。数ヶ月に及ぶ旅から帰ってきたら、カリムの変わりようにまた驚くかもしれない。怜悧な黒い瞳が驚く様を見るのが少し楽しみだ。

「ナマエ!」

 綺麗になった口元を一瞥し、再び前を向こうとした私をカリムが呼び止める。

「じゃあ、ウチでやればいいんだな!」
「は? 何言ってるの?」
「お、いつものナマエだ」

 なぜこうも突拍子のないことを言うのだろうか。カリムに仕えてから二十年余り。おそらく振り回されなかった日なんてほぼなかったし、その自由な振る舞いに慣れてしまっている私がいるのも確かだ。しかし、このときばかりは職務中であることも忘れて崩れた言葉が飛び出した。

「私のためならばおやめください。そのような手間をおかけするわけには──」
「だってさ、一度はオレの国にも来てほしいだろ?」

 宥めようとする私を遮り、カリムは首裏で手を組んだ。この国やこの国に生きる人たちを深く愛している彼らしい言葉だが、アジーム家を同窓会に利用するなどの暴挙は許されない。先代がこだわりにこだわって集めた骨董品や装飾品を破壊されたらとんでもない額のマドルを請求しなければならなくなる。この屋敷に幾度となく足を踏み入れている商人や商売相手ならともかく、招待客はナイトレイブンカレッジのOBだ。学園での彼らの暴挙を思い出せば、不安はひとしおだった。

「ご学友の皆様は薔薇の王国や夕焼けの草原、果ては珊瑚の海などといった遠い国でお過ごしと思いますが」 
「そうだな!」
「どうするおつもりで?」
「どうにかする!」

 どうにかするって、どうせポケットマネーからなんやかんやするんでしょう。
 アジーム家当主としての風格が板につき始めているとは言っても、お金はポンポンと出すものではない。金銭感覚が狂っているカリムや彼のご両親にはなかなか理解できないだろうけれど、貧しい環境で幼少期を過ごした私は彼らがとんでもない買い物をする度に、自分の財布の紐までもが緩んでいるのではないかと不安になって胃がキリキリと痛くなるのだ。

「二〇〇人も招待すると?」
「ああ!」
「……。……こちらですべて準備するのなら、各々の移動費は自己負担してもらって、参加費もきちんと貰ってくださいね」

 なんで? と首を傾げるカリムに頭が痛くなった。会場や飲食物を提供するだけで十分だと思うのは私だけだろうか。彼がお金に対しても人に対しても寛容すぎるだけに違いない。
 ナイトレイブンカレッジは世界各地から優秀な生徒を集めているために人種や文化、価値観が入り乱れている学園だ。卒業後には世界中で活躍する彼らが一堂に会するには、多少の自己負担もやむを得ない。それでも毎年同窓会に集まる人数は増えていっているというのだから、在学中の協調性のなさは少しずつ改善されているんだろう。彼らも大人になっている証拠だ。
 それでも、不安なものは不安だ。何か壊されたら一瞬で数億マドルが消える。私が同じ人生を十回繰り返しても到底稼げないであろうお金が吹っ飛ぶなんてとんでもない。とんでもないことだ。

「オレも皆と飯が食いたいんだ」

 ダメですよと念を押す前にカリムの弱々しい声が聞こえ、言葉に詰まる。痛いところを突かれた。寂しそうにぼやくカリムにとことん甘い自覚はあるのに、あんな表情をされたら何も言えなくなる。
 大抵、一年おきに催される各学年の同窓会は交通の便も良く温暖な気候帯に属する輝石の国や薔薇の王国などの一流ホテルで執り行われ、参加するOBたちは鏡なり公共交通機関なりの好きな移動方法で会場に集まる。夕焼けの草原は暑すぎるし、熱砂の国は昼夜の寒暖差が激しい。まして珊瑚の海は正しく人魚のための地だ。そういった兼ね合いも含めて輝石の国か薔薇の王国が選ばれるのだが、カリムはそういった場所で食事ができない。
 太陽のように明るい彼の唯一の後暗い部分は赤い瞳に影を落とす。気づかなかったわけではない。すごく楽しかった、あいつらも元気そうだった、と楽しそうに話す彼がいつもお腹を空かせて帰ってくることに。いくら鈍感でも、心のどこかで寂しさを感じていたはずだ。

「なあ、頼むよ。仕事は終わらせるからさ!」

 ふつふつと罪悪感を湧き上がらせる私を期待に満ちた双眸が見つめている。ここまで来たら結果は見え透いている──呆気ない敗北をひしひしと噛み締め、唸り声を上げながら私は重たく感じる頭を縦に揺らした。
 お前はカリムに甘すぎる、と苦言を呈したもう一人の幼馴染の言葉があのときの呆れ声を伴って聞こえてきそうな気がして耳が痛い。

「上手くいくといいですね」
「おう!」

 首にかかったネックレスを何気なく撫でると、冷たい感触が指の腹に伝わった。



 やはり、他人にとことん甘すぎるカリムは参加費を相場の半額以下に設定したらしい。さすがに各個人の移動費は自己負担という形を取ったが、それでも通常の同窓会よりかなりお得ということは変わりない。もしもカリムが事業主だとしたら大赤字間違いなしだ。

「そういえば、ナマエさんはカリムさんとご結婚するんだとか」
「ボクも聞いたよ。おめでとう。二人なら素晴らしい家庭を築くだろうね」

 開催会場が熱砂の国のアジーム家の邸宅という物珍しさからかなり多くのOBが参加した今回の同窓会は非常に盛り上がり、旧友と酒を交わしたり思い出話に花を咲かせたりとみな思い思いに過ごしたようだった。リドルとアズールの協力のおかげもあって同窓会自体はつつがなく終わり、酒の匂いを残した熱気が頬を撫でる。宿泊を希望する人はゲストルームに向かい、まだ飲み食いしたい人だけが残っているパーティーホールは数時間前の喧騒が嘘のように閑散としていた。
 リドルは善意で手を貸してくれたんだと思う。アズールに関しては胡散臭いものを感じないでもないが、彼はこういう人だと多少なりとも理解しているつもりだ。感謝こそすれ不平不満を言うつもりはない。いつか要求されるであろう見返りについては今は置いておくとして、

「どういうこと?」

 有り得ない言葉が聞こえた気がして聞き返すと、彼らのほうが困惑気味に「他の従者の方がおっしゃっていましたが……」「ボクも給仕の子から聞いたよ」と答えられ更に混乱する。私たちは恋人はおろかそういう雰囲気になったこともない。

「有り得ない」
「おや、結婚の話は秘密でしたか。なんせカリムさんはベロンベロンに酔っていらしたのでお祝いの言葉も言えなかったのですが」

 秘密だとか、そういうことじゃないのだ。
 幸い、今は人も疎らになっている。無闇矢鱈に誰かに聞かれていい話ではない。ただでさえカリムの結婚相手探しに難航している状態だ。あらぬ噂を立てられれば更に行き詰まることは目に見えている。

「私たちはそういう関係じゃない」
「そうなのかい? てっきり、若い女の子が『毎日二人で部屋にこもっていた怪しいと思っていた』と言うものだから」
「護衛として入ってるだけだって」
「おやおや、シルバーさんとのことは忘れて新たな恋を見つけたとばかり思っていましたよ」

 ギクリと肩が揺れた。私の動揺を悟ったらしい慈悲深い(、、、、)男は口の端をにやりと持ち上げる。シルバーと付き合っていたなんて、在学中も卒業してからも誰にも言っていない。アズールがどこからどうやって情報を手に入れたのかは知らないし、まさかバレていたとは思っていなかった。どうせ五年以上も前のことだ。今は昔のことを知られていようがそうでなかろうがどうでもいい。どうでもいいけれど──、

「随分と仲がよろしかったようで」

 もうほんとやだこの人。喉元までせり上がった弱音を押し込むために唾を飲み込もうとすると、口の中がカラカラに乾いていて何も飲み込めなかった。喉の奥が少しだけ痛い。
 さっきまでフロイドとじゃれ合っていたカリムは、夕焼けの草原の王弟殿下の仕事に付き添うついでに立ち寄ったらしいラギーと話している。そんな彼らの近くに懐かしい銀色を見つけ、私の身体は石に蝕まれるかのように固まった。
 今日、もしかしたら会うかもしれないと思っていた。遠目でも、あのひとを見かけてしまうかもしれないとわかっていた。

「シルバーと付き合っていたのかい?」
「卒業するときに別れたよ」

 そうだったんだね、と大きな目をぱちぱちと瞬かせているリドルの反応が数年前と変わっていなくて懐かしい。そんな懐かしさを覚えさせる空白の期間は、私たちをおざなりに置いてけぼりにしそうなほど早く去っていった。今はもう、みんなが大人になっている。
 五年も前の恋なんて、もう時効だ。もしも恋に賞味期限や消費期限があったなら、見た目も味も褪せて、そのままでは食べられない状態になっているに違いない。あの感情は色褪せ朽ちている。否、二人で納得して手ずから終わらせた。
 シルバーの一番はマレウス様とリリア先輩で、私の一番はカリムだった。お互いに優先すべきものがあってお互いに譲れないものがあると納得して、理解して始まり終わった関係を悲しいと思ったことはない。

「俺はお前を優先できない。それでもいいか」

 シルバーは付き合う前に何度も確認していた。
 惹かれたときからわかっていたのだ。しょせんこの恋は期間限定に過ぎず、この学園を去るときに捨てなければならないと。確かに、不確かな恋だった。子どもながらに必死に恋をしていつかは終わる予感をも見ないふりをして、世の中の普通の恋人同士みたいな恋をした。
 誰も知らない。私に触れる指先の優しさを、涼やかな瞳に覗く熱量を、あのとき、あの瞬間だけは私だけが知っていた。

「アズールくん。今日って、何月何日だっけ」

 とうに私のことなんて興味をなくしていたアズールは、熱砂の国の民族衣装に身を包むボーイからグラスを受け取ると私を振り返った。炭酸の弾けるシャンパンゴールドがグラスの中で揺れ、しゅわしゅわと音を立てる。
 訝しげな目をそのままに、レンズ越しの瞳が私を射止めた。

「5月──5月14日ですよ」

 今日は、シルバーの誕生日の前日だ。彼の誕生日が近づく度に「喜んでくれるかな」と考えながらプレゼントを選んだ日々が、苦々しい記憶に生まれ変わって蘇った。



 ついさっき、日付を跨いだ頃に旅行から帰ってきたジャミルは私の部屋を訪れると、重たそうなバックパックを下ろして写真やお土産を見せ始めた。結局、彼の帰りは同窓会には間に合わなかったのだ。

「また買ったのか。お前を見ていると痛々しすぎて泣けてくるな。もう諦めろ。あいつだって他の女がいる」

 泣いてもいないくせに鼻で笑うジャミルを小突くと、彼はオーバーに「痛いじゃないか」と言う。今度の旅では星が降る湖に行ったらしいジャミルは何枚かの写真を私に見せ、大きなバックパックの中を漁った。最小限の荷物がぽんぽんと乱雑に放り投げられ、絨毯が敷かれた床に落ちていく。
 砂漠の向こうにぽっかりと浮かぶ満月が砂の波に青白い光を落としている。砂漠の夜は吐き出す息も凍る。太陽が照り付ける昼日中には砂の狭間を泳ぐように進むキャラバンやラクダも、今ばかりは朝日が昇るまで眠っているだろう。

「ほら」
「……何これ」
「塩」
「ええ」
「不満があるなら返せ」
「嘘だってば。ありがとう、大事にする」

 ジャミルからもらったガラスの小瓶には鉱石のような岩塩が入っている。ランプの明かりに照らされ、つるつるとした表面に斑模様が広がっていることに気づいた。雑に折られたような粗い断面もアメジストの原石のように輝いていて綺麗だ。
 ふと、ジャミルの手に握られたもうひとつの小瓶が目に入る。瓶に巻きつけられたリボンは臙脂色と白色のストライプ柄で、誰のために買ったものかすぐにわかった。

「これはあいつに」
「はいはい」
「余計なことは言うなよ」
「言わないよ」

「自分で渡せばいいのに」と言ったら不満げな顔で取りあげられるとわかっている。居た堪れない雰囲気から逃れたかったのか、ジャミルは私の部屋に入ったときと同じようにあたりを見渡し、溜息をついた。

「それで、お前はまたあいつ(、、、)に用意したわけか。それも大量に。……重い女の典型例だな」
「もう買ってないよ。これは今までのぶん。今年からは買わない。処分しようと思って出しただけ」

 私の言い訳を聞くジャミルの顔がどんどん険しくなっていく。引いているのは表情だけでもわかっているから正直に言ってほしい。いつもどストレートに言われるだけに、そうやって気を遣われると私も虚しくなってくる。

「カリムと結婚するのに、前の男への貢ぎ物があったら困るもんな」
「……色々言いたいことあるけど、貢いでないからね」

 私とシルバーの関係を当然のように知っているジャミルはいつもこうだ。追い出さないと朝まで小馬鹿にされるのが目に見えているので「もう寝るから! おやすみ!」と荷物を押し付けて強引に追い出すと、扉が勢いよく閉まった。大して疲れてもいないのに扉の前で脱力する。朝になればジャミルはなんとも思ってなさそうな顔で私に「どうしたんだ?」と聞くだろう。

「え?」

 何度目かも数えていない溜息をつくと、鍵を閉めていたはずの窓が勝手に開いて冷たい風が室内を巡った。壁掛けのカレンダーが捲れ、肩に掛けていたブランケットが空気を孕んで飛ばされる。どこかで砂嵐が起きたのかもしれない。ごうごうと吹く獣の唸りのような強風に思わず顔を隠すが、砂嵐がこの屋敷に接近しているならば窓を閉めないと砂が入り込んでしまう。

「ふむ、なるほど。愛憎ドロッドロの昼ドラ展開か。わしも嫌いではないぞ」

 ひときわ強い風が吹き抜けた。聞き覚えのある声が真横で楽しそうに囁いた。耳の奥の鼓膜ごと震わせるような、舐め取るような得体の知れない声だ。

「っ、」
「人の子よ。怯えずともよい」

 謎の侵入者から距離を取るために一歩前に踏み出した足が床につくことはなく、底が抜けるような錯覚と共に私の視界は暗転した。


 ◇


「起きたようじゃの。まさか一日近く寝るとは思わなんだ。もうじき今日(、、)が終わってしまう」

 目を覚ましたら見知らぬ部屋にいて、しかもそこに他国の王子の付き人がいた。誘拐されたり刺客に刺されたり毒に倒れたりしたことはあれど、こんな経験は今までにない。一体何が起きているのか理解できず呆ける私の前で、十数時間前に私を拉致したらしい張本人──リリア・ヴァンルージュはくすくすと妖しげに笑った。
 状況がまったく飲み込めないなりに目覚めた部屋を見渡してみると、どことなくディアソムニア寮の雰囲気に似た造りの部屋だった。白と黒のブロックチェックの床や暖炉からきらめく黄緑色の炎など、薄暗い雰囲気は熱砂の屋敷とは真逆の趣向ではあるが調度品や装飾品は同じくらい値の張りそうなものばかりだ。
 だというのに、どこか温かみのない暗い空間は冷えた牢獄を思わせる。ワンピース型の寝間着しか身につけていない私には寒すぎた。

「私はなぜここにいるのですか」

 まさか、茨の谷の王族に仕える者が理由もなく一介の護衛を誘拐するはずもない。歴戦の戦士のように老成した瞳をするこの人が無意味な真似をするとは思えなかった。

「まあ、お主が混乱するのもわからんでもない。お主をここに呼び寄せたのは──」

 わざとらしい沈黙が落ちた。冷たさを感じる石壁に沈黙が跳ね返り、私の肌をちくちくと刺している。続きを待っていると、不意にリリア先輩の表情がガラリと変わって無邪気な双眸に捉えられた。

「結婚を急かせば急かすほどはぐらかし、好い人がいるのかと問えば黙り込む。そうかと思えばスマホを眺めて溜息をつく」

 椅子に腰掛けてやれやれと肩を竦めたリリア先輩はまるで父親のような愚痴をこぼしている。どこからどこが私を誘拐した理由に繋がっているのかわからず、とりあえず聞いていると驚くほど綺麗に目が合って息を呑んだ。

「そんなに未練があるのなら会ってこいと送り出せば、悲しそうな顔で『なんでもありません』と言って帰ってきた。なんでもない奴が斯様な表情をするものか」
「あの、一体誰の話を──」
「お主はカリムと結婚するのか」

 予想外の質問の矛先がこちらに向き、言葉を発する前に首を振った。どこでその話を聞かれていたのか見当もつかず、しかしそれを聞いていのかわからなくて口を噤んだ。

「なれば、シルバーに五年もプレゼントを買い続けた理由はなんじゃ」

 心臓がひりつく心地がした。誰にも暴かれないように隠して鍵を閉めたそれに容赦なく触れられ壊されかけている気がして、はくりと動くだけの口が忌々しい。
 どうして知っているのか。どうして見透かそうとするのか。
 人の機微に聡いであろうリリア先輩がそれを解していないはずもないのに、この口から言わせようとする狡さが私をじりじりと追い詰める。少し動くだけで崩れ落ちそうな、見下ろせば荒れ狂う海が真下に控える崖の上に立っている気分だった。

「誕生日だから、ただそれだけで……」

 ただそれだけで。
 元恋人の私にとってはなんでもないその日のために、何年も会っていない彼に理由もなくプレゼントを用意するものか。5月15日は365日のうちのたった一日だ。その日だけに、なんとも思っていない誰かのためにプレゼントを選ぶものか。
 恋心は思い出と一緒に振り払った。私が私らしく生きるために捨てなければと、私を拾ってくれたカリムに報いなければと過去に置き去りにしてきた。カリムに救われたこの命の使い方には相応しいこの人生にたったの一欠片の後悔もない。
 なのに、どうしてこんなに悲しいのだろう。

「あいわかった。お膳立てはしてやろう」
「え? なん、私は帰らないと……!」

 感傷的な気分を味わう暇もない。目まぐるしいとはこのことだ、と冷静に考えている時点でもう頭が回っていなかった。私の手を掴んだリリア先輩はなんの前置きもなく部屋から飛び出すと、「サプライズは大事じゃろう?」と悪戯っぽく笑った。これから何が起こるのかを予想する気力もなく、私はただ「そうですね」と頷くしかない。
 シルバーへの未練はリリア先輩にもバレバレだろう。私たちの関係は以前から勘づかれていたのかもしれないが、今と幼かった昔は違う。大人になっても未練だらけの恋を引きずっている私はよほど鬱陶しく、情けないだろう。

「今日は5月15日。なんの日か、わかっておろう」

 リリア先輩は私を振り仰ぐこともなく続ける。
 5月15日は365日のうちのたった一日だ。私からしてみればなんでもないただの一日だ。

「俺にくれるのか? ……そうか。ありがとう」

 今日がなんだと言うのだ。難しい仕事に精を出すカリムを見守り、これから先も同じように続いていく日々を生きていく。そんな有り触れた一日でしかない。時々いなくなるジャミルの代わりに私が話し相手になって、このまま幸せに生きて。
 生きて?

「そなたらの命はあまりにも短い。今日が人生で一番若い日だとも知らずに朽ちていく」
「……リリア先輩、」
「なあに。収まるところに収まるだけじゃ」

 心配は要らぬ、と自信満々に言って目の前の扉を開けた彼は私を無理やり引き込むと、ご自分は部屋の外に出た。ドアノブに手を伸ばすが触れる前に弾かれて、バチッと弾ける静電気のようなが音が響く。
 懐かしい匂いのするこの部屋にいてはいけない。そんな直感を邪魔するかのように、なんらかの魔法が発動しているらしい扉には指一本触れられない。焦りが冷えた汗になって吹き出しているようだった。どうにかしなければと焦るほど頭が真っ白になり、妖精であるリリア先輩よりも強い魔法を打てるはずがないと諦めかける自分の声が脳裏で響く。息を吸って吐いてを繰り返す度に懐かしくてたまらない気がしてくる。肺の中がこの匂いに満たされて、肺も気道もこのまま焼け焦げてしまうのではないかと思った。
 熱砂の国に戻ったときも同じ匂いがする度に、幼い子どもたちや洗濯物から同じ匂いが漂う度に「そんなはずはない」と思いながら振り返っていた。

「ナマエ……?」

 振り返っても彼はいない。
 納得して、飲み下して、最後には笑って別れた。これがお互いにとっての最善で唯一の道だと思っていたから潔く別れられた。
 二の腕を掴まれ、勢いよく後ろに傾いた私の身体に温かいものが当たる。彼の気配にも足音にも気づかないなんて護衛失格だと思いながら顔を上げると、私よりも背の高い彼がこちらを見下ろしていた。

「ナマエか」

 少し見たくらいでは五年の月日がもたらした変化はわからなかった。けれど、やっぱり何かが違っていて何かが変わっている気がした。

「どうしてここにいる」
「……」
「親父殿が何か言っていたが……まさか連れ去られたのか」

 膝から下がガクガクと震えている。予期せぬ展開についていけていないからか、それとも心のどこかでこうなるとわかっていながら心構えができていなかったからか、要人の護衛役らしく立ち回れない。
 時間が過ぎるごとに喋りづらくなると思うのに口の中が乾いて舌が回らなかった。

「おめでとうって、言いに来た」

 ようやく絞り出た声は中途半端に喉に張り付いているみたいで、シルバーにちゃんと聞こえていたか定かではない。そもそもこんな簡潔な説明で理解できるわけがない。

「……そうか」

 ありがとう、と笑う顔がちっとも変わっていなかった。好きだと告げたときもプレゼントを渡したときも別れたときも、シルバーはいつもこんな風に笑っていた。
 私の胸の上で心音に合わせて僅かに揺れるネックレスに大きな手が伸び、持ち上げられる。襟元が開いた寝間着では隠せない銀のチェーンはシルバーからはずっと丸見えだったのかもしれない。今さら心もとない胸元を見られてもなんとも思わないが、このネックレスだけは見られたくなかった。

「どうして俺が渡したものを」

 悲しそうな声が耳のすぐそばでこぼされた。吐息が耳に触れ、ごく微かなその部分から焼き尽くされそうな錯覚に陥る。私の背中が当たっている胸板に心臓の音が伝わっていそうで恐ろしかった。

「ぐ、っ!」

 動揺し、完全に油断しているシルバーの足を払い除け組み敷くのは簡単だった。ナイトレイブンカレッジにいた頃は何度手合わせしても一度だって勝てなかったのに、こんなにあっさりと見下ろせるなんて思ってもいなかった。私を見上げるオーロラの瞳が、昔よりも随分と短くなった銀の髪が、胸を掻きむしりたくなるほど懐かしい。

「未練がましくてごめん」
「ナマエ、」
「ちゃんと忘れようと思ったよ」

 私には譲れない誇りがある。それはシルバーにだってあって、譲るつもりもないだろう。
 主人への敬愛も献身も、カリムが──あの方が楽しそうに笑ってくれたときの歓びも、痛いほどに覚えている。あの方のためなら死んだっていい。それほどの激情を知っておきながら、同じように守りたいものがあるシルバーに何を求められようか。

「シルバーくんが好きだった」

 二番目に、この世界で二番目に大切だった。
 私はシルバーを選べないし、シルバーも私を選ばない。熱砂の国と茨の谷はあまりにも遠すぎる。

「どうして今さら言うんだ」
「もう会えないから」
「どうして会いに来たんだ」
「リリア先輩が──」
「どうして断らなかったんだ」

 前髪をくしゃりと掻き混ぜたシルバーは目元に手を置き、もう片方の手で私の手を握り締めた。

「カリムと結婚するんだろう」
「しない」
「嘘を言うな」

 石鹸の匂いがした。やわらかい髪の毛からもすべらかな肌からも、素朴でやさしい匂いがする。

「好きだよ」

 なんで、とシルバーが言う。
 色褪せくすんで、思い出の塵埃を被った恋は跡形もなく燃えたら灰になって消えていくだろう。シルバーを忘れたくなくて十代の頃に何度も重ねた唇が震えている。

「お前だけだと思うな」

 怒っているのか責めているのかもわからない声が下から聞こえたかと思えば、腕を引っ張られて呆気なくポジションが逆転した。散々「ナマエは詰めが甘い。最後まで気を抜くな」と言われていたことを思い出し、逆光でよく見えない彼の顔を見上げると指先で唇を撫でられ、額にキスが落ちてきた。額に、瞼に、頬に、やわらかいキスが降る。
 次はきっと唇を食まれる。逃げようともせずに目をつぶると、

「おっと、これはとんでもなくいい感じのシーンで乱入してもうたな。いやあうっかり。スマンスマン」

 あれだけ固く閉ざされていた扉が凄まじい勢いで開き、わははと豪快に笑いながら室内に入ってきたリリア先輩が私たちを見下ろす。シルバーは私を押し倒していて、私はシルバーに押し倒されている。間違っても人に見せられる体勢ではない。

「何かありましたか」
「熱砂の国から迎えが来た。すまんな、誘拐したって連絡するの忘れておったわ。カリムが大騒ぎしておるらしい。いやあうっかり」

 恥ずかしさと困惑で微動だにできない私を他所に二人は当たり前のように会話を続ける。天然なシルバーならともかく、リリア先輩は絶対にわざとだろう。
 てへ、と笑いながら赤い舌をぺろりと出したリリア先輩は「いい加減離してやらんか。可哀想なくらい真っ赤じゃぞ」と告げると、そのまま部屋から出て行かれた。元を辿れば私のほうから押し倒したのだからシルバーは悪くない。それでも一旦我に返ると恥ずかしすぎて顔を見れなかった。
 先に立ち上がった彼は私の手を引いて部屋から出ると、さっき通った廊下を迷いなく突き進んでいく。今日が5月15日の夜だということは、私は一日近く熱砂の国を留守にしていたことになる。お咎めを受けるだけならまだいいものの、主人を放って消えるなど従者として有り得ない話だ。厳罰は免れないだろう。
 テーブルと椅子が置かれているシンプルな部屋に着くと、腕を組んだジャミルが立っていた。彼は私とシルバーを見るなり盛大に溜息をつき、面倒くさそうに後頭部を掻き回した。

「怒りはしない。いつかはこうなると思ってたさ。それに、リリア先輩の仕業なら俺たちにはどうしようもないからな。が、お前にはカリムからの言伝がある」

 心して聞け、と前置きしたジャミルは私だけではなく真剣な表情をしているシルバーも射抜いた。

「移動用の鏡なら何枚でも用意するからシルバーと幸せになれ、だと。言っておくがカリムはお前を手放す気はないぞ。飽くまでお前の主人はカリムであって、所有権もカリムにある。だが、日常の生活まで縛るつもりはない──そういうことだ。二日酔いの上に号泣していて言っていることはしっちゃかめっちゃかだったが」

 ジャミルがこぼした溜息がやけに大きく聞こえる。言葉の真意を噛み砕けないまま見つめ返すと、ジャミルは鬱陶しそうに両目を細めた。

「さっさとくっつけバカップル。言っておくが、勘が鋭い奴らはお前らの関係に気づいてたからな。それをバカみたいにうだうだ悩んで……」
「うそだ」
「ほんとうだ。泣きすぎてもう泣けないくらい好きなら覚悟を決めろ」

 私の目の前に立つと、ジャミルはマジカルペンを振って大小様々な箱が入った紙袋を手元に出現させた。紙袋の中に入っているのはシルバーのために用意した誕生日プレゼントだ。渡したくても渡せなかった私の未練。

「渡すんだろ。五年ぶんのクソデカい感情ぶつけとけ。重すぎて引かれても知らないがな」
「ひどい」
「なんとでも言え。俺は先に帰るがお前も明日の朝までには帰れよ。心配しすぎてカリムが熱を出す」

 紙袋を私に押し付け、早々と出て行ったジャミルは外に待機していたらしいリリア先輩に連れられて本当に帰ってしまった。どうして私を残して帰ってしまったんだろう。これだけお膳立てされたら居心地が悪くて落ち着かなくなる。

「……それはなんだ?」

 不思議そうに首を傾げるシルバーが学生時代の姿と重なった。まさか誰かに祝福されるとは思っていなかったと言わんばかりの表情で驚いてくれた彼をよく覚えている。
 20歳になった彼が、21歳になった彼が、どんな大人になっているかをずっと考えていた。私の知らないところで歳を重ねていく彼がどんな風に笑うようになったのかをずっと考えて、思い出の中だけに答えを見い出していた。
 このプレゼントを渡したらどんな顔でどんな言葉を口にするだろうと考えて、虚しさと一緒に悲しさがせり上がった。

「シルバーくん」

 期限付きの恋でよかった。終わりの見える形でもそばにいられたら幸せだった。でも、そばにいたらそれだけでは足りなくなっていた。
 だから終わらせた。なかなか言うことを聞いてくれない心を無理やり納得させて二人で「今までありがとう」と笑った。卒業するその日に知人以下の関係に成り下がり、彼のことを考えないように生きてきた。

「あのね」
「ああ」

 きっとおめでとうの言葉だけでは足りない。好きだよの一言では伝えられない。私の拙い言葉では、破裂しそうなほどに膨らんだ想いを託せない。
 だからあえて伝えるならば、

「生まれてきてくれてありがとう」

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