君とぎくしゃくしたい


 幼い頃の私は家の前の道路にチョークで魔法陣を描くのが好きだった。書き連ねられた古代文字や記号は神秘的な不気味さを醸し出し、完全な調和と秩序を保ちながらも、術者が呪文を唱えなければその機能を果たすことはない。
 どちらか片方が欠ければ意味を成さないのだ。魔法陣と呪文の両方が揃ってこそ成り立つ不完全さが、言葉だけでは説明できないほど魅力的に思えた。父の書斎にある魔導書を読み漁り、見よう見まねでナイフや塩を使って魔法陣を描いたこともある。
 どうやら私にはその道の才能があったようで、ミドルスクールに入る前には魔法陣を媒介に弱い魔物や魔獣を召喚できるようになった。魔物や魔獣と言ってもまだ子どもだ。火を噴くわけでも、生き物を石にするわけでも、生き血を啜るわけでもない。それでも才能があるのは確かだったらしく、ハイスクールはそこそこに有名な魔法士養成学校に進学し、大学では召喚術を専攻した。
 このまま研究職に進むか教師の道に進むか。その岐路に立たされたとき、流されがちな私はとりあえず卒論だけ出して「資格くらい持っとこうかな」という軽い気持ちで召喚術の教員免許を取った。世の中には二つどころか三つ以上の科目の免許を取るとんでもない天才もいるらしいが、召喚術以外の成績は常に低空飛行だった私には到底無理だった。追加で取れるとしたら、辛うじて古代呪文語くらいだろう。
 そんな折だった。ナイトレイブンカレッジの学園長ことディア・クロウリーに「我が学園で働いてみませんか」と誘われたのは。
 まさに青天の霹靂だった。雷に打たれたような、とはああいう衝撃のことを言うのだろう。
 通っていた大学がなかなかの名門校だったからか、私が学生時代に出した論文が学園長さんの目に留まったのか、はたまた彼の気まぐれだったのかはわからない。二十代の半ばに差し掛かった今でも、私に声をかけてくださった理由はまったく不明である。しかしながら、ナイトレイブンカレッジに就職すればいい給料を貰えるであろうことは確かで、研究職と教職で揺らいでいた天秤は一気に傾いた。
 世の中は金だ。大体のことは金があれば解決できる。どっちにしろ、教授や助教のポストもこの先三十年は空きそうにない。ならばと、私が選ぶ道は実質ひとつしかなかった。

「おばあちゃん、飴ちょうだい」
「おばあちゃん荷物持つよ」
「ばあちゃん、ボタン取れた」

 で。ナイトレイブンカレッジの召喚術の教師として赴任した私の現状はこれだ。
 若い女性の先生がいては生徒たちの劣情を煽るかもしれないので、と魔法具を与えられた私は八十代ほどのおばあちゃん先生に変身して働いている。さすがに教師に対して何か催したりしないでしょう、と反論した私に、横で聞いていたクルーウェル先生は「奴らを侮るなよ」と真顔で宣い、トレイン先生は厳かに頷いた。御二方は生徒たちに対して並々ならぬ信頼を寄せていらっしゃるようだ。魔法具をくださった学園長本人は「歳若い女性をこんな魔法で縛るのは心苦しいですが」とおっしゃっていたが、実際に働いてみればあんなにも憂慮された理由がよくよくわかった。
 この学園には魔法に優れた子たちがたくさんがいて、しかも血の気が多くて感情に左右されやすい子が多い。感情の制御が難しい年齢であるからこそ、魔法が暴発すればどうなるかわからない。女の私が男性に力で敵わないのは明白であるし、他の教師陣のように召喚術以外の魔法が優れているわけでもない。まさに魔獣の檻に放り込まれた羊である。本当に襲われてしまっては元も子もないだろう。
 魔法具もらっといてよかったあ、と思い直したのは赴任して僅か一週間後のことだった。生徒たちのおばあちゃん扱いにはすっかり慣れ、自分の喉から出てくる嗄れた声にも愛着が湧いている。とっつき難いクルーウェル先生も「逞しいな」と褒めてくださったから、私の擬似おばあちゃんごっこは板についているのだろう。

《七時に待ってるよ!》

 受信していたメッセージを確認し、スマートフォンをデスクに置く。彼はいつものレストランで待っているらしい。小テストの採点や生徒からの質問に答えているあいだに日が暮れ、職員室の窓から見える空は茜色に染まっている。凝り固まった身体をほぐすために背伸びすると、背骨がぽきりと鳴って、腕が当たった背もたれが僅かに軋んだ。
 明日は待ちに待った休日だ。他の先生方は早々に帰り、クルーウェル先生とバルガス先生だけは生徒たちの補習に付き合っているのか、彼らのデスクだけ私物が置かれたままになっている。
 最年少の私が先輩を差し置いて先に帰るのはなんとも申し訳ないと思うものの、今夜は友人との約束がある。久々にアルコールを飲める今夜を一週間前から楽しみにしていたのだ、今日くらい自由に楽しんでもいいだろう。



 学園から出て、自宅がある麓の街に降りると休日前夜であるからかバーやダイナーが並ぶ通りは随分と賑わっていた。潮風に乗った喧騒が耳を打つ。
 四方を海に取り囲われている賢者の島は漁業が盛んであるため魚料理を扱う店が多く、数週間前に入ったカフェのフィッシュアンドチップスも絶品だった。友人が勧めてくれる店はどこも美味しい。秘密の仲間が教えてくれる、といつもの調子で言っていたけれど、ナイトレイブンカレッジに通っていた彼にとっては馴染みのある店ばかりなのだろう。
 時刻は六時五〇分。着替えと化粧をしているうちにギリギリの時間になってしまった。久々に本当の姿で外食するからと気合を入れすぎたかもしれない。
 ミニスカートにヒールなんて、学園では絶対にできない格好だ。世の人々が「お洒落に年齢は関係ない」とは言っても、私は一応教師をしているし、おばあちゃんの姿でミニスカートを履いても生徒に引かれる可能性が高い。というか、良くも悪くも素直な彼らは間違いなくドン引きするだろう。さすがにそれはいやだ。相手は子どもだとしても、なけなしの乙女心が泣いてしまう。
 その点、今は好きな服を着て好きにお洒落できる。しかも約束の相手は気心知れた友人なので気を遣う必要もない。美味しいご飯を食べてお酒も飲める。つまり最高。持つべきは優しい友人なのだ。
 食欲を刺激する美味しそうな匂いが漂う通りを抜け、両隣のお店に押し潰されそうになっているレストランの前で立ち止まる。窮屈そうな店構えは美味しいご飯を出してくれるようにはとても見えないが、友人のお勧めはまず間違いない。初めてこのレストランを訪れたときはあまりの美味しさに腰を抜かしたほどだ。
 扉の向こうの階段を下りた先で待っているであろう友人の姿を想像し、思わず笑ってしまう。ミステリアスなあの男は、座っているだけで絵になるのだ。顔が整っている男は本当にずるい。シンプルなシャツとスラックスだけでも、むしろとんでもなくダサいセーターすらもさらっと着こなしてしまうのだろう。
 よくわからない嫉妬を覚えながら階段を下りると、グラスを傾ける姿が目に入った。飲んでいるのはただの水でも、薄暗い店内に佇む彼は素直にかっこいいと思う。けれど、陽気な彼をよく知っている身としてはなんだか寂しく感じる。
 パッと顔を上げた彼と目が合った。途端に表情が柔らかくなり、濃い紫色が細められる。

「Hey,good evening! お疲れかい?」

 Mr.サムとして学園にいるときよりもシンプルな服を着ている彼は片手を上げると、星でも飛び出しそうなウィンクをした。すっかりいつものサムだ。
 向かいの椅子に腰掛けると、彼はグラスをテーブルに置いた。そういう、指を離す間際にグラスについた水滴をなぞる仕草は生徒に見せたこともないだろう。

「ん〜今日もよく頑張りました。待たせてごめんね」
「ノープロブレムさ。オレから誘ったんだ、今日は最高のパーティーにしよう」

 明るく笑ったサムは私にメニュー表を差し出し、「君が今夜食べるものはわかってるよ」といつもの悪戯っぽい笑みを浮かべた。秘密の仲間にまた教えてもらったのだろうか。何食べると思う? と聞くと「パエリア」と即答され、自信満々な回答に笑ってしまう。

「正解?」
「本当、よくわかるよね」
「ニッヒッヒ、そりゃあわかるさ!」

 このオレならね、と両目をより細めたサムは右手を上げてウェイターを呼んだ。学生相手の接客業を生業としているからか、サムはいつだってスマートに振る舞う。
 メニューを指さしながらウェイターに料理を頼む姿はやっぱりかっこいい。サムの横顔は少しだけ幼さが残っていて好きだ。

「またチキンガンボ?」
「イエス! ここのはナイスなテイストだからね」

 年相応とも言えない、少年のような無邪気な笑顔はいつ見てもかわいいと思う。目は大きくて、彼よりも年上の先生方に比べれば表情筋の動かし方も子どもっぽい。化粧を落とせばもっと幼くなるのだろうけれど、完全にプライベートなサムは見たことがない。
 陽気で誰にも壁を作らないように見えて、その実、それとなく線引きはしている。それが彼だった。
 初めて会ったばかりの頃は怪しい人だと思っていたのに、今では友人同士の関係に落ち着いている。良く言えばミステリアスで、悪く言えば肚の底が見えない。一風変わった奇抜なボディペイントや、すべてを覗き込むような深い色を呈す瞳は彼の底知れない雰囲気を助長する。

「仕事のほうはどう? 小鬼ちゃんたちの相手も大変だろ?」

 テーブルに頬杖をついたサムは真っ直ぐ私の目を見つめている。いつ見ても吸い込まれそうな瞳だ。
 なんだってお見通しな彼には何も隠せない。早々に観念した私は溜息をついて水を一口含んだ。何から話そうかな、と私が考えているあいだも、楽しげで陽気な笑みは浮かべられたままだった。

「そうだ、今日は飲み比べなしね」
「どうして?」

 キョトンとした表情を浮かべたサムは細い首を傾げる。本気でわかっていないような表情をされてもなあ、と半分呆れながら見やれば、彼は大袈裟に肩を竦めた。
 私は酒に強いからどんなに飲んでも酔わないし、サムもそこそこ強い。気持ちよく酔い始めたサムが「どっちがより飲めるか勝負しよう」と賭けを持ち出すのがいつもの流れだ。

「いつも負けてるじゃん」
「今日こそは勝つよ! オレも負けっぱなしはイヤだ」
「そのセリフ、前も聞いた気がする」

 まあ結局、いつも流されて勝負してしまうのだけれど。私の予想通り、その夜もサムは私に惨敗してテーブルとお友達になっていた。



「だから言ったじゃん」

 熱を持った褐色の頬を見下ろしながら、私は溜息をつく。私の文句なんて聞こえてすらいないであろうサムは幼い寝顔をさらけ出して眠っている。長身痩躯のこの酔っ払いを自宅のソファで休ませるのは何度目かもわからない。最初は妙に緊張していたこの時間も、今となっては慣れたものだ。
 化粧を落とさずに眠るなんて、シェーンハイト君が知ったら雷が落ちるだろう。実践魔法で化粧を落としてあげることもできるっちゃできるけれど、私はサムの素顔を見れるほど親しくない。

「化粧落とさないとヤバいんだからね」

 女の子泣かせの綺麗な肌を見つめ、また溜息が落ちる。サムなんてガサガサの肌になってしまえばいいのだ。何度か化粧も落とさずに寝落ちしているくせに、綺麗な肌を保てるなんてずるすぎる。購買部には特別なスキンケアグッズでもあるのだろうか。

「落としていいよ」
「……起きてたの?」
「アーイ。かなり楽になったよ、センキュー」

 突然起き上がったサムはソファから足を下ろすと、赤い頬を隠しもせずにへらりと笑った。まだ酔っているらしく、声には張りがない。

「化粧、落として」
「え」
「落とさないとヤバいんだろ?」
「自分でしてよ」
「君のお気に入りの化粧品、割引してあげる」
「言ったからね?」
「イエスイエス」

 消耗品を値引きしてもらえるのなら、化粧を落とすくらいお安い御用だ。魔法石のついたネックレスを握り締め、呪文を唱えると淡い光が漏れてサムの肌を撫でた。目元の化粧やリップが綺麗に落ちた顔は思いのほか生意気そうで、やはり幼い。つり目がちの大きな目がそうさせているのかもしれない。
 なんだか緊張してしまう。二人だけの空間で、サムの素顔を見ている。なんだか気まずくて「かわいい顔してるじゃん」と誤魔化すと、ムッと眉を寄せたサムは手のひらで顔を隠した。

「ストップストップ、そういうのはよしてくれ」
「はいはい、ごめんね」

 確かに「かわいい」と言われても嬉しくないだろう。思わず笑っていると、相変わらず不機嫌そうなサムに腕を掴まれた。

「これでもアプローチしてるつもりだぜ?」

 サムの熱い指が私の頬を撫でた。陽気な笑顔でも悪どい商人らしい表情でもない。初めて聞くような声で、初めて見るような瞳で、私を雁字搦めにする。少しも酔っていないはずなのに心臓が痛くて、そのくせ顔は逸らせなかった。
 体内に残るアルコールが今になって巡っている気がする。身動きひとつ取れない私の唇を這う指の温度に心臓が跳ね上がり、そこでようやく私は動けるようになった。

「酔っ払いが何言ってんの?」
「ニッヒッヒ、それもうそうだ!」
 
 なんとか絞り出した声は惨めなくらいに震えていた。べろんべろんに酔っているサムは気づかなかったかもしれない。いつもの調子で吹き出したサムは私の腕を解放し、赤い顔のままソファに再び倒れ込むと、すぐに穏やかな寝息を立てた。
 人の気も知らないで呑気な男だ。うるさい心臓を無視して、私はシャワーも浴びずに寝室に駆け込んだ。


  ◇


 サムに彼女がいるらしい。噂の出処はもちろん生徒たちだ。曰く、休日の前の夜に二人でデートをしている。曰く、休日に二人で歩いている姿を見た。私は生徒たちの口からその噂が踊り出る度に激しい頭痛を覚えた。
 サムは恋人がいる身で他の女と飲み歩くような男ではない。まして、酔っ払った勢いで他の女の家に転がり込むような男でも。生徒たちが見たというのは、十中八九、実年齢通りの見た目をした私だろう。
 おばあちゃん先生として働いている私に実害はなくても、サムは生徒たちの質問攻めに遭っているようだ。スマートな彼のことだからのらりくらりと躱しているのだろうが、変なことを吹き込むのはやめてほしい。

「キュートな子だろ? 今はアプローチ中なんだ」

 おかしいでしょ。もっと違う言い方があるでしょ。生徒に対してそう答えるサムにたまたま出くわしたときは思わず口を挟みそうになった。何がアプローチだ。酔っ払いのくせに。内心悪態つく私に気づいていたであろうサムは私を横目で見やると、嫌味ったらしくウィンクした。シンプルに腹が立ちそうだった。

「俺といたらボーイフレンドが嫉妬するんじゃないか?」

 何か察しているらしいクルーウェル先生のにやついた顔は大嫌いである。魔法薬学の小テストの採点を手伝う私を後目に、彼はにやにやしている。時刻はすでに八時を回った。この時間帯は生徒は一人も残っていないからと気兼ねなく元の姿に戻った私を見るグレーの瞳は好奇心に満ちている。

「知りません。私をからかってるだけです。サム、酔うと厄介なんですよ」
「酔う? あいつが?」

 私の答えの何が面白かったのか、クルーウェル先生は肩を揺らして笑った。毛皮のコートを身につけていない肩は存外にがっしりしていて、サムよりも厚い。ナイトレイブンカレッジに赴任してきたばかりの頃はよくお世話になっていた面倒見のいい先輩教師はなおも笑い続け、ついに噎せた。
 何が面白いんですか、と小生意気に問えば、これは面白いとばかりに勝気な双眸がより細められる。私を覗き込む瞳は底なしの湖のようだった。

「あいつ、ザルだぞ。かわいい酒でなんて酔わない」

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