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実際、彼は賢く、ときに非情なくらい公平で、感情的になるのが嫌いだったのだと思う。
初めこそ、どこか人間味の薄い、表情の乏しい、そういう澄ました顔が本当に生意気で腹立たしいやつだと思っていたけれど、クレスツェンツが接していく内に彼は確かに変わっていった。冷たかった彼の表情は、温かい本当の穏やかさを手にしていった。
もしかして、
彼を変えているのはわたしだろうか。
わたしを目指して、彼は変わろうとしているのではないだろうか。
そんなことを思いつき、クレスツェンツはアヒムに訊いてみたことがある。わたくしを見倣っているんだろうと、半ば冗談で。
『そうですよ』
いけませんか。と、顔を赤くしながら彼が真面目に怒るものだから、クレスツェンツはびっくりした。
ぽっと、心に恋の火が灯ったのも、そのときだろうと思う。
「アヒム……」
クレスツェンツは彼の傍にそっと膝をついた。
不思議なものだ。何もかもが灰になり、まるでここは死者の国なのに。
森をそよがす乾いた風が吹くと、黒い髪がさらさらと揺れる。
現実から切り取られたように、アヒムはきれいな姿のままで横たわっていた。
すぐ傍には膨大な瓦礫があるというのに、夏の陽射しは厳しく、疫病で死ぬ者たちの身体を容赦なく腐らせていくというのに。
ついさっき昼寝を始めた……そんな静かな表情で、彼は永遠に目を閉じている。
彼の眠りが永久だと示すのは、彼の上半身を抱くように土に広がり染みこんだ血の跡だった。新しくはない。すっかり黒く錆びていた。
「アヒム?」
それでも彼の命がすでにないとは信じられず、クレスツェンツは手を伸ばす。誰にも止められない。彼女の指は、冷たい死者の頬をひたりと撫でた。
「どうして、」
何を、誰に問いたかったのか、クレスツェンツ自身にも分からなかった。
彼女の手に転がり込んできたのは、間に合わなかった≠ニいう事実。
何かが音を立てて崩れる。クレスツェンツの中で、この世界を作っていた大切なものが割れて暗闇の中へ落ちてゆく。追いかけることの出来ない暗闇の中へ。
黒い法衣に包まれた肩を、大好きだった黒髪を撫で、すっかり強張ったアヒムの頬をさする。
何をしても彼は目を覚まさない。ようやくそれを思い知ったクレスツェンツは、親友の胸に縋りついて哭いた。
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