dear dear

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 身を乗り出し、睫毛が触れ合うのを感じながら、クレスツェンツはアヒムの唇に自分のそれをそっと押しつけた。
 彼が目を覚ましたらどうしよう、という、期待と不安が一気に押し寄せる。長い長い一瞬だった。
 目を覚ましたら、アヒムは狼狽えるだけだろうか。何か言ってくれるだろうか。例えば、「行かないで」とか。
 いや、あり得ない。彼はクレスツェンツの友人≠セから、友人≠ニしてクレスツェンツを宥め、残酷なほど優しく背中を押すだけだ。「あなたは王妃になって、やりたいことがあるんでしょう?」と。
 そう言われたら、「うん」と頷くしかない。アヒムが素晴らしいと言ってくれた着想を実現するためにも。
 口づけたときと同じくらいの秘(ひそ)やかさで、クレスツェンツは身体を起こした。すーすーと規則正しい寝息が続くのは憎たらしくもあり、何も知らずに眠る友人が愛しくもあり。
 最後のわがままは、この口づけひとつで充分だと思うことにしよう。叶えられなかったわがままの代わりにしばしの別れを告げる短い手紙をアヒムの枕元に置いて、もう一度彼の前髪を撫でた。
 政治家になる。ただの国母ではない、人々のために権力を振るい働く政治家になる。
 クレスツェンツはまだ言葉になりきらないつたない夢を心の中で呟き、手紙の上に両の手のひらを重ねた。
 教会の慈善事業である施療院の活動を、王家の事業、そして民の事業へと変える。人々が自然と扶け合う仕組みを作る、その根拠となる法を、作る。
 ただの公爵家の姫君ではなく、ひとつの決意を持った人間として玉座の隣に座ることが出来るのは、間違いなくアヒムのおかげ――いや、アヒムのせいだ。
 一心不乱に知識を得ようと、それこそ、クレスツェンツの行動を認めながらも彼女をおいてどんどん先へ進んでしまうこの友人と肩を並べたくて、クレスツェンツは目を覚ましたのだ。
 王の行幸が済んだあと、彼女は考えた。アヒムやオーラフが胸に秘めていた理想を形にするにはどうしたらいいだろうか。あるいはもっとよい形で叶えることは出来ないだろうか。
 結果、クレスツェンツが思いついたのは「施療院が教会の懐から飛び出すこと」だった。教会を牛耳る大門閥、グラウン家に名を連ねる友人たちには思いもつかないことだったようだ。

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