dear dear

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 誰かの子である前に、彼はこの国の世継ぎだ。クレスツェンツが母親として甘やかしてあげられる存在ではなかったし、一緒に過ごせた時間も決して多くなかった。
 それなのに、彼はクレスツェンツのことをよく知っていた。好きな色、花、息子である自分が何をしたら母は喜ぶのか。
「ティアナはお母さまとお話し出来たと思う? カミル」
 朝食を終えたところだったらしい。クヴェンは食後のお茶を差し出してきた侍従を見上げて訊ねた。
 夫と同じ、淡い金色のさらさらした髪が肩につくほど伸びている。そろそろ切るか結ぶかさせなくてはいけないなと思いながら、クレスツェンツは息子の傍に立って彼を見下ろした。
 病が急激に悪化したひと月前から、クヴェンに会うことは出来なかった。
 ひと月。本当に短い時間なのに、息子は会う度に大人びていく。いつも驚かされていたものだ。そして今日も。
 けれどもまだまだ子供だった。息子の口の端にミルクかヨーグルトの白い雫がついていた。本人は気がついていないらしい。
 クレスツェンツはそれをぬぐってやろうと屈み込んで手を伸ばしたが、彼女の指は息子の肌の奥へすっと消えていってしまう。
「きっとお花を王妃さまにお渡しして、殿下のお見舞いのお言葉を伝えておりますよ」
 クレスツェンツの反対側に立っていたカミルが、微笑みながらクヴェンの口許をナプキンでぬぐった。クヴェンは恥ずかしそうにしながら侍従を仰いでお礼を言う。
 クレスツェンツはやり場のなくなった手を引っ込め苦笑した。
「ヴィンフリーデ先生の授業が始まるまで、音楽室に行きたいな」
「クラヴィアのお稽古ですか?」
「お母さまが僕の弾く『テルテスの夕べ』を聴きたいっておっしゃっていたんだ。少しご病気がよくなられたら、弾きに行って差し上げたいんだもん。練習して、いつでも完璧に弾けるようにしておかなくちゃ」
「かしこまりました。では、一時間ほどなら」
「うん!」
 時計を確認したカミルが笑うと、クヴェンは屈託のない瞳を輝かせて嬉しそうに頷く。
 クレスツェンツは、そんな息子を見上げながらテーブルの上に置かれた小さな手に自分の手を重ねた。
 何も感じなかった。瑞々しい肌の感触も、その下にあるはずの息子の血潮の気配も、何も。

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