dear dear

10

 その震えに気づかれる前に、彼女はさっとテーブルの下へ手を隠した。
「申し訳ありません。つい、感情的になってしまって……」
 声まで震えそうになったが、それはどうにか抑えて笑みを作った。しかし夫がこちらの様子を探るように見つめてくるので、たまらず顔を伏せて立ち上がる。
「食事の前に、少し、頭を冷やしてくる時間をください」
「……ああ」
 上手く笑えていなかったらしい。よっぽどクレスツェンツの顔が不機嫌そうに見えたのか、夫は席を離れる彼女を止めない。ほっとする。
 部屋の隅に控えていたエリュゼが扉を開き、部屋を出るクレスツェンツのあとについてきた。
 そして廊下に出るなり壁に手をついて立ち止まった主を支えるためエリュゼが手を差し出してきたが、クレスツェンツは首を振ってその手を押し戻した。
「大丈夫」
 ただ、ちょっとだけ目眩がする。椅子から落ちるようなことにならなくてよかったと、思わず笑いがこぼれてしまうほどの余裕はあった。このごろ貧血ぎみなのか、こうして頭がくらくらすることがよくあったせいだ。
 しかし今日はそれが収まらないうちに鳩尾(みぞおち)の痛みと猛烈な吐き気が襲ってくる。
 廊下にずらりと並んで灯された火もやけに眩しい。目の奥がチカチカする。
 王妃の異変に気づいた近衛兵が心配そうに傍へ寄ってくる。
 どうなさいましたか。その言葉がわぁんと尾を引いて響くのが不快だった。
 エリュゼが彼に人を呼んでくれと懇願した。けれどそれは困る。
 こんなに見苦しい姿は出来るだけ見られたくない。手当を受けるにしても、せめて近くの部屋へ隠れさせてもらわないと……。
 自分で一歩踏み出したのか、単によろけたのかは分からなかった。脚を動かしたとたんに膝から力が抜け、エリュゼに支えられながらクレスツェンツはその場にへたりこんだ。
「王妃さま……?」
 慌てないで、大丈夫だから。
 そう言いたくて唇を薄く開いたとたん、吐き気を堪えきれずにクレスツェンツは嘔吐いた。
 胃からせり上がってきたのは鉄錆の臭い。喉を灼く胃酸の苦みのあとに、どこか甘く、粘りけのあるものを吐き出す。

- 104 -

PREV LIST NEXT

[しおりをはさむ]


[HOME ]