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「あの娘ひとりにこだわるのが、そなたらしくないのだと言っている」
銀器を手に取る夫を見つめ、クレスツェンツは悲しげに眉根を寄せた。
確かにこだわっている。ユニカに、アヒムの娘である彼女に。
しかしユニカにこだわっているのは夫も同じではないか。
制止を無視してビーレ領邦へ向かったクレスツェンツを、夫は許してくれた。いや、夫としてではなく王として、民の救済に尽力した王妃を許したといったほうが正しいか。
あのときクレスツェンツがとった勝手な行動が、ユニカを連れ帰ったことも含めて、ふたりの間の空気を少しだけぎこちなくしているのは間違いなかった。
クレスツェンツがユニカに肩入れし、我が子のように扱おうとすることを夫は快く受け入れられていないし、クレスツェンツもまた、夫がユニカと交わした約束を理解してあげられない。
どうやらユニカの癒やしの血は、本物であるらしいのだ。
五年前。誰にも、クレスツェンツにさえ勘付かせずに体調不良を隠し続けていた夫は、ユニカの血をもって病を治したという。どこがどう悪かったのか、夫は明かしてくれないままことが済んでしまったから詳しいことは分からない。
以来、ユニカは夫に血を差し出し続けていた。その対価は夫の命。いつか彼が玉座を降りたあとの残りの時間。
ユニカはもういとけない子どもではないのだから、あの疫病が蔓延したのは王ひとりの責任でないと気づいているはずだ。
それでも彼女は生きる意味を復讐に求めて、振り上げた矛を今でも収めようとはしていなかった。
夫のことも、ユニカのことも愛しているがゆえに、二人の約束が悲しかった。代わりの道を示してあげられない自分の無力さも悲しかった。
半ば呆然としていたクレスツェンツの頭に、かしゃん、と冷たく耳障りな音が響く。
「ツェン?」
何が起こったのか分からなかったが、夫に呼びかけられて気づいた。手に取ろうとした銀器を落としたらしい。召使いが駆け寄ってきて落とした銀器を拾い、新しいものを置いていく。
クレスツェンツの指は細かく震えていた。自分でも驚くほど手先が冷えているのが分かる。
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