天槍アネクドート
さいしょの贈りもの(9)
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 宿には広いが華のない素朴な庭園があり、それを囲むように客達が滞在するそれぞれの棟が建てられていた。
 互いの部屋の様子が見えないように上手く配置された木々の間を抜けて庭園の中央に向かうと、そこには古びた噴水がある。
 何か気に入るところがあったのか、召使い達が部屋へ荷物を運び入れている間にふらりと出ていったヘルミーネは、その噴水の縁に腰掛けて揺れる水面を見つめていた。
「こんなところにいたのか。もう日が暮れるよ。中へ入って夕食にしよう」
 テオバルトの呼びかけに、彼女はやはり「はい」と応える。
「あの噴水が気に入ったのかい?」
「いいえ、特に」
「長いことあそこにいたようだが」
「水音が……心地よかったので」
 テオバルトの二言目に、ヘルミーネの二言目が返ってきた。ものすごく久しぶりのことな気がする。
「そういえば……君の故郷はロウレージ河の中洲の街だったね」
 東の海に巨大な河口を開くその大河の下流域には、島のように大きな中洲がいくつかあり、水運で利益をあげた人々が住まう都市を形成している。王都より古い歴史を持つ街もあり、ヘルミーネが生まれ育ったのはその中の一つだ。
 街には水路が走り、馬車よりも小舟の移動が主な脚だと聞く。水路で無数に波打つ水の気配はヘルミーネにとっての子守歌といってもよいのかも知れない。
 彼女がテオバルトの許に嫁いできて三月、婚儀の準備のために家を出てきたのはもうひと月前。ぼんやりしているのは、家が恋しくなってきて上の空だからか。
「……ミンナ」
 いつもならすぐに返ってくる静かな「はい」がなかった。けれどもヘルミーネはテオバルトを見つめてきた。いつもと違う、驚きがはっきりと読み取れる瞳で。
 愛称で呼ばれた彼女は少ししてようやく返事をせねばと思い出したらしく、か細くかすれた声で応じた。
 そんなにびっくりされると、結構恥ずかしい。
「うんと、今さらだがミンナ≠ナもいいだろうか」
「――旦那様のお好きなように」
「じゃあ、そうしよう」

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