天槍のユニカ



冬は去る(2)

 若い僧侶の姿が消えたことを確かめるユニカの傍らへ、腰を上げたパウルが静かに歩み寄った。
「ユニカ様」
 彼の手が、膝の上で重ねられていたユニカの手を覆う。白い手の甲に並ぶ紫色の小さな痣を――ユニカが自らつけてしまった傷の跡を、パウルは悲しそうに、そして労るようにさすった。
 けれど、多くの人の心に寄り添ってきた老僧にも、ユニカへかけるべき言葉が浮かんでこないようだった。ユニカもまたパウルの呼ぶ声には応えようとせず、エリーアスがいなくなった空間をぼんやりと見ていた。
「戻ろう」
 窓の向こうのそのまた向こうの窓には、この部屋に溢れた悲しい記憶を知らぬ人々が溌剌とした顔で動き回っている。ユニカが拒んだその世界を見やりながらディルクは立ち上がった。
 どうにも不愉快だった。
 ユニカは、聞く者を傷つけるためにこの話をしたのだ。そのために自分の傷をえぐって見せるような真似をした。
 エリーアスが出て行くのも無理はない。パウルが言葉を失うのだって。
 そういうやり方は、いくらなんでもむごすぎるのではないか。話す者にとっても、聞く者にとっても。
「猊下、お話もすんでいないところ恐縮ですが、ユニカは連れて帰ります」
 ディルクが黙って頷くパウルを支えて元の席へ座らせてやった時、エリーアスが乱暴に閉ざしていった扉が遠慮がちに叩かれた。現れたのはコーディアルを取りに行ったヘルツォーク子爵である。
「何かあったのですか。そこでエリーアスとすれ違いましたが」
 王にも認められている才女がいささか困惑した様子でディルクに問う。ちらりとユニカの方を伺った視線がもう一度ディルクの方へ戻ると、彼は苦笑を浮かべた。
「女子爵、せっかく用意していただいたのですが、それはパウル導主に差し上げてください。ユニカはやはり具合が悪いようなのでエルツェ家の屋敷へ連れ帰ろうと思います。話の続きは、また後日に」
「……さようですか。それは残念です」
 医官である彼女が「診ようか」とも言ってこないのは、ディルクの言葉の中から食い下がることを許さないという言外の声を聞き取ったためだろう。女子爵は恭しく腰を折って扉を開け、ユニカを引き留めない意思を示した。

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