家名(10)
思えばまともに口をきいたのは今が初めて。婚姻の提案を知らないのだとしたら、クリスティアンにはエリュゼに呼び止められる理由がまったくない。
彼の表情はそういう表情だ。確かめるまでもなかった。
余計なことをしてしまったと焦る一方、そのきょとんとした様子に腹が立ってきた。
自分が爵位を奪おうとしている相手の顔を知らないなんて。
それも、クリスティアンに王国で名乗れる家名が必要なのは、彼が公国での地位を棄ててでも王太子に仕えたいと強く願ったからだと聞いた。
どうして、そんな身勝手なことを言う男に爵位が与えられて、主君の願いとその形見を守ろうとしているエリュゼからは奪われるのだ。
そもそも、臣下としての役目を果たせとエリュゼに言ったのはディルクだった。だからエリュゼのことを認めない者達が集まる小議会にも出席して、ユニカの身分を証すのを手伝った。
そしてユニカの存在が公に認められた今こそ、貴族の名による後見が必要だ。
ユニカが施療院に関わってくれるかどうかも、これまで貴族の役目から逃げてきたエリュゼがどんな姿勢を見せられるかにかかっている、多分。
なのに王太子の友人だとか乳兄弟だとかいうだけで、この男はエリュゼのたった一つの力を簡単に持ち去ってしまえる。しかもエリュゼの夫になることで。
「公国での地位を棄て、王家にお仕えすることになさったのだとか。ユニカ様の騎士になられるのだと聞いております。どうぞよろしくお願いいたします。ユニカ様のお身の周りは未だ不穏でございますので」
「……ええ、もちろん。力を尽くします。どうやらディルク様の大切な方のようですし……という話は、伯爵もご存知ですか?」
「先ほど初めて聞きました。お妃に望まれていると」
自分が婚約を迫られているという話と一緒に聞いたので、もはやどう驚いてよいのか分からない。
むしろ自分とクリスティアンを妻合わせようというディルクの企みの一因はその話にもあるのだろう。彼はユニカの敵を排除しながらシヴィロ王国での基盤を着々と固めていくつもりなのだ。
そしてエリュゼ≠ェディルクとユニカの両方に仕えるのでは足らない。けれどクリスティアンならよいというわけだ。
「テナ侯爵は、」
エリュゼの目がすっかり穏やかではなくなっていることに気がついたらしい。クリスティアンがゆっくりとこちらに向き直る。
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