家名(9)
しかし向こうからやって来る声の主は更に足音を忍ばせているようだった。
声色こそ気遣わしげだったが、ようやく灯りが届き顔が見えるところまでやってきた彼が、胡乱げにエリュゼの様子を窺っているのが分かった。
ところが緊張感を滲ませたその表情は瞬時に解けた。
「プラネルト伯爵」
呼ばれて、ようやく顔を背けることを思いつく。
そうとは気づかれないように涙をぬぐい、エリュゼは歩み寄ってきた相手――クリスティアンを見上げた。
よりによって悩みの種である当人と出くわすなんて。
内心眉を顰めながらも、エリュゼはそれを顔に出さないよう努める。
「席を外れていらしてもよろしいのですか」
「ええ、同胞たちに公爵からいただいた葡萄酒を届けてきただけですので。伯爵はこちらで何を?」
「……少し、控えの間で休ませていただこうと。酔ってしまったので」
「そうですか。お一人で歩けますか。お送りしましょうか」
「結構ですわ」
しかし面白くないという気持ちは抑えようがなかった。つい棘のある語調になってしまい、手を差し出してきたクリスティアンから慌てて視線を逸らす。
彼は少しだけ不思議そうに目を瞬かせたが、気を悪くした様子もなく静かに手を引いた。
「では、足許にお気をつけて」
そして上級貴族らしい優雅さで会釈をし、また足音を殺してエリュゼの横を通り過ぎる。
この関心のなさ……彼はディルクからエリュゼとの婚姻の提案を聞いていないのだろうか。
「テナ侯爵」
ふと浮かんだ疑問に突き動かされるまま、エリュゼはクリスティアンを呼び止めていた。
「はい」
すると当然、呼ばれた相手は立ち止まる。陰っていても肩越しに見える彼の表情には疑問しかないのが分かる。
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