家名(8)
だからさっき、テナ侯爵を夫に迎えよとディルクに言われた時、エリュゼは迷わず頷くべきだった。そこに私情を挟んではいけない。
けれど、エリュゼが守りたいものは果たして私情だろうか?
亡き王妃が今際の際に遺した命――ユニカの後見となり、貴族社会においてユニカを守れというあの遺命は、簡単に譲り渡してよいものだろうか?
シヴィロ王国の貴族の中にはユニカを積極的に守ろうとしてくれる男がいない。だから年が明けてからの宴に出る度、エルツェ公爵が連れてくる夫候補を冷たくあしらい続けてきた。
どの男も、エルツェ家の枝葉であるプラネルト伯爵家を継ぐに相応しい血筋や地位を持っていることは分かった。
しかしどの男にもエリュゼの思いを継いでくれる気配はなかった。みな王家を祖(おや)とする爵位にばかり関心があって、それとなくユニカの話題を持ち出してみても、返ってくるのは否定的な言葉ばかり。
結婚して夫に爵位を譲り渡せば、エリュゼ自身が政治的な面からユニカを庇うことが出来なくなる。
ならば、エリュゼが守りたい王妃の遺命を理解し、ユニカを守ってくれる男と結婚しなければ。
だけどこうも思う。
自分が男だったら。力のある貴族の娘を選び娶って、自らの意志で王妃の遺命を守り続けることができたはずだ。
少なくとも、王太子にとってプラネルト伯爵家の名が友人のために都合のよいものには見えなかっただろう。
「家名に相応しくあれ」というカイの言葉の意味は分かる。エリュゼは宗家と王家に忠実でいればいい。主家にとって何一つ不利のない話は迷わず受け入れるべきなのだ。
でも、分かっていても「もしも」を考えずにはいられなかった。
男に生まれていれば、女でなければ。肯く以外のことが出来たかも知れないのに、と。
「灯りがどうかなさいましたか」
涙でぼやける蜜蝋の灯を見つめていたエリュゼは、静かな廊下を歩いてくる人の気配に気づくことが出来なかった。
突然響いた低い声に驚き、彼女は小さく悲鳴を上げて後退った。
「申し訳ありません。……お一人で柱を睨んでいらっしゃるので、つい」
廊下に敷かれた柔らかな絨毯は足音を吸い取っている。ぼーっとしていたら気づけないのも無理はない。
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