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空の器(4)
ユニカがハンカチを受け取らないでいると、エリーアスはますます不愉快そうに――怒りと気まずさに眉間の皺を深くして、仮面のように感情が浮き出てこないユニカの口許を、香木の香りがするそれで乱暴にふいた。
それで分かった。
――口紅。
思わずエリーアスから身を引いてしまう。彼の手つきが、家族を労るような、わざとぶっきらぼうにした優しい手つきでも。
閃光が走るように脳裏によみがえる唇の感触。
洞察力に優れたエリーアスが何も気づかぬはずがない。そう思うとわき上がってきた羞恥で悲鳴を上げてしまいそうだった。叫び出すより先に身体は動き、ユニカは弾かれたように立ち上がっていた。
「王太子に、」
しかし腕を掴まれ、その場から逃げることは出来なかった。
「言い寄られてるのか」
「違うわ」
間髪容れずに否定したが――そして嘘だったが、エリーアスが見抜くまでもなく嘘になりきらない。ユニカの腕を掴む彼の手にはぎゅっと力がこもった。
「いつからだ? こんなことが何度もあるのか? 王は知ってるのか?」
エリーアスの声にこもる憤りと焦燥と不安が、さっき起こったことを現実にしていく。ユニカは振り返れなかった。恥ずかしくて、悲しくて。肉親にも等しいエリーアスに見られてしまったことがあまりにもいたたまれない。
「違うったら」
「何が違うんだよ」
声は静かだったが、エリーアスの手にこもる力は、まるでユニカが認めるまで離さないとでもいうかのようだった。
しかしユニカがなおも沈黙を守ったので、彼はゆっくりとその指を解いた。代わりに、背を向けたユニカに向かって淡々と告げる。
「一国の王太子がすることじゃない。王に抗議する」
「――やめて!」
ようやくユニカが振り返ると、迎えたのは幼い頃から慣れ親しんだ濃緑の瞳だった。死んだ養父と同じ色の、けれど理性よりも感情に素直なエリーアスの目は、瞋恚に燃えていた。
「……違うと言ってるじゃない。なんでもないの。お願いだから誰にも何も言わないで」
そのまっすぐな視線を前に、うまく取り繕う言葉は浮かぼうはずがない。駄々をこねる子供の方がまだ上手にやる。少なくとも嘘に聞こえる嘘をつく。
今のユニカには無理だった。早く逃げたい、何もなかったことにしたいと、それだけで頭がいっぱいで。
「……俺は、お前が王族の慰み相手にされてまで城にいることを認めたり出来ない」
一瞬、頭が真っ白になった。
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