天槍のユニカ



空の器(3)

 この二年あまり、ディルクがトルイユとあの女に対して燃やし続けた衝動。
 自ら眠ることで圧し殺してきたものだけに、今久し振りに味わうそれは御しがたいものだろう。
「んじゃ、あっち」
 ふらりと歩く方向を変えるルウェルに、ディルクは大人しく従った。そして、今の自分にはどこへ向かう宛もなかったことに気づいた。周囲の視線にさらされていることも思い出した。
 ここはシヴィロ王国で、自分はもうウゼロ公国の異分子ではなくて、体面を気にかけねばならない王太子であることも思い出して、うんざりする。
 取り繕えずに強ばった頬を隠すように足許を見、なおも突き上がってくる憎悪を忘れようと努めたが、今は無駄だと自分でも知っていた。
 何度儀礼的な笑みを浮かべて挨拶を交わそうとも、憎しみがほどけることはない。向こうもそれを分かった上で、養父の遺骸を捜すなどとぬかすからなおさら。
 殺してやりたい。
 佩剣する席でなくてよかった。
 つくづくそう感じるほどに。
 ユニカの香りに混じった男のにおいが鼻の奥によみがえり、ディルクは伏せて隠した眉間にいっそう深く皺を寄せた。
 今となっては、ユニカに似合うと思って差し出した薔薇のことさえ憎たらしい。


 ディルクとその騎士が立ち去っても、ユニカはエリーアスの腕にしがみついたまま離れなかった。
 しばらくはエリーアスにもディルクと追おうという気配があったが、それも油をなくしたランプの火のように小さくなって消えていった。
 香木の香りが染み着いた黒い法衣の袖を握り、ユニカは激しく昂ぶった気持ちが収まるのを待っていた。やがて走っていた鼓動も収まっていくと、代わりに染みのような悲しみが、混乱して熱くなっていた胸に氷雨の冷たさで滲んできた。
 足許に散らばった花瓶の破片と、薄紅色の薔薇の花びら。
 ユニカが渡されたのと同じ薔薇らしい。テーブルの上に置き去りにされた花びらと一緒の色をしている。
「大丈夫か」
 ユニカの困惑と混乱が遅れて恐怖に変わってきたことを知っているように、エリーアスは彼女の頬を撫でてきた。泣いていると思ったのだろうか。その手は何かをぬぐうような仕草をする。
「大丈夫よ……」
 情けない声に説得力などなかった。エリーアスはうつむくユニカの顔を上げさせ、目許を歪めて気まずそうに視線を逸らした。しかしほんの少しの時間何かをためらい、やがて法衣の懐からハンカチを出して、拭いた方がいい、と呟く。
 はじめはなぜか分からなかった。涙も出ていないのに。逆に、冷たくなっていく胸に何もかもが吸い込まれていきそうなのに。

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