空の器(1)
第十話 空の器
派手で耳障りな音はディルクの戒めを解いてくれた。
唇が離れた途端にユニカは顔を背け、テーブルの敷物を掴んだまま覆い被さる青年の身体を押し退けようと足掻いた。けれど裾を踏まれているドレスのおかげで思うように脚は動かないし、ディルクの胸を押し返そうとする手はすぐに捕らえられる。
再び冷たくぎらついた瞳が近づいてきたが、やはり逃げられない。せめて目を瞑れば、思いのほか優しい口づけが頬に降ってくる。その感触にユニカが首をすくめたときだった。
ザッと重たい音を立てて天鵞絨(ビロード)のカーテンが翻り、薄暗い小部屋に宴の席の眩しい光が差し込んできた。
視界は涙でぼやけていたが、仰け反るようにして光の方を見れば、そこに黒い僧服の人物が立っているのがわかる。
「お前……!」
何が起こったのか、また何が起こるのか理解し切れていないユニカの上からすっとディルクが身を引く。それこそ敵の剣戟をかわすように退いた彼の代わりに、ユニカの視界を別の人影が覆った。
肺の奥にまで入り込んでいたディルクの香りを追い払うように、すうっと香木の香りがユニカを包む。
「何をしてた……!」
がなるエリーアスの背に庇われながら、ユニカは身体を守るようにカウチの上で小さく丸まった。わけも分からず手に掴んでいた敷物を抱きしめ、手の震えを抑え込む。
それでもどうしようもなかった。ひんやりとした空気が首筋や頬にまとわりつき、さっきまでその辺りを侵食していた他者の熱を思い出させる。
今のは何?
考えたくなくても考えてしまう。そしてつい、エリーアスの肩越しに見える彼≠フ様子を確かめてしまう。
その先にあったのは、まるで美しい鉱物のように冷え冷えとした瞳だった。橙色の灯を映し込んだそれは一瞬でユニカから逸らされ、ほの朱く染まる金の髪がディルクの表情を隠してしまう。
「挨拶回りでお忙しいのかと思えば」
淡々とした声はユニカに向けられたものではない。それでもつい震えてしまうほどディルクの声は冷たく、また鬱陶しいものを払うような棘を帯びている。
「はぐらかすな! 何をしていたのかと聞いている!」
「喚かないで頂けませんか。あまり騒ぐと、人が集まりますよ」
エリーアスが息を呑む気配を感じた。
ディルクはそんなエリーアスをつまらなさそうに睥睨し、乱れていた襟元を整えた。
そして、かつんと石床を打つ足音が響く。何事もなかったかのように、邪魔が入ったことを不愉快に思っている気配を滲ませ、彼は立ち去ろうとする。
「おい、待て!」
エリーアスは立ち去る素振りのディルクに掴みかかろうとしたが、ユニカは無意識のうちにそれを止めていた。
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