傷口と鏡の裏(14)
そう訴えれば良いのかもしれないが、こんなところで公女の機嫌を損ねる勇気がなかった。自然と唇を引き結べば、それに気づいたレオノーレはおやおやと目を丸くした。
「あら、そうでしたの? てっきり、こういう歌劇に興味がおありのだと思っていましたわ」
「普通のお芝居なら、見てみたかったかも知れませんが……」
思い切って言ってみると、レオノーレは「ふぅん」と謎の相槌を打ち、扇子の向こうからまじまじとユニカを見つめてくる。
フィドルの音が高らかに響く。バタバタと駆け回る太鼓の安っぽい音。主役たちの密通現場が夫に見つかったらしい。これは大変だ。
盛り上がる伯爵夫人に袖を引かれ、レオノーレは彼女の方へと身体を傾けた。
歌で言い争う役者たちを、ユニカはため息をつきながら見下ろす。そして舞台の脇へ視線を滑らせると、そこには劇に音楽を添える楽団がいた。
耳障りなフィドルの音色だ。ディルクが弾いていたのと同じ楽器だとは思えない。彼の方がうんと上手で、まさに女神の歌声のような音を奏でていた――というのは誉めすぎだろうか。
けれど彼が紡ぎ出していた音は、雪に覆われた温室の中に春の息吹を生み出すような力強さと優しさを確かに含んでいて、また、聴いてみたいなと思う。
「劇はいまいちだけど、音楽には興味がおあり?」
「あ、いえ、下手だな、と……」
ユニカがぼんやりと楽団を見下ろしていたら、レオノーレの顔がまた近くに戻ってくる。身体を右に左に捩って忙しいことだ。
思わず本音が漏れてしまったが、レオノーレもそれに同意する意味で顔を顰めた。
「ほんと。役者も美形だし衣装も悪くない。でも脚本と楽団が最低ね。特にあのフィドルを演奏してる奴。舐めてるのかしら? ディルクがいたら、聴くに耐えなくてとっくに出て行っているところよ」
彼女は芝居を楽しんでいるのかと思いきや、存外評価は厳しい。
「……殿下のフィドルを、聴かせて貰ったことがあります。すごくお上手でした。音楽がお好きなんでしょうね」
思い起こすと恥ずかしい記憶は即座に封印し、ユニカはレオノーレに応えた。なるべく会話を、と努力した結果だが、よりによってディルクの話題で話を繋げてしまうなんて。咄嗟のことで失敗した。
それ以上話が深まらないことを祈りながら、舞台へ視線を戻す。
するとレオノーレはにんまり笑い、とんとユニカの肩を小突いてきた。
「ディルクが、あなたに求婚しているところだと言っていましたわ」
「……!」
ヴェールの向こうで、レオノーレの瞳が光った。ユニカの心の中を探るような目つきだ。
「その話は、お断りしました」
舞台の上はよっぽどの修羅場なのか、音楽も台詞代わりの歌も最高に盛り上がっていた。だから伯爵夫人の耳にユニカの声が届くとは思えなかったが、吐息だけで、代わりに噛んで含めるように言う。
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