天槍のユニカ



ゆきどけの音(1)

第四話 ゆきどけの音


 唇に不思議な温もりが残っている。さ、と何かが瞼を掠めていく感触。淡い金色の睫毛。不思議な青緑の瞳の色。
 一瞬世界を覆っていた美しい色彩が遠ざかっていくのを、ユニカは呆然としながら感じていた。
 ディルクはゆっくりとユニカの横髪を掻き上げ、くすりと笑う。その吐息がまた唇に触れる。それほど間近で、彼が何か囁いている。だというのに、まるで聴覚が抜け落ちたかのように何を言っているのか聞き取れない。
 聞こえるのは、どくどくと不自然に加速し始めた自分の鼓動の音だけ。
「ユニカ様、教会に奉納なさる刺繍は――」
 どうなさいますか、と尻すぼみになりながら訊いてきたのはエリュゼだった。彼女はユニカの様子に気づくと、驚きと不審の入り交じった顔になって閉口した。いったい自分はどんな顔をしていたのだろう。
 ディルクは自然にユニカから離れ、怪訝そうにしているエリュゼを振り返る。
「刺繍?」
「ええ、そちらにある布ですが、この箱に収めてしまおうかと思いまして……ユニカ様? どうかなさいましたか?」
「これだな。ユニカ、どうするんだ? エリュゼが訊いているぞ」
 エリュゼの問いかけは遙か遠くから聞こえたのに、ディルクの甘やかな声音はまるで耳に直接吹き込まれているかのように耳朶をくすぐる。
 刺繍布を引き寄せていたディルクからそれを奪い、ユニカは椅子を蹴倒して立ち上がっていた。手が震えるのを誤魔化すためにぎゅっと刺繍布を胸に抱き込み、彼女は唇を噛み締めたままゆったりと微笑んでいる王太子を見下ろす。
 しかしそれだけだった。何か言いたいはずなのに言葉にならない。いよいようるさい心臓の音。怪訝そうなエリュゼ、侍女たちの視線。いたたまれない。
 じりじりと数歩後退ったユニカは、刺繍布を持ったまま寝室に向かって猛然と逃げた。ばたん! とすべてを拒否するようにドアが閉まる。
 しばらくただ目を瞠っていたエリュゼだが、ディルクがくすりと笑いを漏らしたのに気づいて我に返った。
「殿下……、ユニカ様とどんなお話を」
「随分野暮なことを訊くな?」
 ディルクが回答を拒否している気配を感じ取り、エリュゼはむっと唇を引き結びながら黙る。姿勢を崩し、頬杖をついた世継ぎの背中をじっとりと睨み付けるが、それ以上のことは尋ねられなかった。
 ユニカはよく寝室に“逃げ込む”。腹が立ったときや、悲しいことがあったとき、たいていが顔を見られたくないときである。そしてそういうとき、クレスツェンツかエリーアスが呼びかけない限り、気が済むまで出てこない。エリュゼが扉を叩いても返事すらしてくれないのが常だ。故にエリュゼは、ユニカが引き籠もった理由をいつも知ることが出来なかった。
 今回の場合、王太子がユニカに何か言ったのは間違いないようだが……。
 エリュゼの呵責の視線を感じ取ってか、彼は億劫な様子で腰を上げる。

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