追想の場所(14)
「大丈夫だ。君を傷つけようとする者はここにはいない。怖がらなくていい」
人の吐息が耳に入り込んでくる。そのくすぐったさと熱っぽさにユニカは背筋を粟立たせる。
しかし、相変わらず心臓は激しく脈打っているのに、脳裏にちらついていた光がすっかり消えた。どうしたというのだろう。
ルウェルの呼びかけには答えず、ディルクは少しだけ腕の力を緩める。そして、呆然としながらも彼の胸を押し返そうとするユニカの掌が黒っぽく汚れているのに気がついた。
見たことのある色だった。ディルクはユニカの右手首を掴んで引き寄せ、彼女の手を汚すものを確かめた。
「この傷はなんだ」
薄暗い中でも、ユニカの掌と指に切り傷が走っているのが分かった。刃物を握ったような傷だ。
ユニカは手を引っ込めようとした。が、ディルクはそれ以上の力で手首を掴み放さない。
「騎士が乱暴な真似をしたとは聞いたが……まさか剣を抜いたのか?」
「……放して」
ユニカは悔しげに眉根を寄せ、ディルクを左手で突き飛ばし距離をとろうとした。
「私はいてはいけない者ですもの。何をされても不思議ではありませんわ。それに、殿下だってご存じでしょう。私を追い払いたいなら殺すつもりで来たってそう簡単にはいかないのに、これくらいじゃなんともならないって」
「なんともないのなら、君は伯母上のところへは来ないんじゃないのか?」
どうにかして笑いながら啖呵を切ったのに、ディルクの言葉は簡単にユニカの心を揺さぶって表情すら思い通りにはさせてくれない。
なぜ彼の口からそんな言葉が出たのか分からず、ユニカは涙で腫れた瞼をさらすことも厭わず顔を上げた。
ユニカは人前で王妃と親しい素振りを見せないように注意していた。クレスツェンツがどのように思ってくれていようと、彼女が正式な手続きも経ないまま平民の娘を王城に住まわせているというのは、いかにもまずい。
それについては、王に血を差し出し、王もまたユニカの血を受け取るという関係はいい隠れ蓑になった。少なくとも王妃とユニカの関係は表沙汰にならず、批難は憎い王へ向けられることになったから。
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