母の日2021
エルツェ家の。


 帰宅したヘルミーネは、玄関ホールの真ん中に薄い紫色のハンカチがくしゃくしゃになって落ちているのを見つけた。
 いや、ハンカチではなく花だ。拾い上げて、彼女はその正体を知った。
 立派なアイリスの花である。広いエルツェ家の庭園に植わっているやつで、一番早く花を咲かせていた品種だった。
 アイリスはヘルミーネが好きな花だ。この家に嫁いできてから夫が植えてくれた。ほかにも様々な色のアイリスがこれから順に盛りを迎えていく。
 女中が飾るために摘んできて、花だけここに落ちたのだろうか。
 やわらかく大きな花を両手の上で転がしてみると、どうやら偶然落ちていたわけではなさそうだと思った。花は鋏できれいに剪られていたのである。
 少なくとも故意に剪られた花。ということは、ここに落ちていたのも誰かの故意≠ゥも。
 ヘルミーネは玄関ホールの真ん中からぐるりと周囲を見回した。すると離れに続く廊下の手前にもう一輪。それを拾いに行って廊下の先を見遣れば、また一輪落ちていた。
 あらまぁ、これはわたくしをおびき寄せる餌というわけね。
 ヘルミーネをおびき寄せて何をする気か分からないが、ひとまず彼女は順に花を拾っていく。すると餌のアイリスは離れの扉の前にあるのが最後だった。
「アルフぼっちゃんのいたずらでしょうか」
「さぁ。旦那様かもしれませんよ」
 数にして十のアイリスを拾ってきたヘルミーネはついてきた女中にそれを渡し、離れの扉を開けた。
 この離れはヘルミーネの専用サロンだった。彼女が友人達を招いたり一人でのんびり過ごすための部屋で、例え家族であっても許可なき男子は入ってはいけないということになっている。
 中もアイリスのモチーフに溢れている。壁紙や調度品の彫刻――彼女の夫がそのようにそろえてくれたものの数々。そんなサロンの真ん中のテーブルに、アイリスと同じ紫色のリボンをかけた大きなケーキが置いてあった。リキュールとシロップをたっぷり染みこませたドーム型のケーキで、部屋にはそのよい匂いが満ちている。
 ケーキの脇にはカードも添えてあった。ヘルミーネがそのカードに手を伸ばした時――
「きゃああっ!」
 響き渡った女中の悲鳴に、彼女は振り返った。
「どうしたのです」
「あっ、も、申しわけございません……! こちらに……」
 女中は彼女のすぐ傍にある長椅子の陰を指さしている。反対側からヘルミーネが覗き込むと、まず見えたのは脚が四本。ついで、お互いにもたれかかって眠っている小さな子供が二人。
 花とケーキと寝ている息子達を順に見て、ヘルミーネは二人の企みをなんとなく悟った。
 大方、彼らは母をここへおびき出し、贈りもののケーキに気をとられているところを驚かせようと隠れていたのだろう。
 そしてそれは多分次男の思いつきで、長男は付き合わされたといったところか。
 しかし、ヘルミーネの外出が長引いて帰宅時間が遅くなったので、次男の企みは失敗に終わった。
「二人を起こして、一緒にケーキを食べたければ母の部屋へ入った理由をきちんと説明すること、そう伝えてください」
 未だ母の帰宅に気づいていない息子達の頭をそれぞれひと撫でし、ヘルミーネはケーキの載った皿をしっかりと回収して離れから引きあげた。
 一人で食べるには大きすぎるケーキだ。息子達が少ししょんぼりしながら訪ねてくるのを楽しみにしよう。



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