5.1.314――ウゼロ公国

 正月の夜には、つくられた静けさが要塞を覆う。
 賑わいは別のところに移動していて、せわしなく駆け回る兵士の足音も、興奮した軍馬の嘶く声も聞こえない。自分の足音だけを石の砦に響かせつつ、ディルクはつまらなさそうに歩いていた。
 暦の上では春が始まって数日。乾燥したウゼロ公国の南の地には、恐らくこの冬最後と思われる雪がちらちらと舞っていた。雨が少ないから雪も少ないだけで、ここ数日にはないほど冷え込んでいる。石造りの要塞はいっそう冷たくなり、壁も床も氷のようだ。
 せめて砦にいつもと同じだけの兵や騎士がいれば、この寒々しさも少しは和らいでいただろう。
 けれど今は、新年を祝うためと称して対峙するトルイユの軍とは停戦中だ。十日まではこの協定が効力を発揮する。
 ゆえに、要塞に駐屯している兵の半数は近くの街へ遊びに散っていた。そういう許可が出ているのだ。皆が交代で短い正月の休みを楽しんでいる。今日はディルクも自由を与えられ、明日の正午の交替までは要塞を出てもよいことになっていた。
 戦場の空気に慣れてきたとはいえ、ディルクはまだ十六歳。規律には従うけれども、締め付けられているという感じは否めない。解放されてよいなら解放されたい。
 ということで、一緒に休暇を与えられたルウェルと一緒に、今朝から街へ遊びに出ていた。

 ディルクが戦に出始めたのは一昨年の秋。十五歳の成人の儀式を済ませるなりすぐ、まさに飛ばされる≠ニいう表現がぴったりの形で、このバルタス方面軍に従軍することになった。
 しかし、初めて打って出た戦でルウェルとはぐれ、敵陣の結構深いところまで迷い込み、その日のうちにひと月も動けなくなる大けがを負わされて、都テドッツに送還される。
 捕虜にならなかったのは奇跡だし、生きてルウェルに回収≠オて貰えたのも奇跡だ。けがも治り五体満足でいられるのも奇跡だろう。
 そういう奇跡の数々を生み出したのは、孤立しながらも敵を殺し続けて生き延びたディルクの手柄のおかげらしい。
 けれどもその時の記憶がほとんどないし、敵を討ち取った証拠も味方の目撃情報のみだし、辛うじて自陣に戻ったディルクは傷の手当てを受けてから十日も意識を失ったまま生死の境をさまよっていた。
 論功行賞が行われる頃にはハンネローレ城の中にある屋敷で寝ていたので、自分の戦果を主張することも出来ず、初戦の功績はしみったれたものだった。
 だから、けがの療養中、しつこく見舞いにやって来る妹姫から逃れるためにも、ちゃんとした戦果をあげるためにも、ディルクはバルタス方面軍に戻ってきた。
 戻ってからの調子はまずまずである。敵の中に迷い込んで帰ってきたのはまったくのまぐれだったわけでもないようで、ディルクの馬上で敵と競り合い斬りすてる技術は他より優れているらしい。
 らしい≠ニつくのには、ルウェルという護衛がディルクの周りをうろちょろし、ディルクが眼前の敵に集中出来るようにしているから、という理由があった。
「俺のおかげじゃん。ディルクの剣術がそこそこ≠ネのもさ」
 今日も街で飲みながらそう言われた。そこそこ≠謔閧セいぶ上だ、と言い返しておいたが、ルウェルの自負するところは真実だろう。
 ルウェルが露払いをしてくれるからディルクは目の前の敵を倒せるし、子供の頃から馬鹿みたいに強く、勝つためなら型などあっさりと破るルウェルを相手に剣の稽古をしてきたから、剣の腕もそこそこより上=Aもとい、型どころではない戦場での斬り合いに対応出来るようになったのだ。
 彼が教えてくれることはいつでも実用的である。窓を出入り口にすることもルウェルに習ったし、金貨か銀貨、あるいは宝石しか見たことのなかったディルクが銅の小銭で買い物を出来るようになったのも、ルウェルのおかげだ。
 酒の味を知った時も、異性との遊び方を教えてもらった時も、最初の実地訓練へ連れて行ってくれたのはルウェルである。


 で、今朝連れだって出掛けたルウェルはといえば、ディルクと共に要塞へ戻っては来なかった。
 酒場に紛れ込んでいた客引き≠フ女を気に入ったので、泊まってくる≠サうだ。
 なしではない、一応。
 明日の正午の交替まで、ディルクもルウェルも自由の身だ。
 比較的安定した軍事拠点は商売の種にもなるので、近隣の街は活気づき、酒場だけでなく女を集めた宿があるのも普通。要塞の中にいるのは男ばかりなので、そういう慰めが必要なのも分からないでもない。
 けれど、数日間の停戦の間にそういう遊びをする勇気が、ディルクにはまだなかった。
 よって、ルウェルにもその女にも誘われたが、一人ですごすごと戻ってきたのだった。
 戻ってきた理由がもう一つあるとすれば、同じく休暇をもらったはずのクリスティアンが一緒に街へ来なかったせいだ。彼も一緒だったら、ディルクも泊まってきたかも知れない。
 いや、一度として商売女に興味を示したことのないクリスティアンが誘いに乗ってくれるとは思えないのだけれど。
 彼や、今日も任務に就いている仲間のことを思うと、息を抜きすぎるのもどうかと思った。
 クリスティアンは一人でゆっくり休むと言っていたが、一日何をしていたのだろう。本当は遊びに行きたかったのでは? そういう心配をして、また、このまま一人で自分の寝床に戻るのもつまらない気がして、ディルクはクリスティアンに土産を買ってきた。
 彼はすでに騎兵の小隊を引き連れて前線へ出る指揮官になっている。ゆえに小部屋とはいえ個室があった。ディルクはその部屋を訪ねてみたが、クリスティアンはいない。
 夕食の時間はとうに済んだはずである。ではどこへいったのだろうか。まさか、実は一人で遊びに行っていて、ルウェルのように泊まってくるのでは。
「ディルク様、戻っていらしたんですか」
 一瞬脳裡に湧き上がった想像は、すぐに現実が掻き消してくれた。クリスティアンに限ってそんなことはあるはずもなく、彼は冷たい廊下の奥から現れた。ディルクは密かにほっとする。
「ああ、今さっき。どこに行ってたんだ?」
「マンジュがむずかって暴れるというので、様子を見に行っていました」
「具合でも悪いのか?」
「理由は分かりませんが、とにかく機嫌が悪くて。りんごをあげて、それからずいぶん長いことブラッシングさせられましたよ。まぁ、彼女には時たまあることです」
 マンジュ≠ニいうのは、クリスティアンの愛馬・マンジュリカのことである。「彼女」と呼ばれる通り、よい年齢の乙女だ。勇敢でよくクリスティアンのいうことを聞くのだが、自分を美人だと知っており、時々人間の女のように駄々をこねて甘える――ようにディルクには見えている。
 マンジュリカがむずかった時にクリスティアンがブラッシングをしてやると、彼女は鼻を伸ばして気持ちよさそうにしつつ、優しい主人のことを横目でじっと見つめる。さながら恋人を見るようなその目を見ていると、ディルクにはどうしても、マンジュリカがわざと機嫌を損ねたふりをしているように思えてしまうのだ。
「なんだ、今日はクリスにもいちゃつく¢且閧ェいたのか」
「いちゃつく?」
 ディルクの視線が自然とぬるくなったので、クリスティアンは首を傾げた。


 ディルクが買ってきたのは、パイ生地で薄い素焼きの器ごと具材を包んで焼いた、このあたりの冬の郷土料理だった。野菜や肉からにじみ出たスープで崩したパイ生地をふやかし、一緒に食べていく。保温性が高いのも冬の料理であるゆえんだ。運んでいても中身がこぼれないのもいい。
 外套にくるんで持ってきた甲斐もあって、ディルクがその料理を広げた時、まだだいぶ温かかった。
 夕食は食べたが、そのあとわがままな姫君を宥めるために身体を動かす羽目になったクリスティアンは、ありがたそうに器を受け取ってくれた。酒と一緒にチーズやサラミばかり口に放り込んでいたディルクも、合わせて買ってきたパンを切って改めて夕食にする。
 平和な晩餐の会場はクリスティアンの部屋だ。
「確かに、娼館へ行く許可も出ていますが……」
 ルウェルが一緒に帰って来なかったわけを話すと、クリスティアンはパイ生地の天井を突き崩しながら深い深い溜息をついた。
「せめて、ディルク様が、一緒で、ない時に、しろ」
 そのまますべてのパイ生地を器の中に崩落させ、もう一度溜息をつく。
 あまり乱暴にすると器が割れてしまう……何せ使い捨ての薄い焼きものだから……ディルクは心配しながらも、クリスティアンの反応を覗うためにぽつりと呟いた。
「俺は、クリスも一緒なら泊まってきてもよかったと思うんだが」
 するとものすごい顔で睨まれた。ああ、だめだ。もう二度と誘ってはいけない。ディルクは確信した。
 が、その怒気はディルクに向けたのではなく、悪しき先達ルウェルに向けたものだったようで、クリスティアンの視線が鋭かったのは束の間。彼はすぐに弟を哀れむような表情になった。
「ディルク様のような若い歳の頃から、女性とのそういう付き合い方に慣れてはいけません」
「……」
「そんな面白くなさそうな顔をしてもだめです。ルウェルが教えたことも知識としては必要……いや、いらぬこともないくらいのものもかも知れませんが、その前に、ディルク様はまだ女性を好きになったこともないでしょう」
 クリスティアンが言う「面白くなさそうな顔」でがじがじとパンを囓っていたディルクだったが、何やら思いがけないことを言われた気がしてぽかんと目を瞠った。
「あー……、言われてみれば、そうかも知れない」
 素直に指摘されたことを認めると、クリスティアンは「やっぱり」とこぼして肩を落とした。
「私もディルク様も、好いた相手と一緒になれるかは分からない身分ですが、そういう気持ちを知らないまま女性を必要とするようになるのはどうでしょうか」
「……」
 どうといわれても、クリスティアンが求めている答えは「だめ」なのだろうが、ディルクには正直分からない。よくはないのだろうか。少なくともクリスティアンはそう思っているようである。
 となると、彼がそう思う理由を知りたくなった。どう問えば求める答えが得られるのか考えてみたが、結局は一番気になったことが口をついて出る。
「……クリスには、そういう相手は?」
 それまでディルクを諭すことで頭がいっぱいだったらしいクリスティアンは、つい今し方のディルクのようにぽかんと目を開いた。
「い、いるのか……?」
 だとしたら、少しさみしい気もした。それを打ち明けてくれていないということもそうだし、ディルクの知らない世界にいるクリスティアンの様子を思い浮かべたりすると。
 ところが、ふと苦笑した彼は手許の器の中を一混ぜする。
「私が今、一番親しく付き合っている異性はマンジュでしょうね」
「……そうか」
 鼻を伸ばしている純白の牝馬の顔を思い浮かべて、ディルクは少し安心した。美人には違いないのでクリスティアンにはお似合いだろう。
 ほっとしたら料理の味が戻ってきたので、ディルクは残りの器の中身をパンにのっけて頬張り、もう少し雑談を楽しんでから自分の部屋に戻ることにした。


 クリスティアンに指摘されたことはなかなか興味深かった。ルウェルが教えてくれることの実用性とはまた違うが、言われてみれば大事なことだ。
 その辺に落ちていて見つけられる感情ではないあたりが難しいが、少なくとも、今後はルウェルに誘われるまま彼流の遊びには付き合わないようにしようと思った。
 そう決意したところで、ディルクはクリスティアンとの会話の途中でふと感じた違和感の正体に、唐突に気がつく。
 クリスティアンは「一番親しい異性がマンジュリカ」と答えただけで、好きな相手が「いない」とは言っていない。
 あれ、どうしてそういう言い方をしたんだろうか。
 ディルクは寒い廊下を振り返る。けれど今更その真意を尋ねに戻るわけにもいかず……噛み切れないものが口に入っているような気分で自分の部屋を目指すしかなかった。


 この晩クリスティアンに矯正された考え方を、ディルクはこの先しばらく守ることになる。
 偶然にも、クリスティアンが言っていたものがその辺に落ちていたからだが――それはまた別のお話。



(1.1.2019)