トリモドスオト
クリスティアンと再会したことを嬉しく思いつつも…なディルクさん。第5章7話と8話の間にあったと思われる一日のことです。
フィドルには、それぞれひときわ大きく共鳴する音がある。その楽器の個性で、自分が動かす弓の手応えとは違ったところから大きな震えが生まれ、肩や頬、指先に痺れるような振動が伝わってくる。
二つのフィドルが並んだ時も同じだった。必ずお互いの楽器が共鳴を起こす音があるのだ。
特にのびのび響くその音を感じると、ともに旋律を奏でる相手が誰であるかを実感できた。
弓を下ろしてもなお、音楽室には音色の余韻が残っていた。遠慮がちに爆ぜながら燃える暖炉の火の音、掻き立てられた静けさ、耳の奥に染みこんでいったフィドルの豊かな唄声。
満足の溜め息を漏らすと、隣でフィドルを構えていたクリスティアンがくすりと笑った。
「随分久しぶりに弾かれたようですが?」
「ああ、まともに弾いたのは年が明ける前だよ。シヴィロに来てからは本当に触れる時間がないんだ。こんなに長い間ろくに弾けないのは俺の人生始まって以来だ」
「お忙しかったのですね」
頷きながら、ディルクはフィドルを膝の上に横たえて左手を振った。このままでは本当に弾けなくなりそうだと思うほど指が動かない。
フィドルは戦に行く時さえ背負っていき、戦地で皆のための余興に弾いていたりもした。それこそ身体の一部のように扱っていたのに。
シヴィロ王国へ来てからの日々は戦地での日々より余裕がなかったのだと、ディルクは今更気づく。
「シヴィロの貴族の御曹司達には、音楽の友人をおつくりにならないのですか」
「一度大学院の音楽科に通っているとかいう者に誘われてサロンに行ってみたんだが、どいつもこいつも、大してうまくもないのに理論や技法の話ばかりだった。時間の無駄だったな」
「ディルク様は弾いて楽しんでこそでしたからね」
珍しく「シヴィロ王国に残りたい」ととんでもない駄々をこねていたクリスティアンは、レオノーレのいらぬ助力もあって駄々を押し通すことに成功し、今日はのこのことその挨拶にやって来た。「わがままを聞き入れてくださってありがとうございます」とはよく言ったものだ。
ディルクはその言葉に対して素直に答えられなかった。
いくらレオノーレやレオノーレに脅迫されたエイルリヒが口添えしてくれるといっても、大公の勘気を被る危険はなくもない。それに、ディルクは最後までクリスティアンのシヴィロ在留に肯かなかった。感謝されるいわれなどないのだ。
そして返す言葉が見つからなかったのは、バルタス戦役ののち会話らしい会話をしていなかったせいもあった。
ディルクは本当に嬉しそうな笑みを浮かべてやって来た幼馴染をしばらく無言で見上げ、結局「フィドルを持ってこい」とだけ言った。
クリスティアンはレオノーレの騎士としてシヴィロ王国へやって来たが、長い逗留の間には様々な人間との交流がある。だからきっと、彼もフィドルを背負って来たはずだと思った。
推測通り、一度ディルクの前から消えた彼は自分のフィドルを持って戻って来た。
そうして、彼らは東の宮の音楽室に向かった。
なぜかついて来たルウェルは暖炉の前に転がしておき(寝てる)、クリスティアンには適当に引っ張りだした二重奏の楽譜を放り投げ、それで、二人で三曲ひたすら弾き終えたところ。
「それにしても、ものすごい数の譜面ですね」
弦を締め直し、ぽろんと一つ弾いて音程を確かめたクリスティアンが音楽室の壁面にぎっしりと詰められた楽譜を眺めてしみじみと言う。
「歴代の王子達のコレクションだそうだ。フィドルの楽譜を集めていらしたのはひいお祖父様らしい。使っていたフィドルも隣の部屋に保管されてる」
「テオドリック陛下ですか。大学院に音楽科を設立されたのも陛下でいらしたとか。そういえば、父はテオドリック陛下からディルク様のお名前をつけたと言っていましたよ。それであんなに熱心にフィドルを教えたのですね」
「ユリウスの趣味でもあったからだろうけど」
ディルクは久しぶりに思う存分演奏できたこと、そして懐かしい音の交わりには満足できたが、まだなんとなく、クリスティアンとどんなふうに話せばよいのか思い出せなかった。
幼い頃からクリスティアンと共に過ごした思い出の上に、バルタス戦役の記憶が覆いかぶさっているせいだ。
ユリウスを――クリスティアンの父を、死戦となることは間違いない後方の守備に向かわせるとディルクが言った時、クリスティアンは一片の迷いも見せず父の前に跪き、共に行って死にたいと言ったのだ。
ユリウスはそれを許さず、結局一人で逝ってしまった。
その時、ディルクは自分が引き裂いたものを思い知った。そしてそのことを受け入れられなかった。
クリスティアンが躊躇なく父親と生死を共にしようとしたことも――ディルクを置いていくのをためらわなかったことも、心のどこかをぎこちなくさせた。家族とともにいたいという気持ちは当たり前のことなのに、自分が選ばれなかったことは悲しかった。
そして、ユリウスに共に死にたいとすがることのできるクリスティアンが羨ましかった。指揮官であったディルクには、大切な養父を行かせないと言うことも、共に死にたいと言うこともできなかったから。あんな状況で、本当の家族である彼らが羨ましかった。
クリスティアンがディルクの思うことを見透かしていて、ディルクのことを恨んでもいなくて、すべて許してくれると分かっていても、そうして理解して受け入れてくれるからこそ、彼の父を死にに行かせたディルクはどの思いもクリスティアンには見せられない。
けれど、これから彼はまた傍にいるという。
戦役のあと、クリスティアンはディルクからテナ家を引き離そうとする大公の命令に従ったのに。ディルクとて、寂しくてもそれがよいと思って沈黙し続けたのに。どうして、急に。
それもルウェルやレオノーレじゃあるまいしと思うような無茶を言いだすのだから、こちらの心の準備が出来ていないことは分かって欲しい。
ディルクが自分から切り出す話を思いつけずにフィドルの弦を弾いていると、クリスティアンはおもむろに立ち上がる。
黙ってその背を見送れば、彼は先ほどディルクが楽譜を引っ張り出したあたりの棚を物色し始め、いくつかの題名を確かめて数冊を持ってきた。
「次はこの辺りを弾きましょう」
「まだ弾くのか?」
「ディルク様が勘を取り戻すまでお付き合いします」
クリスティアンは、「時間はありますから」と言って笑う。
勘≠ゥ。
フィドルの弾き方も友人との接し方も、思い出して慣れるための時間は確かにいくらでもある。
手渡された楽譜を広げながら、ディルクはクリスティアンの笑みにつられるように笑った。
20170922
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クリスティアンと再会したことを嬉しく思いつつも…なディルクさん。第5章7話と8話の間にあったと思われる一日のことです。
フィドルには、それぞれひときわ大きく共鳴する音がある。その楽器の個性で、自分が動かす弓の手応えとは違ったところから大きな震えが生まれ、肩や頬、指先に痺れるような振動が伝わってくる。
二つのフィドルが並んだ時も同じだった。必ずお互いの楽器が共鳴を起こす音があるのだ。
特にのびのび響くその音を感じると、ともに旋律を奏でる相手が誰であるかを実感できた。
弓を下ろしてもなお、音楽室には音色の余韻が残っていた。遠慮がちに爆ぜながら燃える暖炉の火の音、掻き立てられた静けさ、耳の奥に染みこんでいったフィドルの豊かな唄声。
満足の溜め息を漏らすと、隣でフィドルを構えていたクリスティアンがくすりと笑った。
「随分久しぶりに弾かれたようですが?」
「ああ、まともに弾いたのは年が明ける前だよ。シヴィロに来てからは本当に触れる時間がないんだ。こんなに長い間ろくに弾けないのは俺の人生始まって以来だ」
「お忙しかったのですね」
頷きながら、ディルクはフィドルを膝の上に横たえて左手を振った。このままでは本当に弾けなくなりそうだと思うほど指が動かない。
フィドルは戦に行く時さえ背負っていき、戦地で皆のための余興に弾いていたりもした。それこそ身体の一部のように扱っていたのに。
シヴィロ王国へ来てからの日々は戦地での日々より余裕がなかったのだと、ディルクは今更気づく。
「シヴィロの貴族の御曹司達には、音楽の友人をおつくりにならないのですか」
「一度大学院の音楽科に通っているとかいう者に誘われてサロンに行ってみたんだが、どいつもこいつも、大してうまくもないのに理論や技法の話ばかりだった。時間の無駄だったな」
「ディルク様は弾いて楽しんでこそでしたからね」
珍しく「シヴィロ王国に残りたい」ととんでもない駄々をこねていたクリスティアンは、レオノーレのいらぬ助力もあって駄々を押し通すことに成功し、今日はのこのことその挨拶にやって来た。「わがままを聞き入れてくださってありがとうございます」とはよく言ったものだ。
ディルクはその言葉に対して素直に答えられなかった。
いくらレオノーレやレオノーレに脅迫されたエイルリヒが口添えしてくれるといっても、大公の勘気を被る危険はなくもない。それに、ディルクは最後までクリスティアンのシヴィロ在留に肯かなかった。感謝されるいわれなどないのだ。
そして返す言葉が見つからなかったのは、バルタス戦役ののち会話らしい会話をしていなかったせいもあった。
ディルクは本当に嬉しそうな笑みを浮かべてやって来た幼馴染をしばらく無言で見上げ、結局「フィドルを持ってこい」とだけ言った。
クリスティアンはレオノーレの騎士としてシヴィロ王国へやって来たが、長い逗留の間には様々な人間との交流がある。だからきっと、彼もフィドルを背負って来たはずだと思った。
推測通り、一度ディルクの前から消えた彼は自分のフィドルを持って戻って来た。
そうして、彼らは東の宮の音楽室に向かった。
なぜかついて来たルウェルは暖炉の前に転がしておき(寝てる)、クリスティアンには適当に引っ張りだした二重奏の楽譜を放り投げ、それで、二人で三曲ひたすら弾き終えたところ。
「それにしても、ものすごい数の譜面ですね」
弦を締め直し、ぽろんと一つ弾いて音程を確かめたクリスティアンが音楽室の壁面にぎっしりと詰められた楽譜を眺めてしみじみと言う。
「歴代の王子達のコレクションだそうだ。フィドルの楽譜を集めていらしたのはひいお祖父様らしい。使っていたフィドルも隣の部屋に保管されてる」
「テオドリック陛下ですか。大学院に音楽科を設立されたのも陛下でいらしたとか。そういえば、父はテオドリック陛下からディルク様のお名前をつけたと言っていましたよ。それであんなに熱心にフィドルを教えたのですね」
「ユリウスの趣味でもあったからだろうけど」
ディルクは久しぶりに思う存分演奏できたこと、そして懐かしい音の交わりには満足できたが、まだなんとなく、クリスティアンとどんなふうに話せばよいのか思い出せなかった。
幼い頃からクリスティアンと共に過ごした思い出の上に、バルタス戦役の記憶が覆いかぶさっているせいだ。
ユリウスを――クリスティアンの父を、死戦となることは間違いない後方の守備に向かわせるとディルクが言った時、クリスティアンは一片の迷いも見せず父の前に跪き、共に行って死にたいと言ったのだ。
ユリウスはそれを許さず、結局一人で逝ってしまった。
その時、ディルクは自分が引き裂いたものを思い知った。そしてそのことを受け入れられなかった。
クリスティアンが躊躇なく父親と生死を共にしようとしたことも――ディルクを置いていくのをためらわなかったことも、心のどこかをぎこちなくさせた。家族とともにいたいという気持ちは当たり前のことなのに、自分が選ばれなかったことは悲しかった。
そして、ユリウスに共に死にたいとすがることのできるクリスティアンが羨ましかった。指揮官であったディルクには、大切な養父を行かせないと言うことも、共に死にたいと言うこともできなかったから。あんな状況で、本当の家族である彼らが羨ましかった。
クリスティアンがディルクの思うことを見透かしていて、ディルクのことを恨んでもいなくて、すべて許してくれると分かっていても、そうして理解して受け入れてくれるからこそ、彼の父を死にに行かせたディルクはどの思いもクリスティアンには見せられない。
けれど、これから彼はまた傍にいるという。
戦役のあと、クリスティアンはディルクからテナ家を引き離そうとする大公の命令に従ったのに。ディルクとて、寂しくてもそれがよいと思って沈黙し続けたのに。どうして、急に。
それもルウェルやレオノーレじゃあるまいしと思うような無茶を言いだすのだから、こちらの心の準備が出来ていないことは分かって欲しい。
ディルクが自分から切り出す話を思いつけずにフィドルの弦を弾いていると、クリスティアンはおもむろに立ち上がる。
黙ってその背を見送れば、彼は先ほどディルクが楽譜を引っ張り出したあたりの棚を物色し始め、いくつかの題名を確かめて数冊を持ってきた。
「次はこの辺りを弾きましょう」
「まだ弾くのか?」
「ディルク様が勘を取り戻すまでお付き合いします」
クリスティアンは、「時間はありますから」と言って笑う。
勘≠ゥ。
フィドルの弾き方も友人との接し方も、思い出して慣れるための時間は確かにいくらでもある。
手渡された楽譜を広げながら、ディルクはクリスティアンの笑みにつられるように笑った。
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