頭をからっぽにし、息すらも忘れて、ただボールを追いかけた夏はあっけなく終わりを迎えた。一生分を駆ける思いでひた走った。あの瞬間、汗を散らして、太陽に透ける髪を振り乱す謙也さんの背をこのまま眺めていられるのなら、もう他には何もいらないと本気で思ったのだ。

けれど時はいつだって無情に過ぎ行く。夏が過ぎ、秋はいつの間にか終わりを告げ、寒さに震える嫌な季節となった今でも、俺はコートに謙也さんのあの背中を探す。もう彼はいないのに。いるはずがないのに。懲りずに探しては見つからない現実に打ちひしがれ、未練ばかりの自分に呆れ、そうしてまた焦がれる。焦がれ続ける。いつまでもいつまでも。一体どれだけ自分を哀れにすれば俺は諦められるのだろう。いつになったら現実を見るのだろう。きっと、コートに立ち続ける限り、ラケットを握り続ける限り、俺は探す。あのきらきら光る髪を。あの少し見上げた先にある、大輪の花のような笑顔を。あの耳触りのよい声を。


「財前、お前ちょっと休め」


呼び出されて赴けば、唐突にそんなことを言われた。なんで、と訊けば煙草をふかした顧問はやる気のない目で俺をちらりと流し見、白い息を吐く。


「自分が一番わかっとるやろ」

「…全然わからへんです」

「甘えんな」


ぽふりと腹のあたりに緩い拳がとんできた。あてられたその手をじっと見下ろしてから、顔を上げる。どうしようもない大人の代表みたいな人のくせに、正しいことしか言わないのだ、いつでも。ずるいと思った。だから大人は嫌いだ。どれだけ頑張って隠しても、こっちの気持ちなんてまるで気にせず簡単にあばいて、くみ取りあげてしまう。

いらん世話どうも。なんて、可愛いげ皆無の捨て台詞を残して俺は職員室をあとにした。その日の部活は体調不良という理由をつけられて休まされた。次の日も、その次の日も。一週間俺はテニスコートに行かなかった。部長のくせにこんなに休んで、部員たちに示しがつかない。けれど、きっと、みんな気づいていた。俺の違和感に。俺の視線がうんと遠くに注がれていることに。今のチームメイトが見えていない俺は部長失格だ。示しもくそもあったもんじゃない。

こんなことしたところで、俺は変われないのに。先生、俺はこの空いた時間を、どう過ごすことが正解なのですか。あの人を探さないよう心を整理することですか。止まってしまった自分のなかの時計を修理することですか。やらなきゃいけないことは頭ではわかっているんです。自分のすべきことはみんな理解しているんです。だけど、全部、全部、全部俺一人ではどうしようもできないことなので。こんなに苦しいのですよ。

普段はコートにいるはずの時間がぽっかり空いてしまったので、俺はただ部屋にこもっていた。授業が終わるとまっすぐ帰宅して、何をするわけでもなくベッドに転がって天井ばかり見つめていた。そんな日が続いたある日、俺を訪ねてやってきた人がいた。


「腐っとるって聞いたから」


そういって、俺をさんざん苦しめた笑顔をたずさえて謙也さんはやってきた。手にはみかんがごろごろ入ったビニール袋を提げて。「腐るとかけてんすか」と鋭いつっこみを入れると謙也さんはより一層嬉しそうな顔をして、みかんを俺にたくした。

部屋に招き入れると、謙也さんはもの珍しそうにきょろきょろと周囲を観察した。はじめて呼んだわけでもないのに。俺が床に腰を下ろすと謙也さんもならってすとんと座った。


「財前ち、久々やからなつかしいな」

「そうですか」


夏までは結構互いの家を行き来していた。それも夏が過ぎるとぱたりと止んでしまった。謙也さんは受験勉強、俺は部活が忙しくなかなか暇が合わなかった。と、いうのは建前。実のところは、俺は謙也さんと会うことを避けていた。彼らが引退したばかりの頃は、早く忘れようと躍起になっていた。たとえば騒がしいコートの中。たとえば笑いが絶えない部室。たとえば一緒に帰っていた道。全部が一瞬で色を変えた。俺の前から消えてなくなった。さびしいと思うには遅すぎて、受け入れる心の準備をするには手遅れで。それでも、俺は部長を託されてしまったから。彼らが愛したテニス部を任されてしまったから。逃げ出すこともできずに、ただ必死になっていればいつか忘れることができるだろうと。きれいすぎる思い出を心の奥底に押し込んで出てこないようにしたなら現状を受け止めてゆけるだろうと、そう信じてやってきた。

でも。それができるほど自分は大人でもなければ、器用でもなかった。押し殺した本音をかかえたまま、どんよりと重たい感情に浸食されるばかり。元からメンタルの強くない俺はあっさり潰れて今に至るというわけである。なんとも不甲斐ない話だ。


「がんばれとでも、言いにきましたか」



唐突にそうこぼした。顔は上げていられなかったので、うつむいてじっと胡坐をかいた足の先を見続けた。謙也さんは今どんな顔で俺を見ているのだろうか。悲しい顔だろうか。いやだな、そんな顔は見たくないのに。させてしまっているのはほかでもない、自分だけれど。


「説教でも、しに来たんすか」

「財前、俺は、」

「わかってるんですよ。駄目なんも、知ってるんです」


止めなきゃと思っても、止まらなかった。ずっとずっとためていたものが次から次から溢れるようで、口からぼろぼろと言葉が飛び出た。あーあ、せっかく謙也さんから会いにきてくれたんに。こんな愚痴っぽいこと言いたいわけやないのに。


「いつまでも足踏みばっかしとらんと、ちゃんと前に進まなあかんことも。部長やから部員のこともっと考えなあかんことも、ぜんぶわかっとって、けど、」


わかってる。知ってる。けど、でも。


「…無理なんです。つらいんです」

「…」

「忘れたくないんです、先輩らと、謙也さんとおった時間」


甘くてきらきらした、あめだまみたいな大切な記憶。内側にしまいこんだままのそれに手を伸ばそうと、何度心が揺れたか知れない。甘えてはいけないと自制心が働く都度やり場のない寂しさは募るばかり。


「おれは、強くなれへん」


あかん、俺言っとること支離滅裂すぎる。なんて後悔の波がぐるぐる押し寄せて、自己嫌悪。謙也さんごめんなさい。こんな思いを吐露できるのは多分謙也さんだけだ。謙也さんが優しいって知ってるから。見捨てないで、ちゃんとすがる手を掴んでくれるって知ってるから。受け止めてくれるとわかっていて敢えて甘える俺は、ほんとうにずるい子供だ。

謙也さんはうつむく俺の頭をぽんぽんと撫でてきた。何も言わないでしばらく撫でてくるので、俺も何も言わないでされるがままになっている。ほら、やっぱり。謙也さんは俺に甘すぎる。だからこうやってつけこまれる。優しい人はかわいそうだ。

顔を小さくあげると謙也さんは俺の目を真っ直ぐ見ていた。はにかむように頬を緩めて、俺の前髪をさらりとなでる。


「…俺もな、財前と一緒」

「…いっしょ?」

「そう。忘れたいのに忘れられへん。離れたいのに、離れられへん」


俺は少し驚いた。謙也さんがそんなことを思っていたなんて、まさか思ってもみなかったのだ。引退後に練習を見に来てくれたときも、謙也さんはどこか吹っ切れた様子でいた。もう遠い存在だと感じた。俺だけが、取り残されたとしか思っていなかったのだ。

謙也さんはこう続けた。

ボールの跳ねる音にすら反応してしまうから、コートには寄り付かないようになった。放課後も学校に残っていると、今ごろ練習か、とテニス部にばかり気をとられてしまうから、さっさと帰るようになった。

そこに俺の居場所はもうないのに、ついひかれてしまうのだ。と。


「財前の近くで、ラケット振って、ボール追いかけるの、俺にとっちゃ息するんと同じくらい自然なことやったから」

(おんなじ、や)


目を伏せて寂しげにぽつぽつ話す謙也さんについ見入った。俺もです。俺も謙也さんが隣におって、一緒にテニスできることが当たり前すぎて。そんな自然なことがたまらなく好きだったってことに気づいたんは、全てが終わってからやった。

不意に、謙也さんがごろりと転がった。そうして頭を俺の胡坐で組んだ足のところに乗せてきた。いきなりのことにびっくりして反応が遅れた俺は、下を向けばちょうど真正面にある謙也さんの顔をしばらく見呆けていた。俺を仰ぐ謙也さんの顔。長い睫毛が植わった二つの目は一直線に俺を見ている。俺だけを見ている。久しぶりに交わった視線はあの頃と変わらないまま、芯が通っていて底なしに優しくて、あたたかい。


「さびしいなって、思う」

「…俺、も」

「さびしい?」


こくりと一つうなずくと、謙也さんは下から手を伸ばしてきた。俺の頬を指の腹でなぞる。離れていった謙也さんの指先は、なぜだろう、少し濡れている。
不思議に思って自分の頬にそっと触れると、涙が伝っていた。


「…あれ、」

「財前って、ほんま不器用」


ぽたり。苦笑する謙也さんの頬に落ちた俺の涙は、そのままきれいな肌を滑り落ちてゆく。ぽたり、ぽたり。鼻の頭や口の近くに落ちてくる水を謙也さんは嫌がらなかった。拭いもしなかった。だから代わりに俺が指先でひとつひとつそれらをふいた。控え目にたくさん触れるからか、謙也さんは嫌な顔ではなく擽ったそうな顔できゅうっと目を閉じた。


「財前が俺らとの思い出を忘れなあかんって思うんは、さびしいって思ってまうからやろ」


謙也さんの顔に伸ばした手が、ふと彼の手に捕まった。確かめるようにしっかりと握られた手。じわっと伝わる熱に息をついてしまうほどの安心感を覚えた。謙也さんの手はいつもあついくらいにあたたかい。それは俺の手が人より冷たくて、謙也さんの手が人よりあたたかいから。いつか「足して割ればちょうどええ温度なんやな」って言っていたのが思い出された。

優しい問いかけに顎を引いてうなずく。


「なあ財前、知っとる?」

「ん、?」

「さびしいときは泣いたらええし、さびしいって言うたらええんやで」

「…、」

「さびしいと思うことをあかんと思わんといて。一人でなんもかんもしようとせんで」


優しい人は、かわいそうだけれど、ずるくもある。がちがちに固めてきたものをいとも簡単にほだして、崩してしまう。

そんなふうに優しくせんといてくださいよ。


「…けど、いつまでも甘えとったら、おれは弱いまんまで、」

「誰にも頼らんで一人っきりでがんばることが、強さやとは俺は思われへん」


確信を持ったはっきりとしたその物言いに、頭をよぎったのは白石部長のこと。謙也さんは長い間白石さんが2年から部長をやっていたのを隣で見てきた人だ。あの人も簡単に他人に甘えるような人ではないが、彼の周りには謙也さんや、他の先輩や部員がいつも大勢いた。一人きりでがんばっていたわけではなかった。

じゃあ、俺は?

先輩にも頼らず、部員たちにも心を許さず、ただ部長らしくあらねばと、そればかりで隙を作れる余裕もなかった。そんな俺は、白石さんよりも強いのか。そんなの考えなくとも答えはわかっていた。


「一人が無理なら、まずは二人でやったらええ。そうしたら自然と二人が十人になって、十人が大勢になるから」

「…ほんなら、謙也さんが初めの二人になってくれますか?」

「当たり前やろ」


ぼろぼろ、ぼたぼた、止まることを知らない涙は堰を切ったようにこぼれてあふれて。顔を覆うにも謙也さんの手がちっとも俺の手を解放しようとしないからまるで謙也さんが泣いたみたく彼の頬はべたべたに濡れていった。さびしい。さびしかった。空っぽになってなくなるものがもう何もなくなっていた胸の奥。埋めてくれたのは焦がれ続けていた人。一番ほしかった言葉。


「よっぽどためとったんやなあ。全部出してまい」

「う、ん」

「ぜんぶ出し切って、前に進みたいって涙拭いて立ち上がれたら、そんときは背中押したる」

「うん」

「あ、でもそん変わり俺もさびしいときは財前頼るから、そんときは背中押してな」


冗談めかして笑う謙也さんに、声を絞り出してありがとうと告げた。返事の代わりに強く握られた手の感触を、俺はきっと宝物のように大事に覚えていくのだろう。







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