鉢をベランダに戻して夕飯を食べ終わる頃、日はすっかり落ちきって夜になっていた。パソコンを立ち上げ提出用のレポートを進めていると、不意に携帯が机上で震える。確認すれば案の定、というか、やっぱりあの人からのメールだった。


今から行ってもいいかなー?


「…いいともー、っと」


思った通り、彼はこれから家に直接来てくれるようだ。東京から遥々ご苦労様です。くだらないノリにノることも忘れずに返信をし、俺はUSBにレポート内容を保存してパソコンをパチンと閉じた。予定を伺ってきた時点で来ることは予想していたので、掃除はあらかじめしてある。食材も買い込んである。彼を迎える準備は万端だ。

しばらくソファーで雑誌を読んでくつろいでいると、ドアホンのチャイムが室内に鳴り響いた。嬉しい気持ちが露にならないようにしないと、とそわつく体を落ち着けて玄関へ向かう。念のためにドア窓から覗いてみればそこにはあの人のドアップの顔があった。


「財前ー?」

「今開けます」


久々に耳にした声に呼応して扉を開く。すると、まず一番に視界に飛び込んできたのは眩しいくらい発色の良い紫と、白。


「えっ、」

「誕生日、おめでとさん!」

「…あ、ありがとう、ございます」


花々の向こうからひょこりと彼の、謙也さんの笑顔が現れて、俺ははじめてたくさんの白と紫のそれがブーケなのだと理解した。ずいっと渡されて、戸惑いつつも綺麗に包装されたブーケを受けとる。てっきり今年も鉢だと高をくくっていたせいで、驚きが隠せなかった。


「…っちゅうか、」

「ん?」

「なんすか謙也さん、その格好」

「んお、やーっとつっこんでくれたか」


ブーケにも驚いたけれど、謙也さんの格好もよくよく見ればなんだか、変だ。いつもうちに来るときはTシャツにジーンズとか上下ジャージとか、そんな適当な格好しかしないのに、何故か今日は全身カッチリとスーツを着込んでいて、すさまじく違和感。

とりあえず、立ち話もなんなんで、と謙也さんを室内へ入るよう促す。光んち久しぶりやー、なんて言いつつ部屋へずかずか上がった謙也さんの背中を見送って、俺は扉の鍵をカチリとかった。ふっと視線を落とせば、そこには並んだピカピカの黒い革靴と自分の履き古したゴム草履。やっぱり、違和感。


「花、花瓶に挿しますね」

「あ、待って待って。まだ包装解かんといて」

「え?」

「いっぺん貸して」

「はあ、」


手を出されて、抱えていたブーケを素直に渡す。謙也さんは自らの手に渡ったそれを整えるように優しく撫でた。いとおしそうに目を細めて、紫の花びらを人指の背で触れる彼の柔らかな眼差しに、改めて「ああ本物の謙也さんやなあ」なんて至極当たり前なことを思った。


「今年も鉢かと思ったやろ」

「思いました」

「鉢はな、また週末にでも買いに行けばええかなって」

「え?そんなにこっちおるん?」

「おん」


てっきり明日の朝一番には帰るかと思っていた。明日は普通に平日である。仕事は?と訊くと謙也さんは曖昧に笑うだけ。それより、と口を開く謙也さんは花から俺に視線を移した。


「この花、何か知っとる?」

「見たことはあります。綺麗な色ですね」

「せやろ?これな、アヤメの仲間でアイリスっちゅーんや」

「アイリス…」

「花言葉はな、」


真剣な瞳でまっすぐに見つめられて、不覚にも息が詰まる。深い群青の瞳に俺だけが映る。すっ、と胸元に差し出されたのはブーケ。受け取ろうとそれに向かって手を伸ばすと、その手は謙也さんのブーケを持っていない方の手に優しくしっかりと取られた。


「『あなたを、大切にします』」

「…、」

「財前、俺と一緒におって。一緒に暮らそう」






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