気がついた時にはもう深夜の2時を回っていた。帰ってきたときは無灯火でも部屋の中が見れるくらいには明るかったけれど、今はもう夜の深い闇がそこらを埋め尽くすように染み渡って視界は暗かった。目蓋がぼってりと重たい。シャツの袖口や裾の部分は拭った涙でぐっしょりと濡れていた。ず、と鼻を鳴らすとその音が一人ぼっちの室内にいやに響いてそれがまた涙腺を煽る。

彼に、財前に言われた言葉を、もう一度思い返すべく俺はゆるりと目を閉じてみた。目蓋の裏に焼き付いた財前の横顔を見つめる。そうして、今も鼓膜で反響を繰り返す声たちを、順を追ってたどる。

そもそもおかしいと思ったんだ。殊に寒がりな財前がこんな真冬に駅まで、それも歩いて俺を迎えに来てくれると言い出した時点で。財前は10度にも満たない気温のなかを気まぐれでふらふら出歩くようなやつではない。何かあったのか、それとも俺の考え過ぎか。いやでも、と。考え過ぎではないと頭の何処かで確信していた。定かではない違和感はずいぶんと前から感じていたから。まさかあそこまでヘビーな話とは思ってもみなかったけれど。


「俺、イギリス行こうと思うんです」


駅から二人で歩いて、自宅近くの公園の横を通ったあたりで財前がぽろりとそう言った。俺は「おーええやんええやんイギリス、土産は紅茶がええわ」なんて軽く返したが、「そうやないんです」と静かな声で呟かれ、思わず言葉が詰まった。

曰く、目的は武者修行らしい。世界中の音楽に触れて、感じて、作曲家としてのスキルアップを図りたいのだと財前は言った。なぜイギリスかと聞けば、事務所の知り合いのつてで面倒を見てくれる人がいると言うことと、ロックの聖地であるイギリスにはずっと勉強しに行ってみたかったとのこと。

いつまでかかるかはわからない。他にも行きたい国はたくさんあるし、もしかしたらそのまま異国の地で永住するかもしれない。淡い錆色の寒空の下、自分にしては珍しいひどくゆったりとした足取りで財前の隣を歩いた。下肢が異様なほど重たい。財前がぽつぽつと語るごとに、自分の足に見えない枷が次々に繋がれていくようだった。


「黙っとって、ごめんなさい」


黙って話を聞いていた俺に財前は小さく謝った。その謝罪に込められていたのはたっぷりの申し訳なさと、曲げられそうもない強かな覚悟だった。俺が何を言ってもきっと財前の心は変えられない。俺も、変えようという気はない。財前の人生は財前のものだ。俺がとやかく言って縛っていいものではない。財前の好きなようにさせるべきだ。わかっている。けれど。そうやって大人ぶる理性の裏側では、泣きたくなるほどの不安と寂しさと焦りを必死に隠している自分がいる。


「決めた…んやな」

「はい」

「決めたから、俺に話したんやんな」

「…、はい」


未練のない凛とした声が鼓膜を撫でて、少しだけ視界が淡く揺れた気がした。月並みかもしれないが、俺にとって財前は空気と同じ存在だった。無くては生きていけないもの。俺はそれくらい財前に依存して入れ込んでいて、生涯一緒にいられたらといつだって願っていた。財前も、決して思い上がりなどではなく、俺のことを特別大切に想ってくれていたのはわかっていた。

支え、支えられながらこれまでの十数年間の時間を二人で過ごしてきた。そんな俺に何の相談もなく、自分の行くべき道を全部一人で決めた財前を薄情だと思う気持ちがないと言えば嘘になる。でも財前の真意は、手に取るようにわかってしまうから。俺に相談して決めていては決心が鈍ると思ったのだろう。俺が寂しがる様を放っておけないと思ったのだろう。財前、俺には優しすぎるから。

それに俺が財前の立場だったならば、きっと同じようにしたと思うのだ。だから余計にどうしようもなくて、何も言えなかった。


「待っとってとは言いません。俺が俺の思うように生きる代わりに、謙也さんにも謙也さんが思うように生きてほしい」

「…」

「謙也さんになら、俺の他に謙也さんを心底大事に思う人が現れてもおかしくない。だって、謙也さんはほんまのほんまに、とびきり上等な人やから」


それはしずしずと降り注ぐ祈りのように聞こえた。
どうか、泣かないでいて。
どうか、苦しまないでいて。
どうか、どうか。幸せでいて。

けどな。俺の思う幸せは、財前以上に俺を大事にしてくれる人を大事にして、結婚して、子供を授かって、なんて。そんなありふれた幸福の中にはひとつも見当たらないよ。

震えそうな唇を一度きゅっと結んでから、俺は再度口を開く。


「…ほな、俺は俺が思うように生きさせてもらうわ」

「…おおきに」

「部屋はずっとあそこ使うからな」

「…え?」

「あ、もし引っ越しとかしたら連絡するで住所くらい教えといてや」

「え、?けんや、さん?」


思いがけない返答だったのだろう。俺の言葉に戸惑いを見せる財前に構わず告げた。

このままここで終わりにするなんてまっぴらだと思った。何年もの間に培われたこの想いを、簡単に忘れられるはずなんかないのだ。それに言ったのは財前だ。好きに生きろ、と。それならば俺はお前を待つよ。重たいと思われても、嫌われてしまっても、俺はきっと未練たらしくお前を待ってしまうよ。

もう目の前まで自宅が迫ってきていたところで、不意にこつりと互いの手と手が触れた。いつもならどちらからともなく手をとって指を絡め、そうして仲良く二人でマンションの一室に向かったに違いない。けれど今日はいつもとは違うので、握らない。空っぽの手のひらをぎゅっと握り締める。爪が手のひらに食い込んで少しだけ痛かった。


「俺、待っとるから。気が済むまで、勝手に待っとるから」

「…そうですか」

「ごめんとか、ありがとうとか、今言うたらぶっ飛ばす」

「、はい」


俺に顔を向けて、財前は今日はじめて笑った。それでいい。お前は間違ったことは一つもしていないんだから、笑って、胸を張って、行けばいいんだよ。

俺はそのときでき得る最高の笑顔を作った。


「ほならまた、さよなら」

「おん。また、な。さよなら」


昨日まで二人で暮らしていた部屋に立ち寄ることもなく、財前はマンションの前で俺に背を向けた。俺は寒さで肩を竦めながらも、そのまましっかりとした足取りで道を進んでいく財前の背中を見えなくなるまで見送った。

部屋に帰った後、俺は堪えていたもの全てを吐き出すようにひたすら泣いた。子供みたいに声を上げて泣いた。だいぶ泣き続けたので、喉はガスガスだし目元も涙のせいでひりひりと痛む。

泣きつかれてひどく眠たい。この先きっと想像以上につらい日々が続くのだろう。ゴールが見えないどころかあるのかどうかさえもわからない分、途方もない。でも、待つと決めた。一生かかっても、待つと強く誓った。

手繰り寄せたタオルには財前の残り香がわずかに残っている。柔らかなそれに顔を埋めて、俺は目蓋を下ろした。

その日、夢に見たのはうん十年後。今よりもうんと小さく細くなった俺と財前の寄り添い合う背中。




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