新婚旅行は海がいいな、と謙也が言った。まだ春なので海に行っても何かあるわけではないが、俺としては二人でゆっくりできればどこでもよかったので、二人で休みをとり海に近いペンションに赴いた。新婚旅行、という名目の元の旅行ではあるが、俺たちは結婚式はおろか婚姻届すらも出していない。これから出す予定もない。でもそんなわかりきったことは言わない。口にすれば切なくなるだけだから、敢えて触れない、どちらも。

現地までは片道車で一時間半かかった。夕刻に家を出てペンションに着いたときには、欧米の洋館のような建物の眼下に広がる海はもうすでに真っ黒に染まっていた。少し冷たい潮風が強く吹いており謙也と「寒いな」と言い合って、建物に入り泊まる部屋へと急いだ。

部屋に入って早々、俺たちは早々に持参した酒で晩酌を始めた。次の日の予定は決めていなかった。周辺を適当にドライブして海にも行って、のんびりと行き当たりばったりに過ごせたらいいなと俺は考えている。その旨を伝えると、謙也は首を傾げてへらりと笑い「俺もそれがええな」と同意してくれた。幼さの残る笑顔だった。

謙也はあまり酒に強くない。そのわりにペースは早いので、2時間ほどしてソファーに座ったまま彼は眠ってしまった。少し残念に思いつつも体を冷やさぬようにと毛布をかけてやった。無防備な寝顔に顔を近づけてまじまじと彼に見入る。白い頬に指の背をそっと滑らせると触れた肌はまだ熱かった。


「…ごめん、けんや」


なぜだろう。突然口をついて出たのは謝罪だった。自分は何に対して後ろめたいと思ったのか、どうしてこんなにも胸の中が空っぽなのか。せっかく謙也と二人で出掛けてきたというのに。せっかくの新婚旅行なのに。なぜこんなにも切なくて寂しいのだろう。

このまま謙也の前にいると泣いてしまいそうだったので、俺はたまらず部屋を抜け出した。ペンションのロビーを抜けて外に出る。空気はひんやりと冷たかったが幸い風は無くしんと辺りは凪いでいた。酒で火照った体を冷ますには丁度よいかもしれない。俺はなんとなしに海の方へと歩を進めた。ペンションの目の前に広がる砂浜に降り立つと足はずぶりと砂に沈んだ。ざくざくと歩きづらい浜辺を歩んでいく。流木につまずかないよう足元に注意して、波打ち際付近の適当な場所に腰を落ち着けた。そこでようやく、ふう、っと肺いっぱいに詰まっていた息を吐き出す。

途方もなく、はっきりしない。そんな曖昧で不安定な気持ちだった。近頃、思うのだ。年をとり大人になるに連れて、いかに自分が浅はかで勝手かということを。現実を見ているふりをして、ちっとも見ちゃいないんだということを。謙也を好きになってから俺は、謙也の隣にさえいられたらそれだけで幸せだった。それを疑ったことなど一度だってなかったし、これからもそれは変わらないと信じていた。だけど、ふと思ってしまったのだ。

それで俺は確かに幸せだけど、謙也はどうなんだろう。もしかしたら俺は謙也の幸せを駄目にしているんじゃないだろうか。

俺の内側を、ブラックホールのように何もかもを呑み込む真っ黒な塊が占拠した。





目が覚めたら見慣れない部屋はぼんやりとだけ明るくて、自分でかけた覚えのない毛布が体にはかかっていて、白石はいなかった。酔いはまださめきっておらず鼻の奥がずきずきと痛む。気だるい体を起こして窓の外を見ると、砂浜の方に人影のようなものを見つけた。俺は少し焦って部屋を出た。

ここ何週間かの白石はどこか気落ちしていた。奴はあまり感情を顕にするタイプではないが、それでももう10年は一緒にいるのだから気がつかないはずがない。本人は俺に心配させまいと隠しているようだがそんなことはお見通しなのである。でも、白石が落ち込んでいる理由は残念ながらわからない。なので、この旅行を通して白石を少しでも元気づけられたらと。そしてあわよくばどうして元気がないのか尋ねようと思っていたのに。酒に酔って白石をほったらかしにしてしまうなんて、俺はアホか。


「そんなとこおったら風邪ひくで」


膝を立てて砂の上に座る白石の背中に声をかけると、彼は緩慢な動作で俺を振り返った。俺を見て驚いたような、けれども悲しそうな顔をした白石に心臓が一瞬だけ止まった気がした。


「大丈夫なん?酔いさめた?」

「や、まだちょっと頭痛い」

「寝とってもよかったのに」


そう苦笑する白石に首を横に振って、俺は海の方を眺めた。夜の濃紺と同じ色に染まった水面と空との境界線はわからなくなっている。まるで夜空が海に溶けて滲んでいるようだと思った。無意識に足を海の方に向け一歩二歩と踏み出した、そのとき、不意に袖口を後ろに引かれて立ち止まる。振り向き見た白石の顔は怯えの色を孕んでいた。気丈な白石からはこれまで見せられたことのない顔だった。


「行かんといて」

「え?」

「こっち、来て」


引かれるままに白石の前に座らされる。そうして、白石は俺を羽交い締めするように後ろからきつく抱き締めた。謙也、謙也。耳元で呼ばれる名前が助けてという悲痛な叫びに聞こえて、俺は背後から回された手に自分のそっと手を添えた。

それからたっぷり数十分の沈黙が続いた。風になびく木の葉の音と、囁くような波の音とに耳を傾けて白石に身を委ねていたとき、不意に白石が「なあ、」と耳元で訊いてきた。


「謙也は、幸せ?」

「え?」


ひどくぼやけた声が闇の中を震わせる。振り向こうと身を捩ろうとするも、それを許さないとばかりに体に回された腕の力は強くなった。白石は今、何を悩んでいるのだろう。何に苛まされているのだろう。それをわかってやれないことがもどかしくて歯痒い。俺は少しだけ考えて、質問の答えを言うために深く息を吸った。


「幸せやで」

「…そうか」

「…けど、まだ足りひん」

「え、?」

「まだ全然足りひんの」


そう言って、俺の胸元にあった白石の手をとり、左手の薬指を指先から根本にかけてつうっと撫でた。細くしなやかな指のサイズはもう把握しているから、多分、大丈夫なはず。

俺はポケットに忍ばせておいたリングを今しがたなぞった白石の指にはめた。


「なん、これ…」

「見てや」


自分の左手を月に向けてかざして見せた。白い光を放つ月に照らされた俺の左手の薬指には先ほど白石の指にはめたものと同じ指輪がはまっている。俺の指で光るそれを見て、白石も俺と同じように左手をかざした。隣同士に並んだ同じシルバーが、キラリときらめきを放った。


「お揃い…」

「そうやで、お揃い」

「なんで…?」

「白石ともっとずっと強く繋がって、わかりたいと思ったから。苦しみも悲しみも全部」

「…けんや、お前」

「俺な、欲張りやから今よりもっと幸せになりたい。白石と一緒に」


白石の左手を覆うように自分の左手をぴったり重ね合わせて、そのままやんわりとその手を包み込んだ。白石の苦しみも悲しみも、白石にしかわからないのは当たり前のこと。でも俺は少しでも多くわかりたい。理解して、共有して、そうして二人で寄り添い合えたら、もっともっと幸せになれるんじゃないかと思ったから。この指輪はそのための、形ばかりの媒介のつもり。気休めにしかならないかもしれないけれど。


「白石がしんどかったら俺もしんどい。でも、白石が幸せやったら、俺も幸せ」


ゆっくりと言い聞かせるように話した。大丈夫。俺が白石のこと幸せにしたるから。幸せにしたいから。白石を想って目を閉じれば自然と穏やかになる拍動に、思わず口元が弧を描く。


「あー、もう…なんで、そないなこと言うん…」

「あれ、泣いとる?」

「…、普通に泣くわ」


白石は俺の肩に顔を埋めてすんすん鼻をすすりはじめた。まさか泣くとは思わなかったので正直焦る。頭を控えめに撫でてやると少しだけ顔を上げた白石。彼は涙で濡れた瞳で小さく俺を睨んだあと、それはとても綺麗に笑ったのだった。





一人きりで漆色の海面を眺めていたとき、思考は溺れかけていた。苦しくて、いくら藻掻いても真っ黒な考えは侵食を増してゆくばかり。気持ちが死んでいくようで、たまらなかった。

助けて、謙也。そう願ったとき、本当に彼は来てくれた。それがどれだけ嬉しかったか。俺の幸せが謙也の幸せだと言われたとき、どれほど救われたか。さめざめと泣く俺をあやす謙也はきっと知らない。

重なる互いの心音に感じたこの甘い感情こそ、名前をつけるとしたら『幸せ』になるのだろう。もらった指輪をこっそり撫でながら、そう思った。




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -