※二人とも社会人 ※例のごとくまたもや同棲 何がいけなかったのか、と聞かれたら思い当たる節はいくつかあった。例えば、研修医になってからだいぶ日が経ったからか、新しく任される仕事が近頃ぐんと増えた。例えば、夜遅く帰宅しても目を通さなければならない手術資料などを処理していると、気がつけば夜が明けていたこともしょっちゅうあった。例えば、秋になり寒くなり始めたので、発熱や喉の痛み等で通院する患者さんが増えた。その他諸々、記憶をたどれば原因となりそうなことはあれこれと頭に浮かぶ。 そんな中でもこうなった一番の原因は多分、二週間前の引っ越しである。 『え、一緒に…?』 少し前は多忙とは言わないまでも、それなりに仕事が詰まっていて、俺は恋人である光とはなかなか会えない日々を過ごしていた。そんなときだった、「一緒に暮らしませんか」と光から言われたのは。 確かに光との付き合いは長いし、同棲すればデートの後に別々の家に帰宅したり、一人きりの部屋で寂しい思いをする必要もなくなる。コンポーサーの仕事をしている光の職場はほぼ自宅なので、彼は家に籠りきり。きっと出勤のときにはいつでも「いってらっしゃい」がもらえるし、家に帰れば「おかえり」だって言ってもらえるのである。(因みに言っておくと光は男なので、決して可愛らしい新妻との新婚生活もどき、みたいなものが送れるわけではない、けれど。) 『無理ならええんすけど』 『い、いやいやいや!無理なことない、全然!』 『え、ほんなら、』 『うん、暮らそか、一緒に』 こんな素敵な誘い、断る理由が一体どこにあるだろうか。俺はその場で二つ返事で頷いた。 そこからは怒濤の忙しさで事が進んだ。住んでいたアパートの解約、荷造り、光の家への荷物の郵送、そして片付け。光はマンションを買っていたので、部屋を借りて住んでいた俺が彼の家へ引っ越すのは当然のことだった。それが嫌だったとか、そんなことは全くない。二週間経った今でもまだ手のつけていない段ボール箱はいくつもあるわけだが、光との同棲生活を考えればそれまでの手間など全然気にならなかった。 しかし、生活環境が変わったからかどうも体だけが思うように着いていってくれない。精神状態は良好、けれど蓄積された身体的疲労。その上このタイミングでの仕事量の増加。それによる不摂生。自分の健康管理が満足にできない奴が医者だなんて、まったく聞いて呆れる。 …とまあ、だいぶ長くなった前置きは置いておいて。 現在、とある平日の正午過ぎ。場所は自宅の目の前。体温は計ってはいないがこの分だと38度。…くらいで止まっていてほしいけれど。 (しんど…) 鞄の中を手探りで漁り鍵を捜索する。朦朧とする意識で探しだした自宅の鍵を扉の鍵穴に差し込み、解錠。たったそれだけの動作なのに、気分としてはかなりの重労働をしたようだ。そのまま上げるのも億劫なくらい重たい腕を持ち上げドアノブに手をかけ、静かに扉を開いた。 しん、と静まり返っている室内に入り、靴を脱ぐ。やはり無理に動いたせいか、出勤前よりも頭痛が酷くなっている気がするし、手元が覚束なくてもたついてしまう。それでもなるべく音をたてないようにと気を付けていたのに、だ。 あっ、と思った時には足が縺れていて、くらりと揺れた視界。バタッと派手な音をたてて前のめりに倒れ込む。 咄嗟に手をついたので幸いにも顔面をぶつことはなかったのだが、すぐに起き上がろうとしても腕に力が入らない。駄目だ、動けない。どうやらなけなしの体力は底をつきてしまったらしい。軟弱な奴め、と自分自身を叱る。 「、謙也さん?」 「…おう…ただいま」 「おかえり…やなくて、」 騒がしさに気づいたのだろうか。「どないしたんですか」と廊下の奥から此方に駆け寄ってきた光は俺の傍でしゃがみ、体を起こしてくれた。光の腕の中で息を荒げる俺に何かを察したのか、額や首に手で触れてきた彼に目を瞑る。ひんやりとした光の手はほてる肌を冷やしてくれて、気持ちが良い。 「仕事は?」 「早退、させてもろてん」 「…一人で帰って来たんすか」 「タクシー、を、拾うてな、」 言葉を紡げば、はあ、はあ、と合間合間に熱い息が溢れた。頭の中がガンガンと脈をうち、眉間に皺が刻まれるのを感じる。「連絡くださいよ」とぽつりと呟かれた言葉に、俺は首をゆるゆると横に振った。 「あかんよ。納期、明日やろ」 連絡をすれば光なら絶対に迎えに来ると思ったから、敢えてしなかった。ここ一週間ほど、光が缶詰め状態で部屋に籠り必死に曲を作っていたことも、納期が近いことも全部知っていたから。邪魔したくなかった。気を使わせたくなかった。だからしんどいこと、みんなみんな隠してきた。光、俺には甘いんやもん。風邪ひいたなんて言うたら仕事放棄して俺んこと看病しかねへん。やから、秘密にしとったんよ。 へらりと笑って見せれば光は少しだけ悲しそうな顔をしてから、黙って俺を寝室まで運んでくれた。ダブルベッドに優しく丁寧に寝かされ、ネクタイを外されてシャツの首もとのボタンを2個ほど開けてもらうと、解放感からため息が漏れる。 「おおきに、な」 「こんくらいするん、当たり前でしょ。着替えますか?」 「先、いっぺん寝る、わ」 喉がイガイガと痛んで声を出すことが少しばかりつらい。口元に手をしっかりあててけほ、と小さく咳払いをすると光は乱れる髪をそっと撫でてくれた。優しい優しいその所作に覚えたのは泣きたくなるような安心感。手のひらから暖かくて柔らかなものが体内に注入されているみたいで、体の力がふっと抜ける。やっぱり、俺ん中で光は偉大や。目蓋を閉じて注がれる愛情を一心に感じた。 「…ひかる、もうええで、部屋戻り」 「…けど」 「今は、なんもいらへんねん。それに、光にうつしてしもたら、大変やしな」 「…」 「俺は大丈夫やから、な」 心配です、って思いっきり書いてある光の顔は困ったように眉が下がっている。そんな顔されたらもう笑うしかなくて、切なくなった。視界が涙で滲むのを目を細めて誤魔化す。 ほんまは大丈夫やないけど。本音言えばもう少しだけ一緒におって欲しいけど。今は甘えたらあかん。光頑張っとるんやから、今は我慢やで、謙也。 そう自分自身に言い聞かせていると、じっと俺の顔を覗き込んでいた光が不意に俺の片手を両手で取り、まるごと包み込んできた。きゅうっと強く強く、まるで祈るみたいに俺の手を握る光の目が真剣に俺を貫くから、思わず息が詰まった。 「ひか、」 「謙也さん、もっと甘えてもええんですよ」 「…あかんよ」 「あかんことなんない。なんのために一緒に暮らしとると思ってはるん」 「なんのため…て、」 「俺は謙也さんと一緒におれて安心するし、嬉しいです。謙也さんはそうやないのん?」 小さな子に読み聞かせでもするような、優しくて甘やかな囁きにつんと鼻の奥が痛んだ。耐えきれずにじんわりと溢れだした涙がこめかみに流れていく。いい年した大人が風邪ひいたくらいで泣くなんて、情けないにもほどがある。けど、あんまりにも光が悲しい顔するから、もう泣けてしゃあない。 首を傾げる光に顔をふるふると振って見せた。嬉しないわけないやんか。安心しないわけないやんか。毎日毎日、夜寝るときも朝起きたときにも隣に光がおって、それがどんだけ幸せなことか。 「せやったらいらん気ぃ使わへんの」 「…でもひかる、仕事」 「仕事なんどうとでもなりますわ。仕事なんかよりも、謙也さんのが大事」 「…ほんまはあかんけど、それは…嬉しいなあ」 「せやからあかんくないですってば」 あんたは黙って甘え倒したらええねん。 男前な言葉と共に目元を手で覆われる。真っ暗になった視界に思わず目を瞑ると、次には唇にふんわりと温かいものがあてがわれた。 「…アホ、うつったらどないすんねん」 「したら謙也さんが看病してくれますやろ?」 「そんなん、するに決まっとるやろ」 目に蓋はされたまま、嬉しさやら安心感やらがない交ぜになってとろとろと胸の内側に溢れ、あったかく溶け出すから、また少し泣けた。ふわふわとほどけだした意識の中で、 「おやすみなさい、ええ夢を」 耳元で落とすように呟かれる。そのまますっと夢の世界へ行けたのだから、それはきっと魔法のおまじないだったのだ。 |