※謙也三年、財前二年の冬の捏造話。財前が事故して入院している設定。





冬だというのにぽかぽかと暖かい陽気の今は正午過ぎ。廊下の壁伝いにずっと続いている窓から差し込む光は眩しすぎず、視覚からも穏やかな気持ちを運んでくれる。



「昨日な、隣のおばちゃんからりんご仰山もろてん」

「そうなんすか」

「うん。いっぱい持ってきたから、後で食おうな」

「はい」



重みのある車椅子を押して明るい廊下をゆっくりと進む。目下すぐには財前の真っ黒い頭があって、丁度綺麗なうなじが襟足から覗いて見えた。できものなんて一つも見当たらない肌理細かい肌は、夏に毎日炎天下に晒されていた手足よりもいくらか白いように思えた。浴衣とか着て髪上げたら美人なんやろな、まあ財前男やけど。なんて。でも想像したらやっぱり美人で、思わず頬が緩みそうになった。

病院独特の匂いが漂う廊下の突き当たりにあるエレベーターに二人で乗ると、中にはパジャマ姿の子供とその母親らしき人がボタンの前にたっていた。「何階ですか」と女性に聞かれ「屋上お願いします」と返す。すると傍らの子供が自分が押すと言わんばかりに、キラキラした目で一番高いところのボタンに向かってうんと腕を伸ばした。それでも小さな子供の指は目的のボタンには届かない。するとそんな我が子の様子を見ていた母親が笑って子供を抱き上げボタンを押させた。母親の腕の中で嬉しそうに笑顔を作る子供に、つい笑みが溢れた。彼らはすぐ次の階で俺たちに手を振り降りていった。今の階は確か小児科だった気がする。あんなに小さな子も何かの病に侵されているのか、なんて思うと心がじんっと痛んだ。自分のところの医院にも子供は来るけれど、少し前までは彼らを見ても何も感じなかった。あくまでただの患者の一人、という認識しか持っていなかった。でも、こうして見舞いのためにここに通うようになってからは、なんとなく見方が変わった。親近感、だろうか。

暫くしてから目的地で止まったエレベーターから降りて、屋上に出た。ちょっとした庭園のような作りになっているここは普段ならちらほらと人がいるけれど、今日は誰もいない。多分、ひゅうひゅうと絶え間なく吹き抜けているこの風のせい。陽射しはいい具合なのに、やはり冬は冬だ、寒い。



「うお、今日風強いな」

「…さむ」

「部屋帰る?」

「いえ、」



首を横に振る財前は風で乱れる髪を抑えていた。財前の部屋は当たり前だが相部屋で、老人一人とやたら声のでかい妻を持つ中年の男性が一人、同室で暮らしている。大抵いつもこの時間になると旦那の様子を見にやってくる、そのやたら声のでかいご婦人が財前は苦手らしく、俺が来ているときはこうして屋上に避難するのだ。そして今日も例によってそのご婦人は来訪しているので、寒さを忍んででも帰りたくないのだろうと思う。

それでも寒さにあてられて風邪をひいては大変だと思い、車椅子を押してなるべく風の来ない建物の影の場所に移動した。車椅子の持ち手を持ったまま、空を仰ぐ。風にあおられて早く流れる雲がなんだか忙しない。同じように上を見上げていた財前が「なんか、謙也さんみたいですね、あの雲」と漏らした。



「急いだからってなんにもならへんのに、せからしいとこが」

「嫌味かそれ」

「あれ、バレましたか」



隠すつもりもないくせに、よう言うわ。黒い頭を小突くと振り向いた財前は楽しそうに笑った。それにつられて俺も笑い返す。

財前が事故に合ってから三週間。最近はだいぶ明るくなったなあ、と思う。まだ事故をしたての頃の財前は俺や部活のメンバーが見舞いに来ると、口ではいつも通りを装おうとしていたけれど、時折不安げに目を伏せる仕草が目についていた。俺以外の皆、あの金ちゃんですらもそんな財前の萎れ具合に気づいていたようで、いつものふてぶてしくて可愛げのない言動ばかりする生意気な彼とかけ離れた姿に正直動揺した。その上、俺は見てしまった。閉め切られたベッドサイドのカーテンの中で一人密かに泣く財前を。声を押し殺し肩を震わせて泣きじゃくる財前に、あのとき俺は泣きながら、たまらず病室から飛び出した。

医者には全治に半年はかかるだろうと言われたらしい。来年の全国大会までにはなんとか間に合うだろうが、療養中の分のブランクは必然的に空く。それでも財前は、ただ何もできずにじっと耐えなければならない。それに対する焦燥感は、俺の想像では計り知れないくらい多大なもののはずだ。元から繊細な財前がそんな負の重圧にのし掛かられて一人で耐えられるはずなんかない。

だから、俺は放課後はなるべく毎日見舞いに通うことにした。受験も近いがそれよりなにより、財前の傍に少しでもいてやりたかった。俺にはそれしかできないから。本当は、できることなら全部変わってやりたい。何度そう思ったかわからない。実際傍にいるからといって、話し相手になることくらいしかできないし、何かしてやりたいと思えば思うほど無力な自分が浮き彫りになるばかりでもどかしかった。でも、それでも、一人にしておけない。財前は俺にとって欠けがえのない、大切な後輩だから。



「謙也さん」

「……ん?」

「俺ね、最近よく夢見るんすわ」

「夢?」



物思いに耽る俺に突然言葉を発した財前。聞き返すと財前はこくりと頷き、正面を向いて両手を横に目一杯広げた。向かい風を全部集めるような、そんな体勢の財前はゆっくりと目を閉じた。



「こうやって、この屋上から飛び立つ夢」

「……空に?」

「上か、下か、どっちに向かっとるんかは覚えとらへんのですけど」

「下、って、」

「もしかしたら地面に向かって落ちとるのかも……なんて」



冗談っぽく言葉を締めた財前の声は、ほんの少しだけ震えていた。俺は広げられた財前の腕に思わず手を伸ばして、そっと触れた。そのまま財前の正面に回り込んでしゃがみ、もう片方の手もとり一緒に彼のひざのところでぎゅうっと握りしめる。

…わかりにくすぎるわ、全く。俺やなかったらそれ、悲鳴やって気づいてへんで。



「謙也さん?」

「縁起でもないこと言うなや、あほう」



見つめていた手から視線を上げてみると、じっと見つめてくる財前の双眼に俺が映っていた。しばらく黙って見つめ返していると、ふるふると小刻みに震っていた瞳を長い睫毛が覆った。うっかり触れてしまえば壊れてしまうもの、例えばシャボン玉みたいな。今の財前を例えるならそんな儚いものだと思った。儚いけれど、つい手を伸ばさずにはいられない尊いもの。

ふっと白い息を一つ吐いて乾いた唇を小さく舐め、次に放つべき言葉を思惟する。



「……財前は、飛べへん」

「……え?」



俺の発言に伏せていた目を起こした財前は、少々驚いているようだった。それから不思議そうに首をことりと傾げる。普段よりも潤んだ瞳の中の俺はぼやぼやと滲んでいる。



「知っとるか?夢ってな、人に話したら正夢にはならへんのやって」

「そう、なんですか」

「うん。せやからもう、財前は絶対飛べません」



握り込んだ手の中で財前の指が動いたので力を緩めると、今度は財前の手がおずおずと、確かめるように俺の両手を覆った。強く強く、すがるように握ってくる手に涙腺がゆるみかけたけれど、ぐっと力を入れて耐えた。泣いたらあかん。つらいのは財前なんやから、俺が泣いたらあかん。脆くなった財前が崩れ落ちひんように、受け止めたるのが俺の唯一の役目や。



「変な夢見たら絶対俺に言いや」

「……はい」

「なんでもええ。怖い夢でも、悲しい夢でも、もちろん楽しい夢でも」



握り込まれていた手をやんわりほどいて俺は両手を先ほどの財前のようにいっぱいいっぱいに広げた。それから財前に体を少し寄せて「おいで」と小さく呼ぶ。そうすると素直に飛び付いてきた財前は、幼子のように俺の肩に顔を埋めてぐすぐすと鼻を鳴らしはじめた。

ほんまに不器用なんやから。泣きたかったら泣いたらええねん。助けて欲しかったら助けてって言うたらええねん。こない細っこい体に一人で溜め込まんでも、俺はちゃんと受け止めるから。煩わしいなんてこれっぽっちも思わへんし、寧ろ嫌ってほど甘やかし倒したるわ。



「財前のどアホ」



そんな言葉とは裏腹に、俺は財前の震える体をきつく抱き締めた。風が抜ける隙間もないくらいぴったりと体を合わせると、確かに鼓動する心臓が俺の心臓とは反対側の胸に重なって、二つが共鳴しているみたいだと思った。





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