渋る財前を無理矢理引っ張って連れてきたのは、昇降口から入ってすぐのところにある使われていない教室。ガラリと戸を開いてそこに財前を引き込み、鍵をかった。掃除をしていないのだろうか。そこはひどく埃っぽくて、さらにはカーテンなんか閉められているので視界は暗い。かろうじて周りが見えるくらいで、俺の前で立ちすくむ財前の姿が少しぼやける。 黙ってしまえば、ずっずっと財前が鼻を啜る音以外は何も聞こえない部屋で、次に何を言おうかと長く思考すればするほど言葉が発しづらくなっていった。気まずい沈黙。勢いでこんなところまで連れてきてしまったけれど、言いたいこともたくさんあるのだけれど、ああなんて切り出せばいいものか。 「財前、」 「謙也さ、」 …うわああああ、しもた、タイミング被ってまった。 「え、なんやった?」 「あ、いえ、謙也さんからどうぞ」 「え、そう?」 「はい」 「…ほんなら言うけど、」 「はい」 「…キ、ス、してくれへん?」 「…は?」 「あっ!う、や、違っ…」 はああああもう、なに言うてんねん俺。テンパりすぎやろ、なんやねんキスしてくれって、アホか! 本当のところそんなこと言うつもりは欠片もなくて、もっとちゃんとしたことを言うつもりでいたのに、今の自身の発言で頭は真っ白。思考回路も白い煙を上げ、プスンプスンと音を切らして止まってしまった。 暗がりに少し慣れた視界に映る財前の表情は当たり前のように驚いたまま固まっていて、焦りを感じた俺はあれこれと弁明しようする。しかし、しばらくすると彼は不意に脱力したように、ふうっと息を吐き出した。それからそのままころんと首を傾げ、未だに潤っている目で不思議そうに俺を覗き込んでくる。うっ、ち、近あ… 「キス、してほしいん?」 「う…あ、あんな、」 「はい」 「確かめたい、ねん…」 「確かめるって、何を?」 「うんとな…なんや、うまいこと言われへんのやけど…」 「…とりあえず、キス、してみればええんです?」 「…う、うん」 確かめたい、というのは本心。自分の中で出した答えが本当なのか。財前に触れたら、それがわかる気がしたから。 財前の背丈に合わせて少し屈み、ぎゅっと目と口を閉じた。心臓はばくん、ばくんとあり得ないくらい大袈裟に脈動を繰り返して今にも壊れてしまいそうで、額やら背中やらで冷や汗が湧き出るのを感じた。足が、指先が、緊張から震える。震えるな震えるな、とそう自分に言い聞かせ、体側で拳を握りしめる。 すると、ふと何かが両方の手にそっと触れた気がした。ひんやりと冷たい、何か。知ってる。俺はこの温度を、知っている。 その何かは俺の握りしめた手を控えめに取ると、上から包み込むように覆った。反射的に目蓋を起こしそうになったけれど、その後すぐに唇に柔らかい、おそらく財前の唇であろうものが重なり、開きかけた目を再度固く閉じる。 「…なんか、わかりましたか?」 この前よりも短く、一瞬の内に触れては離れていった唇にそろそろと目蓋を開けた。そうしたら一番に視界に飛び込んできたのは目と鼻の先にある財前の揺れる黒い瞳。窺うように見つめてくるそれに捕らえられたような気分になった俺は、そこから目が離せなくなっていた。 唇が自然と動き、言葉を紡ぐ。 「まだ、わからへん」 「ほんなら、もっかい?」 「ん、もっかい」 喉が不器用に震えるから、発した声はとてもたどたどしいものだった。掠れて、本当に小さな情けない声。それでも二人きりのこの部屋で、これだけ近くにいる財前の耳に届けるには十分なもので。 俺の願いをあっさり聞き入れた財前は顔を傾け、もう一度唇を合わせてきた。先ほどよりも深く、確かな強さで触れたそれはちゅ、と小さく音をたてて離れる。「わかりましたか?」と再三聞かれ、俺はまた首を横に振り、握られていた手を体の前に持ってきてきゅうっと握り返した。 「まだもっと、ずっとして」 もうわかっていた、本当は。自分の気持ちも、財前の気持ちも。触れ合った唇から伝わってきた分、多分財前にも俺の気持ちは伝わっていたのだと思う。それでも欲しいと請うのは、理性ではなく本能だった。 俺の言葉を聞くや否や、財前は堰を切ったように俺の体を背後の戸に押さえつけ、今までの可愛いものとは比べ物にならないくらい深く、貪るようなキスをしてきた。何度か角度を変えて唇を食まれ、探るように口の中に舌を差し込んできた財前の息は荒く、聞いているだけで目眩がするほどの興奮剤。ディープキスなんて全くはじめてで呼吸の仕方もわからない俺は、財前を真似て鼻で息をしながらも必死に舌を差し出す。 こんなキス、はじめてや。それにこんな獣みたいな、男らしい財前も、はじめて。 ざらつく舌に舌を絡めとられ、擦られ、歯をなぞられたりと為されるがまま。唾液と一緒にちゅくりと舌をきつく吸われたらその場に立っていられなくなり、力無くズルズルと壁伝いに地面に座り込んでしまう。そんな俺を追うように財前も腰を屈め、膝を折る。床に腰を下ろしてからも財前は俺を一向に解放してくれることはなく、そればかりかより深く重ならんと首に腕を回された。 求められとる。今、財前は俺を、欲しがっとる。その事実がさらに俺の中の熱い感情を煽ったから。たまらず目の前の頭を掻き抱いた。 「っ、は、はあ、はあ…」 随分長いことそうしていたような気がする。酸素不足で意識がふわふわと落ち着かないまま、俺はただ呼吸を整えるばかり。なんやこれ、さっき全力で走ったときよりも息あがっとるやん自分。 べったりと濡れた口を拭おうと手を動かせば何故かそれはやんわりと財前に制された。小首を傾げる俺に財前はふわりと笑い、唾液の垂れる俺の唇をぺろりと一舐め。 「…もう俺どないしよ、謙也さん」 「な、にが?」 「うれしい。しあわせ」 目を細めて口元を緩めて、言葉通りの幸せそうな柔らかい笑顔を見せてきた財前は、ぽろりぽろりと泣き始めた。綺麗な綺麗な、透明な涙の粒に魅せられて、俺も一緒に泣く。 「やっぱり、泣くんやな、お前」 「謙也さんかて、泣いとる」 「これはちゃうもん、汗やもん」 「汗って」 二人して泣くのがなんだかおかしくって、顔を見合わせては声を出して笑った。あったかい。胸が、財前に触れている場所が、あったかい。じわじわと溶け出したその幸せな感情は、隙間だらけだった心を満たしていく。 「謙也さん、俺謙也さんが好きです」 「うん」 「謙也さんのこと、好きやから泣けるんです。こんなに泣けるくらい、好きなんです」 「うん」 「謙也さんは?謙也さんの気持ち、聞かせてください」 涙を流しながら真っ直ぐに俺だけを見つめてくる財前を、どうしようもなく愛しいと思った。言わなくてもわかっとるやろ。なんて思ったけれど、今はそんな意地悪は言ってやらない。だって、無性に、べたべたに甘やかしてやりたい気分だから。 財前の一回り小さな体をしっかりと抱きすくめて、耳元に唇を寄せて囁きかけた。 「俺がこうやって財前のこと構いたくてしゃあない理由、聞いてや」 「はい、なんですか」 「俺、ずっと財前のこと好きやってん」 自覚はしていなかったけれど、財前の笑顔ばかり願っていた日々を思い出す。あのときの気持ちも、このときの気持ちも、みんなみんな好きという一つの想いから来ていたんだ。それがちゃんと理解できた今、自信を持ってそう言える。 「せやからきっと甘やかしたりたくて、支えたりたくてしゃあなかったんや」 「…おおきに」 こんな俺と出会ってくれて。 そんな風に、愛してくれて。 涙声でそう言った財前はそれから何度も何度も「謙也さん、すき」と呟いてきた。そんな彼があんまりいとおしくて可愛くて仕方なくてもう一度キスを送れば、しょっぱい味がした。 それがどちらのせいかは、もはやわからなかった。 なきむし これはとある泣き虫の 不器用な恋のお話 fin. |