特別何も変わっていないはず、なのに。何かが変わってきている気がした。それは例えば、財前光という後輩に対しての俺の中の感情と、彼から贈られる感情の温度、みたいなものが少しずつ似てきたというか。
「謙也さん、これ」
「ん、おおきに」
放課後の練習中のこと、走り込みを終えてベンチで休んでいるとドリンクを持った財前が俺の元に現れた。差し出されたボトルを受けとると「隣いいですか」と尋ねられる。それに黙って頷けば、彼は拳二個分ほど間隔を空けて俺の隣に腰を下ろした。
「暑いですね」
「せやな。半端ないわ今日」
「なんとかしてください」
「いや、そんなこと言われたかて…」
無茶を言う財前に苦笑をこぼすと彼は「ええー…」と残念そうな声を出した。いやいやお前、俺なんぞに天候を操作できると思うてんかい。
だらんと腕を背凭れに乗せて上を向く財前と、前屈みで頭を垂れる俺。告白した側とされた側という立場であるにも関わらず、二人の間には変な緊張感などは一切感じない。いや、感じさせられないといった方が正しいのかもしれない。財前がそうしてくれているのだと思う、多分。俺が意識しないように財前も意識しないで、普通に接してくれているから。当人同士でなければわからないようなほんの小さな気遣いだけれど、大げさでないそれがなんとなく心地よかったりする。
あんなに拒絶してきたのに。嫌いとまで言って、泣きながら拒んで拒んで、財前に嫌な思いもさせただろうに。思い返せば我ながら女々しくて情けない、面倒なやつだったと思う。それでも財前はこんな俺を知っても尚、真っ直ぐに「好きだ」と、そして「ずっと待つ」と言ってくれた。強く誓ってくれたから、信じてみようかと思えた。諦めて見限ってきたそういう感情をもう一度、信じてみようと。
いつまでも殻に引きこもって後ろ向きに前進するのはもう疲れたから。
財前はあのときから、少しずつだけれど俺との距離を推し測るように接してくれるようになった。前のようにただ前のめりに思いの丈をぶつけようと突っ込んでくるのではなく、あくまで慎重に、それでも不自然ではないように心配りをしてくれているようだった。それと、これは本当に小さなことなのだが、財前の俺を見る目がなんとなくだが優しくなった気がする。こちらが怯むような威圧的なものではなく、尖っていた角が一気に丸くなったというか、そんな柔らかい眼差しで見られている、気がする。今も、横から俺を眺める瞳はほのかに甘い。
「謙也さん、」
「うん?」
「今日のラリー、組んでくれませんか?」
「え?」
それは不意の、何気ない誘いだった。
隣から身を乗り出して顔を覗き込んでくる財前に俺は返事ができなかった。そして、ひどく戸惑った。きっと純粋な練習の誘いなのだろう。さらりと言われた言葉には、そこに潜む下心などは全く感じられない。じっとこちらに視線を投げ掛ける財前の瞳を見つめ返す。
普通に受ければいいだけの話なのに、それでも躊躇した。正直ビビっていた。ぐるぐるといろいろな考えが胸中で渦巻き出して、言葉が出てこなかった。断る理由などないのに、信じてみようと思ったばかりなのに。なぜ戸惑う、なぜ躊躇う。いざとなると肝心の一歩を踏み切るのが怖くてまた足踏み。嫌な汗がこめかみを伝う。
怖いんだと、思う。
「え、あ、えっと、」
「…」
「…その、」
「…あ、もしかして部長とかと組みます?」
言葉を詰まらせる俺にごく自然にそう問いかけてきた財前に、息詰まりがほろりと無くなった気がした。
「お、おん、今日はそうやな、そうしとこうと思っとって…」
「そうっすか。ほんならええですわ」
師範でも誘おかな、なんて独り言を呟く財前にほっと胸を撫で下ろす。なんでこんなに安心するのかは、多分、俺にまだ勇気が足らないから。嫌なトラウマから抜け出して差し出された手をとるだけの勇気が、ないからだ。
つい今しがたまで額から吹き出ていた冷や汗がすうっと引いていく。財前をじっと見つめると、彼は首を傾げた。
「…すまんな、財前」
「なんすか気持ち悪い、そんな顔らしくないですよ」
「…え、今俺どんな顔しとる?」
「情けない顔」
「え!」
「眉下がりまくりのヘタレ顔」
「なっ、ヘタレ言うなやアホ!」
背中をどつこうとした手は宙を舞い、俺の平手をかわして立ち上がった財前はその場で大きく伸びをした。むっと下から睨み付けるように財前を見やれば、彼はふっと目を細めて優しく笑った。普段から仏頂面の財前からはあまり見られないその表情に、不覚にもドキリと心臓が跳ねてしまう。
「まあ、ゆっくりやりましょうか」
倒れんように、お互い。
ラケットで肩をとんとんと叩きながらコートへ戻って行った財前の背中に、思わずため息を吐き出した。そして脱力。お互い倒れんように、か。
財前は待ってくれるって言うた。絶対待つって、言うてくれた。せやから焦る必要はなんかないんや。気長にじっくり、開いてまった距離を埋めてけばええ。さっき財前が優しく諭してくれたんは、多分こういうこと。
覚えさせられたほんの少しの余裕は、俺の心を穏やかにさせた。